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園長室

園長だより  

2026年度5月園だより

 幼稚園で子どもたちが楽しく遊んでいます。元気で可愛い子どもたちの声が園庭に響いています。様子を見に出ていくと、「園長先生来て」、「どうしたの」、「虫さんがいる」、私が「ダンゴムシ?」と聞くと「違うよ。ほら」とラベンダーのところに連れて行ってくれました。そこにはハチが来ていました。ラベンダーの花の蜜に来たのでしょうか?
 幼稚園が始まって一ヶ月、新しい生活の中で、子どもたちは、たくさんの新発見に驚きながら、新しい生活を楽しんでいます。ラベンダーの花にハチが飛んでくる。それも子供達乗っては新鮮な驚き、不思議なのです。そんなたくさんの不思議と出会い、驚き、感動する経験を積み重ねていく中で、子どもたちの心が豊かに育てられることでしょう。そしてそんなたくさんの不思議を造られた神様の素晴らしさにも子供達は感動しているでしょう。
 そんな豊かな5月となりますように。
 どうぞよろしくお願いいたします。

5月の聖句
これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。  マルコによる福音書12章11節

2026年度4月園だより

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」マタイによる福音書14章27節
 4月、新しい年度の保育が始まりました。
 初めての園生活、一つ大きくなった喜び、ワクワク感、それらと同時に不安もあります。それは子どもたちだけではなく、実は教職員も同じです。
 先日、盛大な泣き声が聞こえていた翌日、保育室を訪ねてみました。昨日ほどではありませんが、まだ不安なのか、寂しいのか、泣きそうな表情で抱っこされている子がたくさんいました。そのうちの一人をわたしも担任にお願いして抱っこさせていただきました。とても安らかな温かい気持ちになりました。新しい生活、不安も期待も入り混じった子どもたちが、その全てを保育者に委ねてくれている、預けてくれている、そんな子どもたちとの新しい出会いに大きな喜びを感じました。
 そして「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」という4月の聖書の言葉が心の中に聞こえてきました。神様がこんな素晴らしい出会いを備えてくださったことを喜び、感謝して新しい年の保育に励んでまいります。
 2026年度もどうぞよろしくお願いいたします。
 
年間聖句
主があなたと共におられる。  ルカによる福音書 第1章28節

4月の聖句
安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。  マタイによる福音書14章27節

2025年度3月園だより

 寒さも緩み、春が近く感じられます。昨日(2月24日)から久しぶりの雨、外で遊べなかったり、園外保育に行けないのは残念ですが、これで渇水問題が少しは改善しないか。昨年の悪夢のような山火事がこれで起きなくなるといいななどという意味では少しホッとしています。終礼に出る前に預かりの子どもとサッカーをしていて、ついつい夢中になって終礼の時間を忘れていて、先生から「ゴール良かったですね。終礼の時間です。」と言われてしまいました。
 いよいよ三月、子どもたちは、日に日に増えていく春の光にも増して、成長の喜び、お友達や先生と一緒にいる喜びに輝いています。その姿を喜びながらも、一抹の寂しさを覚えて、ため息が出たりもします。
 幼稚園の生活、幼稚園の先生って、寂しいことですが、具体的な記憶は残らないようです。巣立っていく子どもたちその人生の歩みを神様が見守って、導いてくださること、一人で抱え込まないで、嬉しいことも、辛いことも、みんなと分かち合って、元気に楽しく歩んでほしいと心から願っています。神様が子どもたち一人一人に道を備えてくださいます。
 幼稚園生活も実質は一月もありません。「一月もない」と考えず、「一月もある」と考えて保育に励みます。短いと考えるのは大人の感覚、この期間でも子どもたちはグーンと成長して輝いてくれます。楽しみです。
 三月、どうぞよろしくお願いいたします。
 
3月の聖句
主が一歩一歩を備えてくださる。  箴言第16:9

2025年度2月園だより

 一年で一番寒い季節を過ごしています。
 寒い中でも元気よく園庭で走り回っている子どもたちの姿、嬉しそうな声に心が温められています。また生活発表会に向けてとても楽しく取り組んでいます。みんなとても楽しみにしています。心配なのは感染症のことです。
 楽しそうに遊ぶ子どもたち、礼拝の時には真剣に話を聞いてくれる子どもたち、賛美歌を歌う声はとてもきれいで喜びにあふれています。そんな子どもたちの姿は愛される喜び、生きる喜びに輝いていて、見ていてとても嬉しくなります。
 保育の総仕上げの三学期の今、願うことは、愛される喜びに輝いている子どもたちが、幼稚園でお友達と仲良く(時々はケンカしたり、ぶつかり合いをしてもOK)楽しくいっぱい遊んでくれることです。
 残り少ない日々、どうぞよろしくお願いします。

2月の聖句
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。  ヨハネによる福音書 15章12節

2025年度1月園だより

 お正月、皆様いかがお過ごしでしたか。
 皆様の新しい年に祝福をお祈りいたします。
 クリスマス。子どもたちは素晴らしい成長の姿を見せてくれました。喜びと感謝のうちに二学期を終えることができました。
 そして三学期、1月、2月、3月、春に向かって子どもたちは加速度的に成長していく姿を見せてくれます。すごく楽しみです。
 1月の聖句はイエス・キリストの子ども時代を一言でまとめたらこうなるという言葉です。イエスは神と人から愛されて育ちました。だから神と人とを愛する人となれたのです。
 私は、子どもたちが育っていく過程で最も大切なことは愛されることであると思います。幼稚園の面接の時には「神を敬い、人を愛する人に育ってほしい」という願いのもとに保育を行なっていますとお伝えしています。そのためには愛されることが必要です。愛されることは「大切にされること」と言い換えることができます。そこを基礎として子どもたちは愛する人、誰かを大切にする人へと育っていくのです。
 三学期、子どもたちが元気に楽しくいっぱい遊んで、お友達や先生ともっともっと仲良くなって、愛される喜び、成長する喜びに輝く日々となりますように。
 残り少ない日々、どうぞよろしくお願いいたします。

1月の聖句
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。  ルカによる福音書2章52節

2025年度12月園だより

 12月となりました。いよいよ冬、今の所、朝夕は冷えますが、日中、お日様が出ると暖かく、子どもたちはお外で元気に遊んでいます。また子どもたち、長い二学期の最後のお楽しみはクリスマスです。イエス様のお誕生をみんなでお祝いしようと張り切って過ごしています。子どもたちとクリスマスをお祝いすることがとても楽しみです。
 クリスマス、寒いけれども暖かい。何だかウキウキします。そのウキウキ感の根っこにはイエス様がお生まれになって、私たちと一緒にいてくださるという喜びの出来事があります。クリスマスの一番の贈り物はイエス様のお誕生なのです。
 イエス様が一緒にいてくださるっていてもどこいるの?見えないじゃん!そう思って当然です。イエス様は目に見えません。でも、幼稚園での楽しい生活を通して、子どもたちに神様に愛されている実感、イエス様が一緒にいてくださる喜びを感じてほしいと願っています。嬉しいクリスマスにしたいものです。
 そんなクリスマスをより嬉しくするのは、誰かに優しいことをすることです。どんな小さなことでも良いからやってみてください。嬉しい笑顔のクリスマスになることでしょう。
 インフルエンザも流行ってきました、みんなで元気にクリスマスをお祝いできますように。
 12月もどうぞよろしくお願いします。

12月の聖句
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。  マタイによる福音書1章23節

2025年度11月園だより

 すっかり秋になりました。朝夕は肌寒く感じられます。
 園庭には子どもたちの楽しそうな声が響いています。道路一つ隔てた私の住まいまで聞こえてきます。その楽しそうな声に惹かれて園庭に出てみると子どもたちが走り寄ってきてくれます。嬉しいですねえ。
 運動会はありがとうございました。皆様とご一緒に子どもたちの成長の姿を喜び、共に楽しむことができました。会場いっぱいに幸せの花が咲き誇っていました。
 子どもたちが楽しそうに遊ぶ姿、家族、教職員、お友だちと一緒に楽しく遊ぶ幼稚園の生活の中で子どもたちは生きる喜び、生きる力を自然に身につけていきます。神様の愛に包まれてすくすくと大きくなっていってほしいと心から願います。またそのお手伝いを心込めてさせていただきます。そんなみのりの秋、後半、とても楽しみです。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 
11月の聖句
『神は愛です。』  ヨハネの手紙Ⅰ4章16節

2025年度10月園だより

 10月、ようやく秋らしくなりました。振り返れば6月下旬から9月初旬まで猛暑のために外で遊ぶことがほとんどできませんでした。外で元気に遊ぶことができないことを補うために教師たちも一生懸命工夫してくれました。やっと園庭で子どもたちが元気よく遊ぶ姿も見られるようになりました。元気に体を動かして楽しんでいる子どもたちの姿を見ていると嬉しくなります。
 命、それは親を通して与えられた神様からの最高の贈り物です。誰も自分の力で命を得た人はいません。素晴らしい贈り物をいただいたら、「ありがとう」と言うことでしょう。そしていただいた贈り物を大切にするでしょう。
 命そして体という素晴らしい贈り物をいただいて、ありがとうの心で、その贈り物を大切にしてほしい。体という素晴らしい贈り物を大切にして思い切り楽しんでほしいと願います。そしてそれをご家庭の皆様と共に喜び合いたいです。特に運動会、楽しみです。そして体を思い切り動かして楽しむ実りの秋を過ごしてほしいと思います。
 10月もどうぞよろしくお願いします。
 
10月の聖句
あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのです。  ペテロの手紙Ⅰ 第4章10節

2025年度9月園だより

 残暑厳しい日々が続いています。夏の間、いかがお過ごしでしたか。私は、名古屋、東京、岩手(妻の実家へ帰省)、京都と出張の多い夏でした。とても有意義な夏を過ごすことができ、二学期に取り組む意欲と元気を与えられました。
 さて、わたしたちの人生で大切なものはなんでしょうか?健康、財産、地位、能力、もちろんそれらはとても大切です。私はそれら以外の大切なものとして「関係」があると思います。人と人との関係、様々な命との関係(ペットなど)、地球環境(自然)との関係などです。「関係」は目に見えません。しかし、わたしは最後まで残る大切な物は「関係」であると思います。地位も能力も健康も年齢とともに変化し、うつろいやすいものです。それに対して関係は大切にすればするほど、年齢に関係なく、人生を豊かに支える宝物となります。
 九月の聖書として取り上げられている詩篇23編は聖書の中でもとりわけ愛されている詩です。この詩では、神が羊飼いとして共にいてくださり、慰め、励まし、助け、導いてくださる関係の素晴らしさが述べられています。この神との関係がダビデに残された最後のそして最も尊い宝物だったのす。
 そしてダビデはこれさえあれば何も欠けてはいないと心から思えました。そしてこの詩を書いたのです。ダビデも人間ですから、過ちを犯すこともありました。神に背いたこともありました。その度にダビデは過ちに気づいた時には神にお詫びをし、神はダビデを許して、常に羊飼いであり続けました。
 そんな神との愛の関係が子どもたちにも与えられていることを幼稚園の保育を通して伝えてまいりたいと思います。
 
9月の聖句
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。  詩編23編1節

2025年度7月園だより

 梅雨も明けました。夏本番です。皆さま、いかがお過ごしですか。
 先日の家族招待礼拝はたくさんのご家庭の皆様と礼拝をご一緒できて嬉しかったです。ありがとうございました。最近、戦争の悲しいお知らせが続いています。そこでは尊い命が傷つけられたり、失われたりしています。そのような中で、ふと園庭を見ると子どもたちが楽しそうに遊んでいます。これほどありがたいことはないと心から思います。そして日々喜んでいます。この風景がいつまでも続くようにと心から願います。決して当たり前のこととは思わないで心から感謝したいと思います。幼稚園の喜びと感謝の源は、神様に守られて、子どもたちと共にたくさん遊んで一緒に成長できることです。
 7月もどうぞよろしくお願いいたします。
 
7月の聖句
いつも喜んでいなさい。絶えずいのりなさい。どんなことにも感謝しなさい。
                             テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16~18節

2025年度6月園だより

 この言葉を読むと、私は大好きな小説「少女パレアナ」を思い出します。
 パレアナのお父さんは牧師でした。幼い頃、パレアナはそのお父さんから「喜びの遊び」を教えてもらいました。どんなことでも、そこに喜びを見つけるという遊びです。
 パレアナのお父さんが亡くなられ、パレアナはおばさんに預けられることとなりました。パレアナは美しい絵のかかったお部屋を期待していました。しかし、与えられたお部屋は何もない殺風景なお部屋でした。がっかりしたパレアナでしたが、窓から見える風景はとても綺麗でした。パレアナは「お部屋には綺麗な絵がなかったけれど、窓から見える景色はどんな絵よりも綺麗なことを喜ぶ」ことにしたのでした。この喜びの遊びをパレアナは町の人たちに伝え、町は幸せに包まれていくのでした。
 今月の聖書の言葉は「欲しいものはなんでも与えられる」とも読めますが、そういうことではありません。私たちが願い求めるとき、神様はその願いを確かに聞いてくださっています。その上で、神様は私たちのことを考えて、一番良いことをしてくださいます。それは私たちが求めていたことと同じではないこともあります。私たちが求める以上の素晴らしいことをしてくださいます。
 自分の願い通りにならなくても、神様は一番良いことをしてくださいます。そんな神様への基本的な信頼が子供達の心に育って欲しいと願います。この聖書を読んでいて少女パレアナの「喜びの遊び」を思い出したのでした。

6月の聖句
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。  マタイによる福音書7章 7節

2025年度5月園だより

 新学期が始まりました。暑くもなく、寒くもない一番良い季節です。
 子どもたちも、最近では預かり保育が春休み中に始まっていることで、ずいぶん早く幼稚園に慣れて来ています。昔ならこの時期は新入園児の泣き声が聞こえていたのですが、あまりそれを聞かなくなりました。その段階は春休み中にすでに経験しているのでした。
 今、幼稚園では子どもたちが元気に外遊びを楽しんでいます。そのそばで赤いチューリップ、黄色いチューリップ、とても綺麗に咲いています。
 イエス・キリストも花を愛されました。豪華な花ではなく、道端にひっそりと咲く野の花の美しさを特に愛されました。昔、イスラエルにはソロモンという王様がいました。ソロモンは知恵に優れ、イスラエル史上最大の繁栄をもたらしました。当然、壮麗な宮殿に住み、豪華な衣装に包まれていました。イエス・キリストはそのような豪華絢爛なソロモン王の衣装よりも、野に咲く花の美しさの方が優っていると言いました。人間の経済力も権力も、神様が作られた花の美しさに及ばないとしたのです。王様の豪華な装いに野の花を美しく着飾ってくださった神様は、それよりもはるかに大きな愛を私たち人間に注いでくださっています。花の美しさは神様の大きな愛を私たちに示しています。
 幼稚園の生活を通して、子どもたちが神様に愛されている喜びを、さまざまな自然を手がかりとして伝えていきたいと思います。そして喜びに満ちた幼稚園の生活を始めてまいります。新年度、どうぞよろしくお願いいたします。
 
5月の聖句
野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。  マタイによる福音書6章28節

2025年度4月園だより

 春、2025年度、新しい出会いが始まりました。
 入園、進級、おめでとうございます。
 今年もキリスト教保育を通して、神と人から愛されている喜びを子どもたちに伝え、生きる喜び、成長する喜び、生きる力を育み、子どもさんとご家庭の幸せづくりのお手伝いを心を込めてさせていただきたいと思います。
 さて、めぐみ幼稚園では神様を敬い、人を愛する人に育ってほしいと願っています。人は独りでは生きていけません。神様は私たちを、お互いを大切にし、支え合って「ともに(共に)」生きる者としてくださいました。
 その共に生きる形は、豊かです。家族、友だちなど様々な豊かな関わり、そして幼稚園での共同生活の中で、子どもたちが「ともに(共に)」生きる喜びに輝きながら、それぞれの個性を発揮して成長していく一年としたいと祈り願いつつ保育に励んでまいります。
 新年度もどうぞよろしくお願いいたします。
 
年間聖句
わたしはあなたと共にいる。  イザヤ書第43章5節
 
4月の聖句
あなたがたは神に愛されている子供です。  エフェソの信徒への手紙 第5章1節

2024年度3月園だより

 寒い冬もすこしずつその寒さが緩んできたように思います。
 子どもたちは元気に遊んでいます。楽しい声が園庭から聞こえてきます。その声にとても励まされます。癒されます。
 三学期、子どもたちがお友達や先生と一緒に遊ぶことができることをとても喜んでいます。その姿が充実していると感じます。とてもまぶしい光景です。
 人は一人では生きていけません。人は一人で育つことはできません。誰かとつながって生きていきます。誰かとつながって育っていきます。
 そのつながりが愛情あふれる温かいつながりであることを願って保育して参りました。そのつながりの根っこには神様の愛があることを信じて保育を続けています。
 これから子どもたちは新しい年度、新しい歩みを初めていきます。その歩みの中でも神様が一緒にいて守ってくださる。見守ってくださっていることをもう一度子どもたちに伝えたいと思います。
 そして安心して、積極的に、矛盾するようですが、ワクワクドキドキしながら歩み出してほしいと心から願っています。
 本当にあとわずかとなってしまいましたが、どうぞ3月もよろしくお願いいたします。
 
3月の聖句
私はあなたと共にいる。  イザヤ書第43:5

2024年度2月園だより

 寒い日々が続いています。
 私は今治にまいりまして9年目になりますが、この冬が一番寒いように思えます。
 さて、聖書には時々不思議な言葉が出てきます。
 「弱い時に強い」ってどういうことでしょうか?
 この言葉を書いたパウロは、目の病気があったと言われています。この病気が治れば、自分はもっと強くなれるのに、もっとたくさん働けるのに・・・そう思ってパウロは一生懸命お祈りしました。しかし、病気は治りませんでした。それどころか神様は「私の恵みはあなたに対して十分である」とまで言われるのです。これってどういうこと?パウロはとても悩みました。
 その中でパウロは気づいたことがありました。目が悪いから、誰かに助けてもらわなければなりません。自分を助けてくれる素敵な仲間、友達がたくさんいることに気づきました。助けてもらうたびに「ありがとう」と言わなければなりません。でも、素直に「ありがとう」と言えること、お互いがにっこり笑顔になれることが嬉しくなりました。たくさんの仲間に助けてもらって、ありがとうと言い合って一緒にいられること、これはとても嬉しいこと、ありがたいことだと思うようになりました。目が悪くても、一緒にいてくれる仲間がいるって素敵なこと、もしかしたら目が悪くなかったらこうはならなかったかもしれない。
次第にパウロはそう思うようになったのです。弱い時にも、神様のお恵みをいただくことができる。そんな不思議なことがある。弱さの中で出会える恵みがある。支え合って一緒に歩む喜びがある。そのこと、幼稚園でも気付かされることが多いです。
弱さが強さにつながるそんな不思議な素晴らしい世界を大切にしたいです。
 2月もどうぞよろしくお願いします。

2月の聖句
わたしは弱いときにこそ強いからです。  コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章10節

2024年度1月園だより

 お正月、皆様いかがお過ごしでしたか。
 皆様の新しい年に祝福をお祈りいたします。
 いよいよ三学期が始まりました。1月、2月、3月、子どもたちはそれこそ加速度的に成長してく姿を見せてくれます。
 1月の聖句は「受けるよりは与える方が幸いである」というなんだか不思議な言葉です。与えるよりも受ける方が良くないですか?必ずしもそうではありません。これは「分かち合い」の素晴らしさを伝えています。嬉しいことを誰かと分かち合うと増えます。悲しいことを誰かと分かち合うと減ります(少し気持ちが楽になります)。でもそれはお互いが仲良しであることが前提です。1学期、二学期を過ごして、子どもたちはお互いとても仲良くなりました。交わりが深まりました。その交わりの深まりの中で、嬉しいことも悲しいことも与え合って、分かち合って、より喜びに溢れた歩みが始まっていくことでしょう。
 ご家庭の皆様とも、この三学期ご家庭の皆様と子どもたちの成長の喜びを分かち合って歩んでいけますように。どうぞよろしくお願いいたします。

1月の聖句
受けるよりは与える方が幸いである。  使徒言行録第20章35節

2024年度12月園だより

 12月となります。
 寒いけれども暖かい。クリスマスに期待が膨らみます。
「さあ、ベツレヘムへ行こう」イエス・キリストの誕生の知らせを聞いた羊飼いたちは心弾ませて、出かけました。イエス・キリストとの出会いにとてもおおきな喜びがあるのです。それは私たち全てを心から愛してくださる神様の愛との出会いです。
私たちも羊飼いのようにワクワクと心躍らせてクリマスをお祝いしたいと思います。
 もう一つ、この聖書の言葉を読んでいて思ったのですが、イエス・キリストも、私たちと出会うことにとてもワクワクしていたのではないかと。愛する世界、愛する人間たち、愛する私たちとの出会いをワクワクしながら、イエス・キリストは生まれてきてくださったのです。
 そんな嬉しいクリスマスを喜びに満ちてお祝いし、二学期の保育を締めくくりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

12月の聖句
「さあ、ベツレヘムへ行こう」  ルカによる福音書2章15節

2024年度11月園だより

 ようやく秋となりました。
 暑くもなく、寒くもなく、園庭では子どもたちが元気に遊んでいます。
 運動会でたくさんのご出席をいただき、ご声援をありがとうございました。
 おかげさまで子どもたちは体を動かすことの楽しみをますます豊かに味わい、自信に満ちて躍動しています。
 そんな子どもたちの様子を見ていて、「幼稚園」という言葉の起源を思いました。
「幼稚学校」ではなく「幼稚園」なのです。「幼な子の学校」ではなく、「幼な子の園」なのです。
 この「幼稚園」という言葉を始めたのはフレーベルです。フレーベルによると子どもたちは幼稚園という「園」に咲く花々です。皆違います。でも世界にただ一つの美しさ、尊さを持っています。そのように子どもたちは神様からいただいているかけがえのない存在なのです。
 そして子どもたちは、それぞれに豊かに育つ力を神様からいただいています。私たち幼稚園の教職員は、神様が子どもたちにお与えになった豊かに育つ力を信じて、そのお手伝い、お世話をさせていただくのです。それが幼稚園が「子どもの園」と呼ばれる理由です。
 園庭でのびのびと楽しく遊ぶ子どもたち、その姿はどれも個性的で、輝いています。まさしく園に咲く花々のようです。
神様がお与えになった育つ力を信じて、実りの秋の喜びを期待して、保育に励んでまいりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 
11月の聖句
成長させてくださったのは神です。  コリントの信徒への手紙Ⅰ3章6節

2024年度10月園だより

 少しだけ涼しくなりました。
 二学期が始まった当初はあまりの暑さに子どもたちも外で遊ぶことができないでいましたが、最近になってやっと子どもたちが外で遊ぶことができるようになりました。
 園庭に子どもたちの楽しげな声が聞こえると嬉しくなります。実りの秋がすぐそこにきています。
 そうやって園庭で楽しく遊んでいる子どもたちを見ていますと好きなお友達を見つけ、好きな遊びを存分に楽しんでいます。
 危険な暑さの中で外遊びは制限せざるを得ませんでしたが、子どもたちそれぞれに豊かに成長している姿を見ることができてとても嬉しいです。
 幼稚園生活に慣れて、お友達と一緒に遊びを楽しみ、一緒に成長していく充実した二学期になることを期待しています。特に直近の運動会でご家庭の皆様に見守られ、先生やお友達と一緒に思いっきり体を動かして楽しむ姿を見ていただけることでしょう。
 そんな充実したみのりの秋のために保育に励んでまいります。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 
10月の聖句
ひとりよりもふたりが良い。  コへレトの言葉 第4章9節

2024年度9月園だより

 二学期が始まりました。
 まだまだ厳しい暑さが続いています。夏休みはいかがお過ごしでしたか。
 私は7キロ痩せました。主にジョギングです。月間走行距離、7月、8月はそれぞれ250キロ走りました。これだけ頑張ったらもう少し痩せていても良いはずなのですが・・・・やっぱり歳のせいか、痩せにくくなりました。
 さて、私が大切にしている本が三冊あります。聖書、「ハイジ」、そして「少女パレアナ」です。今月はパレアナのお話をします。パレアナは父親から「喜びの遊び」を教わりました。それはどんなことの中にも喜びを見つけて喜ぶという遊びです。
例えば、「与えられた部屋には、素敵な絵が一枚もなかった。でも、窓から見る景色はどんな絵よりも美しい。そのことを喜ぶ。」と言った感じです。パレアナが伝えた「喜びの遊び」は少しずつ町の人々に広まり、町中に幸せな笑顔が広がっていきました。
 私たちの日常生活のいろいろなことの中に、神様は喜びを備えてくださっています。それに気づく「喜びの遊び」を皆さまもやってみませんか?
 私はこの二学期、幼稚園の生活の中でこの「喜びの遊び」をやってみます。そして皆さまと共にたくさんの喜びに満たされた二学期となることを楽しみにしたいと思います。
 どうぞよろしくお願いします。

9月の聖句
主において常に喜びなさい。  フィリピの信徒への手紙第4章4節

2024年度7月園だより

今のところ、厳しい暑さにはなっていないようですね。
 あっというまに一学期が終わろうとしています。
 子どもたちは幼稚園の暮らしにも慣れ、元気に遊んでいます。お友だち同士のつながりが次第に強くなって、一緒に遊ぶ楽しさが園庭に溢れています。
楽しい幼稚園の生活を通して、子どもたちが愛されていることを実感し、「潤った」心を豊かに育みつつあることが嬉しいです。
 愛されている子どもって、どこか「潤って」見えるのです。
 幼児期にたくさん愛されて、心を愛で潤されて、すくすくと育っていってほしいと心から願います。愛された日々を過ごした子どもは自分を大切に生きていくことができます。その幸せな日々は、誰かを大切に、誰かを愛して生きることができるようになります。
 そんな自分を大切に、そして出会う人を大切できる人間形成に幼稚園がお役に立てますように。残り少ない一学期をどうぞよろしくお願いいたします。

7月の聖句
隣人を自分のように愛しなさい。  マルコによる福音書12章31節

2024年度6月園だより

 園庭のベンチに腰掛けて子どもたちの外遊びの様子を見ていました。
 随分と活発になってきましたし、違う年齢の子同士の交わりも見られてきました。
 嬉しそうに元気に園庭を走り回っています。暑くもなく、寒くもない、外で遊ぶには一番良い季節ですね。
 ある子が、「このお空は神様が作ったんだよね」と言って、すぐに走って行きました。
 遠足の時のお話を聞いてくれていたのですね。嬉しくなりました。
 ある子は園庭のイチゴを探していました。緑の葉っぱをかき分けて真っ赤なイチゴを見つけるととても喜んでいました。
 空も海もそしてイチゴも神様が愛情を込めて作った世界の一部です。神様は世界をお作りになった後、とても良くできたと喜ばれ、世界を祝福されました。
 その神様の喜びとする世界、祝福された世界で生きることを目一杯喜んで、思いっきり楽しく遊んで大きくなってほしいと心から願います。

6月の聖句
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。  創世記1章31節

2024年度5月園だより

 4月は、例年と比べて少し肌寒い春でした。まだ泣き声も聞こえますが、子どもたちは少しずつ幼稚園に慣れてきています。お天気の良い日には外で楽しく遊んだり、幼稚園の生活の中で自分の楽しいことを見つけ始めています。またお休みのお知らせも例年と比べて少ないようで嬉しく思っています。
 新しい年度、子どもたちの成長がとても楽しみです。
 今月の聖書、漁師たちはイエスの言葉を信じて、素晴らしい収穫を得ることができました。
 子どもたちの内に秘められた成長する力、それは神様がお与えになった素晴らしい贈り物です。
 その贈り物の可能性を信じて、自分たちの先入観によらないで子どもたちに寄り添って歩んで参ります。そのようにしてわたしたちはこの素晴らしい可能性を信じて、心込めて保育を行ってまいります。私たちの想像を超えた素晴らしい成長の姿を子ども達は見せてくれることでしょう。
 とても楽しみです。5月もどうぞよろしくお願いいたします。

5月の聖句
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。  ルカによる福音書第5章4節

2024年度4月園だより

年間聖句
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」   
 ヨハネによる福音書第14章6節
 
 春、2024年度、新しい出会いが始まりました。
 入園、進級、おめでとうございます。
 今年もキリスト教保育を通して、神と人から愛されている喜びを伝え、生きる喜び、生きる力を育み、子どもさんとご家庭の幸せづくりのお手伝いをさせていただきます。
 さて、めぐみ幼稚園では神様を敬い、人を愛する人に育ってほしいと願っています。「神様を敬い」という時、具体的には礼拝を通して、イエス・キリストという人の素晴らしさを子どもたちに伝え、イエス・キリストを大好きになってもらうところから始めたいと思います。イエス・キリストは子どもたちが大好きでした。そのイエス・キリストの愛が、子どもたちが神様を知り、神様を敬う手掛かりになります。そして子どもたちは自然に神様に愛されていることを喜び、神様を敬う子どもへと育っていってくれることと信じます。
 神様を敬い、人を愛する心は、きっと子どもたちの生きる喜び、生きる力につながっていくことでしょう。
 新年度もどうぞよろしくお願いいたします。
 
4月の聖句
新しい歌を主に向かって歌え。  詩編 第96章1節

2023年度3月園だより

 毎週、子どもたちは礼拝ではしっかりとお話を聞いてくれます。すごく嬉しいです。先日の礼拝では、それに加えて、さらに嬉しかったことがありました。
 「良きサマリア人」のお話をしたことです。このお話は、深刻な対立関係にあったユダヤ人とサマリア人であるのに、怪我をしているユダヤ人を、ユダヤ人は見捨てて、サマリア人が助けたというお話でした。子どもたちに「みんなは意地悪するお友達が困っていたらどうする?助けてあげる?」と聞きましたら、子どもたちは口々に「助けてあげる」と答えてくれました。子どもたちの優しい心がすごく嬉しかったのです。
 聖書のお話を毎週礼拝で子どもたちに伝えてきて、子どもたちが神様に喜ばれる生き方「良い道」を自然に身につけていることを思わせられて、本当感謝です。
 残りわずかな三月の歩みですが、最後まで子どもたちとの出会いを感謝し、精一杯保育に励んでまいります。どうぞよろしくお願いしたします。
 
3月の聖句
主よ、あなたの道をお教えください。  詩編86:11

2023年度1月園だより

 新しい年となりました。
 12月にガリラヤ館が完成致しましたが、そこに至るまでのご協力ありがとうございました。
さて、コロナ禍以降、「密」という言葉に悪いイメージがついてしまったように思います。感染防止のためやむを得ないことでしたが、本来、これはとても残念なことです。人と人との距離が近いこと「密」であることは、本来は良いことのはずです。それは心の近さ、心のつながりの強さ、豊かさにつながっているからです。それは感染防止とは全く別の次元でとても大切なことです。
 三学期、保育の総仕上げの時期となりました。あえて子どもたちとの心の距離を「密」にして、しっかりとつながって、保育の励んでまいりたいと思います。毎日の生活を通して、神様とのつながり、教師と子どものつながり、子ども同士のつながりを大切にしてまいります。そのつながりが、豊かに実を結ぶ春を迎えられますように。
 どうぞ今学期もよろしくお願いいたします。

1月の聖句
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。  ヨハネによる福音書 15章5節

2023年度12月園だより

 私が24歳、駆け出しの頃の話です。友達のところに遊びに出掛けたら、彼がこれから「○○会に行く」と言いました。好奇心旺盛な私が「僕も行っていい?」と言いますと、彼は「別にいいんじゃないかな。」と言いました。そこで私も彼の後について行ったのですが、会場は有名なレストランでした。集まってきた人たちは年配の立派な身なりの人ばかり、後から分かったのですが、クリスチャンの経営者の会合でした。今でいう「これはやばい。偉い人ばっかり。どうしよう。」と思ったのですが、「あとの祭り」です。それでも会に集まって来られた方々は暖かく私を受け入れてくださいました。そしていつもその会合の「しめの一言」を言われる方の言葉が忘れられません。その方はこう言われたのです。
「幼子は、神がこの世界に決して絶望してはおられないのだというメッセージを携えて生まれて来る。」この言葉に深い感動を覚えました。この言葉は、インドの詩人タゴールの言葉だそうです。
 今、この世界には大きな不安があります。イスラエル、ロシア、ミャンマーなど終わりのない争い、抑圧が続いています。先日はミサイル(人工衛星?)が日本上空を通過して、とても恐ろしい思いをしました。至る所で終わりの見えない対立が起こっています。幼稚園に通っている子どもたちと同じ子どもたちが、戦いに怯え、傷つき、命を失っています。そのようなどうしようもない世界に対して、神は絶望しておられない。そのメッセージが幼子の誕生であるというのです。子ども達の存在、新しい命の誕生は私たちの希望です。そのようなメッセージを携えて、クリスマス、イエス・キリストがお生まれになりました。この世界に対して神は決して、絶望してはおられません。神は私たちを見捨てたりはされません。そのような希望のメッセージを込めて、クリスマスにイエスはお生まれになりました。この喜びを皆様と分かち合い、希望を新たにして、お互いに愛し合い、助け合う歩みを始めていきたいと思います。二学期も残り少なくなりました。どうぞよろしくお願いいたします。

12月の聖句
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。  イザヤ書9章5節

2023年度11月園だより

 この聖書の言葉には全世界を造られた神への賛美と感謝の想いが満ち溢れています。
 世界は神が心を込めて、愛を込めて造り上げた最高の作品であり、神の喜びとするものでした。神は光をもたらし、朝と夜を分け、海と陸地を分け、時の営み、季節の営みを定められました。そして海、陸、空を命で満たされました。そのようにして造られた世界を見て、神は大いに喜び、この世界を祝福されたのです。
 この自然の営みは神の配慮に満ちています。太陽の光、海や川の水、豊かな実りをもたらす自然の営み、目に見えないけれど、命を養うために決して欠くことのできない空気、世界は神の数えきれないほどの配慮によって保たれています。
 神が造られた素晴らしい世界にあって、人間は、神との愛の交わりに生き、神の恵みを喜び、感謝します。この世界は、私たちが生きる喜び、生かされている喜び、共に生きる喜びを表現し、神を褒め称える「賛美のステージ」なのです。
 この世界は、神が私たちに委ねてくださった尊い「贈り物」です。前任の幼稚園で、子どもたちに、「贈り物をもらったらどうする?」と尋ねたら、「ありがとうと言う」と答えました。「それからその贈り物をどうする?」とさらに問うと「大事にする」と答えました。この子どもたちの声に大切な真理があります。
 この世界は神の愛の贈り物で満ちています。秋の季節、収穫の季節、自然の充実を感じます。豊かな実りを感じます。その一つ一つを与えてくださった神に、子どもたちと共に感謝し、賛美し、喜びに満ちてこの世界を生き、大切にする心を育んでいきたいと思います。

11月の聖句
地はお造りになったものに満ちている。  詩編104編24節

2023年度10月園だより

 10月といえば、もう秋のはずですが、まだまだ暑さが続いています。それでも朝夕はずいぶん過ごしやすくなりました。また、ようやく日中の外遊びも少しずつできるようになりました。子どもたちは運動会を楽しみに幼稚園で元気に遊んでいます。
 二学期になり、友達との関係も深まってきました。クラスとしてのまとまりもだんだんできてきました。そんな中10月の聖句が心に響きました。
「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ヨハネによる福音書10章16節
 集団がまとまるためには、中心が必要です。幼稚園であれば、各クラスの中心は担任であり、その担任がしっかりとクラス全体を配慮する時、クラスのまとまりはグッと深まり、またお互いの友達関係も深まります。
 さらに深いところでは私たちの幼稚園の中心はイエス・キリストによって表された神であり、神様を礼拝し、神様を敬うことによって、私たちは神様を中心に深く結び合わされ、しっかりとしたまとまりある集団へと育っていきます。
 二学期、そのようにして集団生活のまとまりを育て、みのりの秋を過ごしたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
10月の聖句
羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 ヨハネによる福音書第10章16節

2023年度9月園だより

 猛暑の中、夏季保育が行われました。預かり保育にたくさんの子どもたちがきていますが、やはり全園児登園しての保育は大きな喜びです。
 一日目は再会を喜び、二日目は誕生会と礼拝、三日目は夏祭りと楽しさ山盛りの三日間でした。二日目は誕生会に続いて礼拝を行いました。お祝いの子どもはなんと14人、一人一人をお祝いするのには、当然のことながら、かなり時間がかかりました。保護者の方もおいでになって子どもたちは興奮状態、この後に礼拝を落ち着いて守れるかな?そもそも無理なことだったかな?と心配していましたら、誕生会が終わると共にスッと雰囲気が落ち着いて、いつものようにとても落ち着いた礼拝を守ることができました。子どもたちの気持ちの切り替えと集中力、お話を聞く力に感心してしまいました。三日目の夏祭りは、かき氷、ヨーヨーつり、魚釣り、輪投げなどなど、楽しいこと山盛りでした。
 人はパンだけで生きるものではない。(ルカによる福音書第4章4節)
 人は、食べ物だけで生きるのではありません。食べ物だけ与えられていても人間の命は、本来の輝きを放つことはできません。人は、神様の愛に守られ、人同士の生き生きとした愛の交わりの中で生きていくのです。成長していくのです。その時、子どもたちの命は豊かに輝くのです。
 2️学期、たくさんの楽しいことが待っています。遊びの中で楽しみながら、喜びながら、時にはぶつかり合って、豊かな交わり、コミュニケーションの中で、子どもたちの生きる喜びと豊かな成長を果たしていきます。子どもたちの命が生き生きと輝く姿が楽しみです。2学期もどうぞよろしくお願いいたします。

9月の聖句
人はパンだけで生きるものではない。 ルカによる福音書第4章4節

2023年度7月園だより

 暑くなってきました。プール遊びも始まりました。よほど楽しいのかプール遊びを楽しむ子どもたちの歓声は、道一つ隔てた私の執務室まで聞こえます。
 6月25日の家族招待礼拝はとても幸せな時間でした。コロナ禍で2020年から中断し、以来3年ぶりの開催となりました。駐車場が日吉小学校ということで皆様にご不便をおかけました。ご理解ご協力、ありがとうございました。
 また、ガリラヤ館建築工事が始まっております。長きにわたる工事で皆様方にご不便をおかけしております。こちらへのご理解とご協力にも重ねて御礼申し上げます。
 さて、私、中学生の頃新聞配達のアルバイトをしておりました。そのこともあって早起きが得意です。今でも朝は4時には起きて、仕事をしたり、ジョギングしたりしています。朝の時間は特別な時間です。1日の始まり、ここをどう有効に過ごすかがその日1日に大きな影響を与えます。人間は朝日を浴びて体内時計をリセットすることによって生活リズムを整えます。それまでのいろいろなこと、疲れ、ストレスをリセットして新しい1日を始めることができます。
 朝日を浴びることよりももっと大切なことがあると私は思います。それは朝、目覚めるたびに今日の命を感謝するということです。今日も目覚めることができた。神様ありがとうございます。今日も1日どうぞお守りください。感謝の心で1日を始めることは、朝日を浴びて体内時計をリセットするよりも大切です。その感謝の心を具体的に表すのが朝の挨拶です。
 幼稚園にいるときは必ず、朝、子どもたちを迎えるようにしています。子どもたちと出会えること本当に大きな喜びです。子どもと神様に感謝の心を込めて「⚪︎⚪︎さん、おはようございます。」と挨拶します。感謝の心で1日を始める。その積み重ねの中で子どもたちにも感謝の挨拶の心が育ってほしいと願っています。
 一学期も残り少なくなりました。どうぞよろしくお願いいたします。

7月の聖句
「主に、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。」 詩編5編4節

2023年度6月園だより

 梅雨に入りました。お外で遊べないのは残念ですが、「恵みの雨」と思うことにしましょう。
 先日の親子遠足は青空の下、楽しく過ごすことができました。
 波方公園の美しい自然、青空、白い雲、緑の中で、お友だちとご家族といっしょに遊んでいる様子はとても幸せそうで、見ていて嬉しくなりました。このような時間は本当に貴重な良い思い出になりますね。
 美しい自然も私たちの命も、神様が作られました。世界は神様からの素晴らしい贈り物です。「神様、ありがとうございます」の心で、自然を大切にし、思いっきりのびのびと遊ぶ経験を大切にしたいと思います。
 6月もどうぞよろしくお願いいたします。
 
6月の聖句 
主はわたしたちを造られた。 詩編 100編3節

2023年度5月園だより

 日中は少し暑く感じられますが、朝夕はまだひんやりとしています。
 新学期がスタートして1ヶ月、子どもたちは園生活に少しずつなれてきたようです。
 めぐみ幼稚園では、毎週礼拝を行っています。全園児が礼拝堂に集まって、心を静かに、讃美歌を歌い、暗誦聖句を唱え、聖書のお話を聞きます。初めのうちは、クラスのお部屋に行って礼拝をします。
 このマルチメディア全盛の時代ですが、子どもたちはなんの変哲もないただお話をとてもよく聞いてくれます。
 私が聖書のお話をするのですが、子どもたちに楽しく聞いてもらえるようにいつも努力しています。子どもたちの知らない言葉は使わない。ゆっくりと笑顔で子どもたちの顔を見て話す。不思議なのですが、「みんな大好きだよ。一緒に礼拝できてうれしいよ。このおはなし、先生も大好きだよ。」と感情を込めて話すと不思議なくらい子どもたちは受け止めてくれます。そんな子どもたちと共にする礼拝の時間が私は大好きです。礼拝を通して、子どもたちにが、神様を、イエス様を大好きになってほしい。お話を聞くことを楽しみにする子どもに育ってほしいと心から願っています。

5月の聖句
主よ、お話ください。僕は聞いております。  サムエル記上3章9節

2023年度4月園だより

 新しい年度が始まりました。あっという間に桜が満開になって、葉桜。幼稚園の前のケヤキ並木は若葉がまぶしくしげっています。
 今治めぐみ幼稚園は、今年度から認定こども園(幼稚園型)に移行しました。めぐみ幼稚園の幼児教育を充実させていきたいとの願いからです。新しいこともあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
 さて、今月の聖書の言葉は、めぐみ幼稚園にとって原点ともなる大切な言葉です。
 イエス・キリストは、子どもが大好きでした。そして子どもたちの姿の中に大切なものを見ていました。それは相手を信頼して全てを委ねる姿勢です。「人間もこれくらい神様を信頼して神様に自分を委ねたら良いのに。子どもを見習いなさい。」とイエスは言いたかったのかもしれません。
春、新しい生活の中で、子どもたちは幼稚園を信頼して自分を委ねてくれます。その信頼に全力で応えて保育に励んでまいります。
 今年度もどうぞよろしくお願いいたします。

4月の聖句
子供たちをわたしのところに来させない。  マルコによる福音書 第10章14節

2022年度3月園だより

 依然として寒い日々ですが、少しずつ春の気配も感じます。桜の木も芽が膨らんでいるのか、 少し柔らかく見えたりします。「どこかで春が生まれてる」という歌を思い出します。
 先日の生活発表はありがとうございました。昨年はコロナ禍の中で録画開催となり、とても残念でした。今年は久しぶりに年少から年長児まで同時開催できました。ちなみにひよこ組は年齢的特徴から幼稚園での開催が望ましいと考え、昨年から幼稚園ホールで行っています。今年の年長児はコロナ禍の中で入園し、コロナ禍の中で卒園していきます。様々な面で経験させてあげたいことを実施できず、悔しい思いがありました。
 それでも子どもたちは素晴らしい成長の姿を見せてくれました。特に最後の歌では、最前列に座っていて思わずハンカチで涙を拭いていました。それを年長児がしっかりと見ていたようで「園長先生、泣いとった」と言っていたとのことでした。
 神様とご家庭の皆さまに心から感謝いたします。
「強く、雄々しくあれ。」今月の聖書の言葉です。これだけ男女平等、機会均等が求められている時代にいかがなものかとも思います。要するに「大丈夫、勇気を出して」という意味で良いのかなと。
 年長児は卒園して小学校へ、在園児もそれぞれに新しい歩みとなります。子どもたちの前には長い人生の道があります。辛い時もあることでしょう。不安に感じることもあるでしょう。そのような時に幼児期に愛されて楽しい時を過ごしたことが大きな支えとなります。そんな人生の支えとなる幸福な幼児期のお手伝いをこの一年精一杯させていただいてまいりました。新しい歩みへと踏み出そうとする子どもたちに「神様も、イエス様も、そして私たちもみんなのこと大好きですよ。だから大丈夫、勇気を出して」とメッセージを持って保育を成し遂げてまいりたいと思います。
 本当に残りわずかな日々ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。

3月の聖句
強く、雄々しくあれ。  ヨシュア記1章6節

2022年度2月園だより

寒中、お見舞い申し上げます。
一年で一番寒い時期となりました。
子どもたちは寒さに負けず、元気に走り回っています。その楽しそうな声に励まされます。
幼稚園で働いていますと、自分の幼児期のことを思い出そうとします。でもずいぶん忘れてしまいました。それでも漠然としていますけれど、楽しかったなあ。幸せだったなあと温かい気持ちになります。愛されていたのかなあ。可愛がってもらったんだなあ。そんな確信だけはしっかりとあります。幸せなことだなと感謝します。
人間の世界では何もないところからは何も出てきません。人を愛そう、人を大切にしようと思えるのは、誰かから愛してもらったからです。家族、友だち、先生、たくさんの人から、そして神様から大切に愛していただいて、今があります。
そのような愛に感謝して、子どもたちにもそんな幸せな幼児期を送ってほしい。そのために子どもたちを心から愛し、大切にしていきたいと思います。
三学期残り少ない日々、どうぞよろしくお願いいたします。

2月の聖句
ここに愛があります。  ヨハネの手紙Ⅰ第4章10節

2022年度1月園だより

 新年、明けましておめでとうございます。
 かなり寒い日々でしたが、寒さも少し和らいできました。
 皆様、お正月はいかがでしたか。
 三学期がとても楽しみです。
 さて、「うれしい心は、誰かに分けてあげると増えるんだよ。」と子どもたちによくお話ししています。美味しいリンゴを誰かに分けてあげて一緒に食べたら、一人で食べるよりも絶対に美味しいですよね。「分かち合い」です。
一緒に遊び、一緒に食べて、一緒に楽しんで、時には一緒に悩んで、一緒に悲しんで、喜びは倍になって、悲しみは半分になる。  
 子どもたちと生活の喜びも悲しみも分かち合って、実り豊かにさん楽器の保育を全うできればと願っています。
どうぞよろしくお願いいたします。


1月の聖句
一緒に喜んでください。   ルカによる福音書 第15章6節

2022年度12月園だより

 12月となりました。ガリラヤ館解体工事も完了し、更地となって、とても広々とした眺めです。登園降園を始め、さまざまな面での皆様のご協力、ありがとうございます。
 さて、幼稚園ではクリスマスの準備が始まりました。アドヴェントクランツにロウソクの明かりをつけて子どもたちはとても楽しみに毎日を過ごしています。
 クリスマス、それは旅のドラマということができます。ヨセフとマリアの旅、羊飼いの旅、博士たちの旅、いろいろな旅によってクリスマスのドラマは成り立っています。その旅の目的地はベツレヘムの馬小屋です。そこでイエス・キリストのお誕生の出来事を祝うのです。全世界に神の愛を伝えるためにお生まれになられた救い主のお誕生を祝うのです。この大きな喜びに向けて、幼稚園も子どもたちと共にクリスマスの旅を始めています。とても楽しい旅です。12月、寒いけれども暖かい、忙しいけれど、嬉しいクリスマスをもって、二学期の保育を成し遂げて参ります。どうぞよろしくお願いいたします。

12月の聖句
さあ、ベツレヘムへ行こう。  ルカによる福音書第2章5節

2022年度11月園だより

 すっかり秋となりました。運動会では、皆様のご声援ありがとうございました。子どもたちは、大好きなご家族に見守られて、思い存分体を動かして楽しみました。最後の親子フォークダンスでは毎年のことながら「涙腺崩壊」でした。
 さて、二学期のこの時期、子どもたちの友達関係もずいぶん深まってきました。子どもたちは一緒に遊びを楽しみ、時にはぶつかり合いながら仲良くなります。困った時には勇気を出して、ためらわないでお手伝いする子どもに育ってほしい、それが神様がお喜びになることだという意識が身について欲しいと願っています。そのような優しさ、思いやりが育つように子どもたちの一日一日に寄り添って歩んでまいります。
 11月もどうぞよろしくお願いいたします。


11月の聖句
わたしのとなりびととは だれですか。  ルカによる福音書第10章29節

2022年度10月園だより

 涼しくなりました。秋です。食欲の秋、芸術の秋、体育の秋、実りの秋です。
 四月に入園し、園生活に慣れ、自分の遊び、友達を見つけて、楽しく過ごした子どもたち、そんな園生活の「実り」が大きく現れてくる季節です。
 実りは「つながり」によって実現します。教師とのつながり、友達とのつながり、神様とのつながり、たくさんの愛情を受けて、成長する喜び、生きる喜びが溢れます。そのキーワードは「つながり」です。聖書に学び、神様の言葉、子どもたちの言葉、ご家庭の皆様の言葉を大切に受け止めつつ、保育に励んでまいります。そして子どもたちの成長の喜びに輝く姿を見て、喜びを分かち合いたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
号外 礼拝堂耐震補強改修工事完了!!
 耐震性に不安があって、礼拝堂の使用は長らく制限しておりました。この度、耐震補強改修工事が完了しました。基礎、土台、床、壁、天井、屋根瓦、外装塗装などなど、新しくなり、ピカピカの礼拝堂です。9月22日、初めて全園児で礼拝を守りました。「わー、明るい」、「きれい、レストランみたい」などとの子どもたちの声、本当に嬉しいひとときでした。
ご家庭の皆様のご理解とご協力、ありがとうございました。近日中に礼拝堂をご家庭の皆様にも公開いたします。どうぞお楽しみになさってください。
 

10月の聖句
その人は豊かに実を結ぶ。       ヨハネによる福音書第15章5節

2022年度9月園だより

 まだまだ暑い日が続いています。それでも空の景色は秋の気配を感じます。
 いよいよ二学期が始まりました。依然として新型コロナウイルスの猛威が続いています。出口の見えない状況ではありますが、絶対に諦めません。精一杯できることを考えて、子どもたちの大切な一日一日が生きる喜び、成長する喜びに満ちたものとなりますように、期待に胸膨らませて、保育に努めてまいります。
 さて、私の先輩がこういうことを言われました。
「一個のリンゴの中にある種の数は誰にでもわかる。しかし、一粒の種から実るリンゴの数は誰もわからない。」
 一粒の種、まかれる土地によって、実りは全然変わってきます。一つの言葉を受けても、その受け止め方によって、その後の様子は全然変わってきます。神様が素晴らしい恵みを与えてくださっても、受け止め方によって、その後の実りは違います。素直に感謝して、まずはやってみる。その姿勢を大切にして、実りの秋を子どもたちと喜び合えるように保育して参ります。どうぞよろしくお願いいたします。
 

9月の聖句  
また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは百倍になった。
マルコによる福音書第4章8節

2022年度7月園だより

 いよいよ暑い夏本番となりそうです。
 子どもたちはプール遊びや水遊びを楽しんでいます。そんな楽しそうな子どもたちの様子を見ていると思わず「これが天国・・・」と呟いてしまいました。ロシアによるウクライナ侵攻は続いています。他にも紛争地域はたくさんあり、そこでは子どもたちが恐れ慄き、命を脅かされています。それを思うと、今の幼稚園の生活は、本当に恵まれていると思えて、「天国」という言葉が浮かんできたのでした。
 こんな素晴らしい日を過ごせることの喜びを子どもたちと分かち合い、神様と周りの人たちに心から感謝したいと思います。そんな喜びと感謝の生活が神様をほめたたえる生活につながるのだと思います。
 暑い夏となりそうですが、皆様のご健康をお祈りいたします。

7月の聖句
「主に向かって 心からほめ歌いなさい。」  エフェソの信徒への手紙5章19節

2022年度6月園だより

 今月の聖句「探しなさい。そうすれば見つかる。」は、片付けが苦手で仕事はいつも私にとって、個人的は耳に痛い言葉です。それはともかく。
 子どもたちは、好奇心が旺盛です。不思議に思ったこと、興味のあること、「なぜー」「どうして」と目をキラキラさせて質問してくれます。これからもそんな好奇心を大切にしてほしいと思います。答えに行き着くことも大切ですが、探し求める過程そのものにも意味があります。ワクワクドキドキしながら目を輝かせて、探し求めてほしいものです。時として神様は探していた以上の素晴らしいものを下さることがあります。
私たちも子どもたちと共に目を輝かせて、遊びの楽しさ、面白さ、生きる喜びを探し求めていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

6月の聖句
探しなさい。そうすれば見つかる。  マタイによる福音書第7章7節

2022年度5月園だより

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
                               マルコによる福音書第10章13~16節
 
 4月、嬉しい出会い、嬉しい始まりの時でした。
 今月の聖書の言葉はキリスト教主義の幼稚園にとって特別に大切ですので、二つのことをお伝えしたいと思います。

1.今治めぐみ幼稚園(キリスト教幼稚園)の使命
 イエス・キリストは子どもたちを愛されました。多忙で疲れていても、子どもたちを決して拒むことなく、愛し、祝福されました。このイエス・キリストの子どもたちへの愛を伝えるために今治めぐみ幼稚園は作られました。幼児教育を通して、神さまの愛を子どもたちとそのご家庭に伝え、ご家庭の幸せづくりのお手伝いをさせていただく。これが今治めぐみ幼稚園の使命です。今月の聖書はそのことを示すとても大切な聖書です。

2.子どもから学ぶこと
 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」イエス・キリストは子どもを愛されました。そして子どもから学ぶようにと言われました。何を私たちは子どもから学ぶのでしょうか?それは、ありのまま全てを委ねる姿勢です。子どもはある意味とても弱い存在です。一人では生きていけません。だから親を100パーセント信頼して全てを委ねます。そんな子どものような姿勢で神様に全てを委ねなさいとイエス・キリストは教えています。子どもに学びなさいとイエス・キリストは言われます。私たちも子どもを受け入れ、子どもから学びつつ共に歩んで参りたいと思います。
 どうぞよろしくお願いいたします。

5月の聖書の言葉
 子どもたちをわたしのところにこさせなさい。神の国はこのような者たちのものである。
                          マルコによる福音書第10章14節

2022年度4月園だより

新しい年度が始まりました。
ロシアによるウクライナ侵攻、終わりの見えないコロナ禍。毎朝、暗いニュースで始まります。人間はなんと愚かなあやまちを繰り返す生き物なのでしょうか?子どもたちが戦場に行かされたり、戦火におびえるような時代にもなりかねません。やりきれない思いで胸が塞がります。
それでも春になりました。明るい春に光が差し込んでいます。
インドの詩人タゴールは言いました。
「幼児は、神がまだこの世界を見捨ててはいないというメッセージを携えて生まれてくる。」
このような愚かな人間のことを神様は決してお見捨てになってはおられません。この世界を神様は愛をもって見守り、支えてくださいます。このメッセージを子ども達に伝え、希望を奮い起こして、キリスト教幼児教育を通して、子どもたちとご家庭の幸せづくりのお手伝いをさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
2022年度年間聖句
主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。    
                                          詩編 第121編7-8節
 
4月の聖書の言葉
   私の助けは来る 天地を造られた主のもとから。
                 詩編 第121編1-2節

3月園だより

何がなくなっていたのか?

 家(牧師館)が耐震改修のため、最低限の家財を運んで堂守室(ガリラヤ館2階)に仮住まいしている。ここは、もうずいぶん前に、幼稚園の主任の野間屋恵子先生、用務・園バス運転手の野間屋大先生が二人で住んでおられた部屋(2DK)だ。幼稚園舎建て替えの際には、臨時の職員室としても用いられたことがある(から、今もその掲示が残っている)。
 建物が古くなって、1階の台所こそ別の水道管で飲用水が引かれているが、水は飲めないし、ガスも使えない。3階にある共同風呂・トイレも利用不可だ。いわば、ないない尽くし。ところが、そんなここ(今、その部屋でタイプしている)が、なんとも居心地が良い。どうしてだろうと考えると、思い当たる節がある。
 まず、そんな場所を、教会・幼稚園の関係者が、掃除をし、ござを敷き、暖房を用意し、TVの配線をしてくださった。そんな心遣いが暖かい。また、広いスペースがあった頃、夫婦が、別の部屋で、それぞれの用を足すことが普通だったのが、一緒にすることが多くなったので、自ずと新婚時を思い出す(住まいは今の駐車場にかつてあった古い平屋)。
 そう、不便な場所に移って、いろいろなものを失ったように思われるのに、かえって、便利な生活の中で、たくさんのものを失っていたことに気づかされる。ふと、思い出す。新潟・妙高の合宿所の狭くて何もない管理別棟で薪ストーブ生活をした時、我が子が見せた生き生きとした顔を。本当に必要なものは、そう多くはないのだ。
 
2月園だより
幼子に直接語りかけよう
 
 
 定期購読している『日経サイエンス』の3月号の特集は「子どもの脳と心」である。その中に、P.K.クール(ワシントン大)による「赤ちゃんの超言語力」という記事があった。それによると、赤ちゃんの脳は生後6カ月で「敏感期」に入り、母国語や他言語の音を最もよく認識できるようになるという。
 ところが、10カ月齢期を境に、例えば、raとlaを識別することが必要でない社会(例えば日本)では、その識別能力が低下する。こう言うと、早期多言語教育を進めているようだが、わたしが注目させられたのは、むしろ、次のことだ。すなわち、「幼児はどうやって言語を習得するか」である。
 クールは、シアトルに住む9カ月齢の幼児に中国語を聞かせる実験結果を紹介する。赤ちゃんを数人ずつ4つのグループに分けた上で、第一グループには中国語のネイティヴと本やおもちゃで一緒に遊ばせた。第二グループには中国語を話すビデオを見せた。第三には音声のみ聞かせた。第四は英語を話す人と本やおもちゃで遊ばせた。さて、その結果は?
 わたしたちは、第一グループは中国語に反応し、第四は無反応であると確信をもって予測する。そして、第一から第四まで、段階的に反応力が低下すると考えるのではないか。ところが、結果は、第二も第三も、第四と同様無反応だったのだ。そこから見えてくるのは何か。少なくとも赤ちゃんの言語習得には人との交流が「不可欠」だということだ。
 今、丹祐月先生がまもなく出産の期を迎える。その後は育休を得られる。育休はほぼ1年だ。この間の、赤ちゃんへの語りかけは大切だ。その際、よく「幼児語」が使われる。クールによれば、言語学習の妨げになると言われることのある「幼児語」も、実は、幼児の学習に役立つのだそうだ。なぜなら、「親子のコミュニケーション」を後押しするからだ。
 
1月園だより
「鈴」の部屋?

うかつなことに、子どもたちが絵本と出会う「鈴の部屋」が、なぜ「鈴」の部屋(正式には、<絵本の部屋「鈴」>)なのか、気になりつつも、知らずに来てしまった。お恥ずかしい限りである。前々任の園長のお連れ合いの榎本璋子(あきこ)さんが、今治を去られる前、新園舎竣工直前、に記された文章を最近読んだので、紹介しておきたい。
鈴という名前は、童話作家、椋鳩十の著書『お母さんの声は金の鈴』からとったものです。幼い時に聴いたお話(言葉)は愛する人の声と共に何かの折にヒョイと思い出し、その子の心の中で金の鈴のごとく鳴る、と述べています。私も子どもたちの心がそのように育ってほしいと心から願っています。……
子どもの心は人の声を抜きにしては作られません。人の声が側で聞ける時は、人と人とが触れ合っている時でもあります。テレビ(機械音)はその代わりは出来ないのです。
今治教会機関紙『まぶね』200号(2008年3月)
 我が家には、お正月に4人の子どもの内2人が帰ってきた。電話やLINEでのやりとりはしていたが、体を運んで来てくれた彼らの「声を側で聞ける時」となった。親の声を聴かせるのではなく、むしろ、子の声を聴かせてもらって、彼らの声が「(わたしたち親の)心の中で金の鈴のごとく鳴(った)」。
 保育士を始めて3年目になる次男の声には、何か保護者が先生から助言を受けるような響きがあり、ついこの間まで童謡をようやく歌っていた高1の四男の歌声は、山形の山奥の歌に満ちた全寮制の生活の中で、すっかり脱皮して、青年の輝きを感じさせた。彼らも戻って、新学期。子どもたちと目と目を合わせ、声を聴き合う毎日が始まろうとしている。
12月園だより
アンサンブルって楽しい
クリスマス・イヴにリコーダー・アンサンブル・グループRICOTTAがやってくる。午前中には幼稚園向け、夜は市民向けのコンサートが予定されている。同グループは、すでに、リハーサルのため何度か今治を訪れている。ちょい役のわたしも練習に加わる。
幼稚園や学校で出会った音階を奏でる楽器は、まずハーモニカで、次にソプラノ・リコーダー、そして、中学生になってアルト・リコーダーだった。リコーダーは、小指の短いわたしには少々苦労なのだが、なぜか気に入ってしまう。
高校時代になると、プラスチック製に飽き足らず、メイプル材や紫檀材のまで買い求めた。また、バッハの『無伴奏バイオリン組曲』のリコーダー用編曲版に挑戦したり、ヘンデルの『水上の音楽』の編曲を吹いて、アンサンブルが奏でる音を想像したりした。
初めてアンサンブルをしたのは大学1年生のとき。グリークラブの4年生の先輩がクラッシック・ギターを弾いて、わたしのリコーダーと合わせてくれた。いつもは、合唱練習をするランキンチャペルの舞台で、うっとり……。「あ、ミス、先輩ごめんなさい。」
今回の練習でも、四分音符を八分音符で吹き急いで「ごめんなさい。」でも、息を合わせ、気配を察して自分のパートを吹き、あるいは一緒に吹くのは、とても楽しい。子どもらのクリスマス・ページェントの中にあるのも、このアンサンブルの喜びなのだと気づく。

 

園だより

 11月園だより
今治「めぐみ」幼稚園
今治めぐみ幼稚園の園章をご存知だろうか。円の中に「恵」の字が図案化されたものだ。「恵み」は、一般によく用いられる言葉であるし、名前にもなっている。ただ、キリスト教では、「神さまからの恵み」という意味で、とても大切にしている言葉だ。
有名なゴスペル「アメイジング・グレイス」の「グレイス」は「恵み」のこと。10月31日は498回目の宗教改革記念日だが、改革者たちは、人間は自分の行いによって救われるのでなく、神の「恩寵(めぐみ)ノミ」によって救われることを告白した。
さて、最近、わたしの出身高校の女子の徽章を手に入れた(男女別)。それは「雪持ち笹」で、緑の五枚の笹の葉の上に真っ白な雪が乗っているもの。女性の清らかさとしなやかさを意味する。男子の方は文武両道を示すペンと矛のデザインで、「雪持ち笹」に敵わない。
ただ、男子(旧制高松中学)の校歌(新制後は校友会の歌)の作曲家の方は、不思議な縁で、島崎藤村詞「椰子の実」の作曲をした大中寅二(霊南坂教会のオルガニスト)だと知る。
その子息の作曲家・大中恩(めぐみ)は、従弟で芥川賞作家・阪田寛夫の詞に曲をつけた童謡「サッちゃん」「おなかのへるうた」で有名だ。同志社小学校校歌も作曲、こちらの作詞は谷川俊太郎だ。♪偉い人になるよりも、良い人間になりたいな、同志社小の私たち。

 
10月園だより

また いしょに あそぼね 

 沖縄の友人家族3人がシルバーウィークに愛媛にやって来た。年中のYちゃんは、電話で何度か話したことはあるし、写真も見ていたが、初お目見え。松山空港から空の旅と同じくらいの時間をかけて自動車で我が家へ。ようやくリュックを下して、さあ、夕食。 
 大人は積もる話をしたい。Yちゃんと折り合いのつかないままに、食事を終えると、妻が隣の部屋でYちゃんと遊び始めた。楽しげな声が聞こえてくる。ボードゲームをやっているらしい。こちらは安心して大人の話、でも隣も気になる。気もそぞろに夜は更けた。 
 翌朝、行き先を決めかねて、とりあえず、しまなみ海道の景色を楽しみながらドライブ。その間、大人中心に尾道か、子ども中心にとべ動物園か悩む。大人は諦めきれずに尾道に行ったものの、大渋滞でとんぼ返り。動物園に滑り込むが、すでに「閉店準備中」。 
 それでも、とにかく動物園に来られたことで、Yちゃんは満足のよう。でも、余りにも待たせすぎて、楽しむところまで行かない。「当然だよな」と反省。それでも、ライオンの母子や背高のっぽのキリンに会えて、よかった。 
 この日は道後泊で、朝にはもう沖縄へ。数日後、黒糖羊羹と共に、Yちゃんの手紙が届く。「かみじ いしょにまたあそぼね おきなわにきてね」 美枝さんの方はこうだ。「みえさん まえ いっしょにあそんで たのしかたよ またいしょにあそぼね Yより」
9月園だより
 
字はおもしろい、人はおもしろい
 

「要らない新聞紙をください」そう言われて、慌てて新聞紙を探す。切り抜きのために取り除けたものでないことを確かめて、手渡した。すると、もともとそのつもりでなかった束の中のある面に「くせ字の味は人柄の味」という文章を見つけた。書き手は多摩美大卒の井原奈津子さん。18歳から500人以上を収集し、まねて理解を深めているとのこと。

個性的なフォント(書体データ)は売り買いされている時代、個人的に創造するのには限界があるが、「くせ字」ならば無尽蔵だ。そういえば、札幌で北星学園の高校教師をしていた頃、書道教師で書家の山田聳宇(しょうう)先生が、三悪筆と呼ばれた同僚教師の「書」を臨書しながら、その個性を抽出するのを見て驚いたことを思い出す。

めぐみ幼稚園は、自律性を引き出す自由保育をしているが、そういう保育であればあるほど、背後に、伸縮自在ながらも、カリキュラムがしっかりしていなければならないことを意識している。それゆえ、音楽・絵画造形・体育・遊びなどについてまとめてきたが、「きく・はなす・よむ・かく」については、学校化をおそれて、家庭に委ねて来た感が強い。

夏の園内研修では、「きく・はなす」について、絵本・歌・わらべ歌等の実践を意識化・共有化し、3年間を見通すことに手をつけた。「よむ」についても、日常的に文字に親ませていることを確認した。一方、「かく」は未開拓。幼稚園らしく、個々の字固有の造形(リズミックなフォルム)を意識させつつ導入したい。将来の個性豊かな書家(?)のために。

 

7月園だより


雨の季節はまだつづくけれど

 

こどもたち全体の集まりの時に、「♪かえるのうたが」を輪唱した。こどもたちが、歌い始めると、先生たちが追いかける。途中、こどもはクヮクヮクヮクヮ、先生はグヮグヮグヮグヮグヮ、こどもケロケロケロケロ、先生ゲロゲロゲロゲロ、クヮクヮクヮ、グヮグヮグヮグヮ。どこまでも追いかけてくるがまがえる、あまがえるたちは逃げる逃げる逃げる。

この題名、実は「かえるのうた」ではなく「かえるの合唱」だ。元歌はドイツ語で、「夏の夜通し、かえるの歌が聞こえる。クヮクヮクヮクヮ、ケケケケケケケケ、クヮクヮクヮ。」わたしは「ケロケロ」と思っていたが日本語でもドイツ語同様「ケケケケ」派が多い。

そんな雨の季節には、6月の賛美歌「♪ぱらぱら落ちる 雨よ雨よ」がぴったりだった。「♪ぱらぱらぱらと なぜ落ちる」。「なぜ?」とふと考える。すると、こう続く。「♪かわいた土をやわらかにして きれいな花を咲かすため」。

雨の季節、きれいな花を咲かすのはあじさい。そして、あじさいにぴったりなのがカタツムリだ。「♪でんでんむしむしカタツムリ お前のあたまはどこにある」。そう! 殻に閉じこもって動かないのが、「角出せ、槍出せ、あたま出せ」に応えて、あたまを出す。

あたまを出しても、まだ見えないものがある。「♪でんでんむしむしカタツムリ お前の目だまはどこにある」。子どもたちが、「角出せ、槍出せ、目だま出せ」と待ちわびていると、じわっと目玉を突き出して、動き出す。そんな姿を子どもたちがクレヨンで写し取る。

 

6月園だより

♪耳をすまして風を聴く


 鯉のぼりの季節が終わろうとしている。風を感じる季節だった。風を受けて気持ちよさそうに泳ぐ鯉のぼりをもう少し観ていたい。子どもの教会では、この季節、凧揚げや紙飛行機飛ばしをする。やはり風を感じるためだ。

風がないと、鯉のぼりも、凧も元気が出ない。実は、人間も同じである。神さまからの風=聖霊(せいれい)を受けて、のびのびとこの世を泳いで行くのだ。その風は強ければいいわけではない。優しく、時には厳しく、愛情のこもった風が人を生かす。

先月も紹介したカトリック神父塩田泉さんの賛美歌集の中に、今時にぴったりの歌「生きる」を見つけて、子どもらと歌っている。余り音程の上下のない楽譜には、「ゆったり委ねて」と指示があって、幼子らにはどうだろうと思っていたが……。

♪耳をすまして風を聴く 神ののぞみを受けとめて

目をこらし風を観る 聖霊のながれ見つめつつ

耳に手を当て「風を聴き」、二本指で向こうを「見つめる」と子どもたちの歌に魂がこもる。

伴奏は、ギターのような沖縄出身の楽器「奏生(カナイ)」だ。以前保護者講演会で来園した「オマチマン」からプレゼントされたもの。小さな指ピックをつけて、一節ごとにCGCG(後半はオクターヴ上)と間奏を入れる。歌とともに子どもたちの心と体も動き出す。

5月園だより


♪キリストの平和が

 
 4月が終わる。こどもたちのあの声も聞けなくなる。「しがつのせいく:しゅイエス・キリストのめぐみとへいわが、あなたがたにあるように。」実は、その聖句に合わせて歌ってきたのが「♪キリストの平和」である。「♪キリストのへいわが、わたしたちのこころのすみずみにまでいきわたりますように」カトリック神父塩田泉さんが学生の頃の作だ。

氏は、その後も、シンプルでやさしい言葉とメロディーの歌を作り続けておられる。昨年以前より在園の方なら、昨年のクリスマス・ページェントの「天使の(マリアへの)お告げ」のところで歌われた賛美歌をご記憶だろうか。あれも、塩田さんのもの。「♪めぐみあふれるマリア、主はあなたとともにおられます 主はあなたをえらび、祝福されました」

さて、「♪キリストの平和」は少々抽象的かなと思い、手話つきで紹介した。「♪キリスト(両掌に釘跡を残す主)の平和(自分の両掌で握手してぐるっと輪を描く)がわたしたちの心の隅々にまで(左手で前を囲んだ内側に右人差し指を上から下へ動かす)ゆきわたります(畳んだ腕を伸ばしながらそろえた指を開いて行く)ように(お祈りの組み手)」

すると、子どもたちは、文字通り、心の隅々にまで行きわたる様に、この歌を自分のものとして行った。ことばを、手の形と表情と共に吸い取るのだ。改めて知る。子どもたちが言葉を獲得して行くのはこんな風であることを。彼らは言葉がどんな気持ちを載せているかを受け取っている。今日も、神々しい顔つきで、あの歌の手話を反芻する子どもたち。

4月園だより
 
はじまり、はじまり
 

 東京町田の「しぜんの国保育園」で保育士3年目の次男・足日(何と読むでしょう?)が、初めて担任となった。3歳児クラスだ。これまで、副担任としてやってきた時とは違って、苦戦している。もっとも、同僚の経験豊かな副担任に助けられているのだが……。

 足日は言う。「やっぱり違うね……」、「どこが」とわたし。結局、ベテランは、子どもたち一人一人の性格や、その日園に来た時の様子を踏まえつつ、クラス全体としての動きを予測して、必要な声掛けや、援助をしているらしい。

 でも、わたしはひとりごつ。「君も、自作の大紙芝居(オリジナルストーリー)等でがんばってるよ。」つい先日は、「(いわさき)ちひろ美術館」で開催中の「聖コージズキンの誘惑展(スズキコージ絵本原画)」に行って、再び創作意欲を燃やしているようだし……。

 「めぐみ幼稚園」も、「ゆうこ先生」「ともこ先生」を送り出し、「ゆづき先生(経験1年)」「ちあき先生(新卒)」「たえ先生(事務室)」を迎える。それぞれ、「めぐみ」の新人だが、個性豊かなスタッフであり、得意を伸ばしつつ成長することを楽しみにしている。

どうか、彼らとベテラン・スタッフで歩み出す、新しい「めぐみ」をよろしくお願いします。これまで通り、子ども・保護者・スタッフが「共に育つ」中で、「やわらかに」「のびやかに」「あわてず」、まだ見ぬストーリーを紡いで行きましょう。はじまり、はじまり。

3月園だより
 

森永ハイクラウン50年に寄せて

 

 「ロダの会」で絵本や物語を紹介し合う中に、『白鳥とくらした子』(原著1938年)があった。作・絵はシシリー・メアリー・バーカー、『花の妖精』シリーズで有名である。わたしがそれを知っているのは、幼い頃食べた「森永ハイクラウンチョコ」に彼女の『花の妖精』カードが1枚ずつ入っていて、いつも楽しみにしていたからだ。

わたしが卒園を迎えた1964年、普通のアイスクリームが10円、病気の時にようやく30円のアイスを買って貰えた時代に、パッケージも美しく登場した「ハイクラウン」は70円もしていた。なぜこんなぜいたくを……と思われるかもしれないが、実は、父がパチンコのおみやげ(景品)に、家族サービスで、このチョコを選んでくれたのだ(と思っている)。

さて、『白鳥とくらした子』では、女の子の父親が金稼ぎに航海に出る。彼女は留守世話役の家政婦に蔑にされながらも、かつて父が助けた白鳥たちに守られて成長する。何年も経って下船した父は、稼いだ金を人助けで服一枚と交換してしまっていた(実は不思議な服)。そして再会。非を詫びた家政婦は娘の父に赦され、三人は支え合って生きて行く。

父親は、先には、娘のためを思って、結局、娘を置き去りにしてしまった。しかし、今度は、娘のことを顧みずに人助けをして、却って、娘に大切な物を得た。思えば、彼がいない間娘を助けてくれたのも、彼がかつて目の前で苦しんでいるのを助けた白鳥であった。ためにすることはためにならず、ためにしないことがためになる。子育てはこういうもの。

 2月園だより
 
ゆめでなわとびをする
 

 今治キリスト教会の元旦礼拝に、恒例の成人祝福式を行った。時間をつくって4人(10日後にもう一人)の卒園児が来てくれた。その際のプレゼントは、ここの所、エリナー・ファージョン作『マローンおばさん』の小型絵本(絵:エドワード・アーディゾーニ)だ。

 ファージョンは、物語の名手、『ムギと王さま』で第1回国際アンデルセン賞を授与されている。そんなファージョンに『エルシー・ドピック、ゆめでなわとびをする』がある。こちらは、シャーロット・ヴォークの水彩画が物語世界を映し出す、大型絵本である。

なわとび上手の少女、エルシーの評判がケーバーン山のフェアリーたちに届く。エルシーは、なわとび師匠アンディ・スパンディから三日月の晩ごとに、なわとびの秘術を教えてもらうことになる。驚くべきエルシー!そして、ケーバーン山はなわとびの聖地に。

やがて、その小さなとびなわが体に合わなくなると、その秘術も出来なくなる。彼女の評判は記憶の底に眠って行く。ここまでが前半。ふと、幼き我が子たちの披露してくれた秘術の数々を思い出す。今は、少々得意だが、普通の青年・少年だ。

物語後半は、ケーバーン山が新しい地主によって開発されようとする危機から始まる。ここで筋を語ってしまうのはNGだろう。ただ、普通のように見える我が子たちの中に、眠っているようだけれどエルシー・ドピックは生きているという読後感のみ記しておこう。

 
1月園だより

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」−1月の聖句より  伝道師 松田直樹

私は説教等でよく幼稚園のネタを使わせてもらっているが、その時、「こども」とか「こどもたち」という言葉を使う。説教で名前を出すわけにもいかず、ある種、便利な代名詞として用いているのだ。しかし、「こども」なるこどもがいるだろうか?
 実のところ、私にとっても「こども」は「こども」でしかなかった。だが、こどもたちと過ごすうちに、とりわけ、給食を共に食べるなど一緒に過ごすことの多いほし組の「こども」の名前は自然と覚えてくる。最初は似たよう顔に思えて見分けがつかなかった「こどもたち」も、気がつけばどう頑張っても見間違えようがなくなってしまう。そうなれば、自然と、漠然とした「こどもたち」ではすまなくなる。
 一月の聖句には共に座っている「兄弟」の姿が描かれている。この「兄弟」になるということは、つまり、そういうことではないだろうか。誰でもいい誰かでも、どうでもいい誰かでもない、その子でなければならないその子として愛する。それも、この「世」に産み落とされて「生きる」と言う同じ運命を背負った兄弟として。
 しかし、私たちは祝福された。兄弟と共に座っている今は、その恵みと喜びを祝し、心行くまで遊ぶための時なのだ。神は「兄弟」を祝し、その時を与えて下さった。「こども」と接する時、「こども」と話すとき、「こども」と遊ぶ時、そのような兄弟として接し、兄弟として話し、兄弟として遊ぶことができたら、それは「なんという恵み、なんという喜び」だろうと思う。


12月園だより
 

クリスマスの香り

 

 クリスマスを待つ季節(待降節=アドヴェント)になると、キリスト教会ではアドヴェントクランツの4本のろうそくに毎週一つずつ点灯して行く。全てのろうそくに灯が点ると、クリスマスは目の前だ。今年も、1130日のアドヴェント第1日曜に向けて、前日29日に点灯式を行う。併せて、イルミネーションに光が踊る。
 わたしが記憶しているアドヴェントクランツは、ヒノキの葉に赤い実の付いたセイヨウヒイラギの葉を加えてドーナツ型に作ったものだ。青い葉が放つ生命の香りが、記憶に残る。今治教会では、クランツと別に、藤田司先生が、毎年、大きなクリスマス・リース作りに工夫を凝らす。時が来ると、先生は香りに包まれつつ、リースを礼拝堂入口に提げる。
 嗅覚は、「過去を呼び起こす桁外れの能力を備えている。」「それが何の匂いか、嗅いだときの情景はどうだったのか、その時にどのような感情を覚えたかなどを次々と喚起させる」(樺山紘一編『歴史学事典第2巻』)。ツーンと鼻を突く冷気の匂い、木の葉の香り、そして、燻るろうそくの香り、その全てがクリスマスの到来を告げる。
 子どもたちに、自然と暮らしの中にある、様々な香りのプレゼントをしてみては? クリスマス・リースを一緒に作ってみるとか……。きっと、子どもたちの嗅覚を通して、消えることのない思い出が刻まれることだろう。そうそう、本当のヒイラギは、同じ葉形ながら、実の方は紫。ただし、アドヴェントに咲く白い花は、素敵な香りを放つ。


11月園だより


キンダーガートゥナーズ

 
 9月の終わりに、ドイツ・ミュンスターから二人の御嬢さんが今治教会・めぐみ幼稚園を訪れた。東京から福岡まで、(さらに韓国の仁川まで)の自転車旅行の途中で立ち寄ってくれたのだ。四国八十八カ所巡りではないが、教会を宿にしての長旅の一期一会である。
 食事を共にしつつ、わたしたち家族は、眼鏡をかけた活発なミリヤと、長い髪の物静かなハンナと会話を楽しんだ。ただ、ミリヤが「何人のキンダーガートゥナーがいるの?」と問うたのに対して、わたしが「110名ほど」と答えると、不可解そうな顔をした。
 話の流れで、教諭の数のことかと思い当たったので訂正した。かの語には「幼稚園児;教諭」双方の意味があった。園児の場合が「幼稚園のメンバー」ほどの意味なのに対して、教諭の場合は、語源に即して「子どもの園の園丁(ガーデナー)」である。
 ガーデナーは、庭園の造作・維持・管理などの関わり、植物学的知識を持つ専門家。であれば、わたしたち「キンダーガートゥナー」の役割を改めて思う。ただ、その庭は、拘束性の高いフレンチガーデンではなく、より自然なイングリッシュガーデンだろう。
 新年度より、国の子ども・子育て支援新制度が始まる。長年目指されていた幼保一元化が、複線(=一体化)の形で実現する。5歳児については、小学校準備教育的側面が強調されるが、むしろキンダーガートゥンならではの教育のひとつの到達点として充実させたい。


 10
月園だより


「キハ」の疾走

 
 「鉄ちゃん(鉄道ファン)」を自認するチャプレンの松田直樹せんせいは、子どもをわきに抱え、あるいは「お姫様抱っこ」して、砂煙を上げながら園庭を疾走する。ああ、これは「キハ」だ、と思わずひとりごちる。「キハ」とは、鉄道の車両についている記号で、「キ」は制御車(運転台)付きディーゼル車、「ハ」は普通車(イロハの一番下)を示す。

 なぜ、「クモロ」、すなわち、制御車付き電車(クモ)のグリーン車(ロ)ではないか。「なおき号」は、どう考えても架線から得た電気でモーター動かし、静かに走る電車ではなく、軽油を飲み込んでガガガーと唸りつつ走るディーゼル車からだ。その乗り心地もグリーン車ではなく普通車だ。でも、子どもたちは、「キハ」を「キイ(特等車)」のように愛す。

 実は、昔から「キハ」という呼び名は知っていた。でも、それが何であるかを積極的に調べようと思ったことはない。ところが、以前、教会&園のバザーで手に入れた古本で、小学生向けの絵本『算数と理科の本8 記号のなぞとき』の中の「機関車・電車の記号」の頁を開いたら、出てきた。列車の記号の分類がわかると、とたんに親しみが湧いてきた。

 ところで、その際購入した、同シリーズの第17巻最終頁に、これらの本の持ち主であった子どもの字で、「○こんどかう本」「□かった本」「△この本の名まえ」とあった。漢字の使い方から、おそらく小学校低学年。ちゃんと分類して、これらの本を愛読しているのが分かる。今42歳頃の彼(女)は、どんな大人になっているのだろう。

9月園長だより


虫眼とアニ眼

 
 めぐみ幼稚園の先輩教師・白石美恵子先生から文庫本をいただいた。養老孟司・宮崎駿著『虫眼とアニ眼』だ。最初の20頁ほどは宮崎駿の文とカラーのイラストで、いきなり宮崎ワールドとなる。「ぼくの知りあいに 虫眼を持つ少年がいる。絶滅危惧種のメダカだってわけなく 見つけてしまうのだ。ぼくだって子供の頃は持っていたはずなんだが……」

 今では子供までも虫眼を失いかけている。そこで宮崎は、「家をかえよう 町をかえよう 子供達に空間と時間を!!」と気炎を上げる。まるで『紅の豚』の主人公「ポルコ」のように。そこで「まず」考えたのは、「町のいちばんいい所に子供達のための保育園(幼稚園もかねる)を!」ということ。園が「まず最初」というのが、何とも、いいではないか。

 「子供達が夢中で遊べる所。地域の子供なら、誰でも入れる所。木や土、水と火、いきものと触れる所。子供達が家へ帰りたがらない保育園をつくる!!」「大人が手と口を出さなければ子供達はすぐ元気になる!!」園の地続きにはホスピス、そこに子供達が侵入する。広場は、ただの原っぱ。なんとなくあいている空地。

周りに拡がる町の名は「イーハトーブ」。宮澤賢治の心の中に在る理想郷の名だ。街並みも、家々も造り込みすぎず、それでいて、不思議な調和がとれている。そこには、自由な成長を保証する「設計図」がある。それは、50年前、小さく塀もない幼稚園で、虫や小さな魚を追いかける僕をそのまま受け留めてくれた先生たちの「心」の中にもあったものだ。

7月園長だより

木々のいのち、木々の心を生かして

 
 先日、出来立てほやほやの本が「謹呈」の栞と共に送られてきた。『木霊 百年生きる木造建築』である。その表表紙には、後ろ手に森の木々を見て歩く白い顎鬚を蓄えた紳士、裏表紙は、両手を添えて立派な木を見上げる働き人が写る。帯にはこう書かれている。「こんな大工が、こんな建築家が、とことん議論を闘わしながら、正直な家づくりを続ける…。」

 「こんな建築家」というのが、この本の著者であり、わたしの前任教会の会員である村尾欣一さんだ。居心地のいいご自宅には多くの人々が集う。多様な樹々により「織り上げ」られた森、「こまくさ保育園」(お連れ合いが園長)には幼子が自由に遊び、新潟市プロテスタント教会公園墓地に建てられた納骨堂の柔らかな光の中には平安な眠りがあった。
 一方、「こんな大工」とは、村尾さんの教え子であり、家づくりのパートナー小川正樹さん。西岡常一の唯一の内弟子で薬師寺西塔の再建に携わった宮大工棟梁・小川三夫から自宅の建築を任されるほどの職人だ。
 本の表紙を見た瞬間、教会納骨堂建築の施主として、二人に誘われ、根曲り杉を切り出したばかりの山に、雪を踏みしめ分け入ったことを思い出した。それは、伐採という死の現場でありながら、新しい生への変成の場でもあった。そうなりえたのは、立ち木が、単なる木材になるのではなく、その個性を生かされて新しいいのちの一部となっていくからだ。
 わたしたちの子育ても、根曲りの個性的な杉を、扱いやすい建材へと均質化してしまうのでなく、厄介だけれどかけがえのない役を担う素晴らしい柱にしていくものでありたい。それが木々(子どもら)のいのち、その心に応えることだ。

6月園長だより

息子たちを訪ねて


 日曜朝礼拝を終えると、東京出張に出かけた。新横浜から横浜線に乗り換え、JR町田駅着、6時間の旅の後、東京在住の3人の息子たちと夕食を共にする。長男が大学生だったころバイトをしていた醤油料理・天忠。味に間違いがないので、安心して会話を楽しんだ。

その夜、次男と三男がシェアするアパート泊。学生の三男は、授業準備が大変だと、奥の部屋へ籠る。保育士の次男も机に着いて、園のバザーに出品するための作品づくりの続きを始めた。小学校の頃手に入れたスズキコージの絵本原画が作業を眺めている。

レースの縁取りが施された段ボール素材の手作りキャンバスには、青空と雲とが配されている。そこに、白い厚紙を立体に組んで、いくつもの雲を浮かばせるらしい。静かに鋏の音が響く。こんなに手間暇かけても、「1,000円くらいで売れたらいいな」とのこと。

月曜は、早朝から満員の小田急電車に揺られ、中央線に乗り換えてお茶の水で降り、夕方まで、キリスト教保育連盟総会と学習会。「子ども・子育て支援新制度」についての講師は新制度の委員とやらで、「まだ公にできないこともある」と歯切れが悪い。

 夕方、日曜に体育主任として運動会を終えたばかりの長男とデート。乞われて、小学校の同僚教師と楽しむための新しいギターを見たてる。買ってくださいと主張していた手ごろな一本を購入し、1DKマンションへ。さっそくいじり始めた。ほっとして眠りに就く。

5月園長だより

子どもの日に寄せて

 
 ある休日、田畑の続く郊外に車を走らせた。ソメイヨシノは八重桜に主役を譲り、道々、藤や桐の紫色が目を引く。そんな中、集落のところどころ、五月の節句のこいのぼりが、薫風に泳いでいる。一軒一軒に、家族の愛情を一杯に受けている子どものいることが想像され、心が温かくなった。

 節句と言えば、わたしたち夫婦は、道後を訪れると一刀彫「南雲」のお店に立ち寄る。そこに置いてある「桃太郎の誕生」を見るたび手が伸びて、でも、値札を見て、手を引っ込める。もっとも、夫婦のマイブームは、もっと一般的な(安価な!)、しかし、伝統的ないわれを持ち、人情のある「民藝」品の方である。

 わたしが一時育った高松には、赤い着衣の「奉公さん」がある。「病を得たお姫様の病を、身に移しうけ、お姫さま全快の祈願をこめて、海のかなたの離れ島に流し人となり、短い一生をおえたおマキ」の記憶を宿す人形だ。以来、奉公人形は子どもの病を身に受けて海に流されつつ、彼らの病を癒してきた。十字架上に人々の罪を引き受けたキリストに似る。

最近、妻が教えてくれたのは、京都・伏見人形の「饅頭喰い」。「両親のどちらが大事かと聞かれた子供が、手に持っていた饅頭をふたつに割り、どちらが美味いかと問い返した」という説話に基づくもので、この人形を飾ると子どもたちが賢く育つらしい。もっとも、飾るのは賢く育てるためでなく、こんな子どもの賢さに目を瞠り、親業を深めていくためなのかも知れない。


 4月園長だより


桜の木とともに子どもたちを迎え、送り出し

 

 桜の花がほころび始めた3月の終わり、歴任幼稚園スタッフも大勢迎えて、めぐみ幼稚園の60年をお祝いする会を持った。卒園したばかりの子どもたちの歌に、ここで育った数えきれない子どもたちの面影を追う。98歳となられた第二代園長・上野光隆牧師も、京都から駆けつけて、祝福の祈りをささげてくださった。

 集まった人々の中に、一輪、あでやかな、桜色の和服姿があった。30年程前まで主任をつとめてくださった川添先生だ。昨年怪我をされながら、『記念誌(未発行)』のために、園庭で春を彩っていた桜の古木に寄せる一文を届けてくださった。漸く癒えられたら、今度は病で倒れられた。集いへの出席も危ぶまれた。……そして、春。桜は咲いた。

あれは風の冷たい二月ごろの事だったと思います。年長組の子どもたちが桜の太い幹の周りにイーゼルを立ててこの木を描くことになったのです。子どもたちはめいめいその幹にさわって、「固いな」、「どこに花が入っているのかな」などといいながら、鉛筆で描き始めたのでした。春には新しい芽が吹き、やがて蕾が出来てきて花が咲くのだよ、などと口々にいいながら、寒さも忘れて描いていました。……あのころ、桜の古木は画材としては幼児たちには難しいと思ったのですが、出来上がった作品はそれぞれ見事なものでした。子どもたちの真剣なまなざしや、鋭い表現力に圧倒されたことをいまもあざやかに思い出します。そして、あの門の桜が、成長した幼児一人一人の胸の奥にいつまでも残っていると信じています。

川添綾子「刻の宴」より

月 園長だより

ド、

 先日、神谷徹さんがストロー笛で、多彩な演奏をしてくださった。長さの違うストロー、形の違うストロー、それは虫になり、動物になり、ボールになり、ロケットとなり飛んで行った。リコーダーのように指孔を開けて音の高さを変えるものもあれば、トロンボーンのように管の長さを変えて音程を変えるものもある。
 先が完全には読めないのがわくわくするリトミックと似て、創り出される音の意外性、時には失敗する(けれどそれを工夫で成功へと導く)手作り感に、聴き手は、聴いているというより、演奏者と一緒になって音を楽しんだ。にんじんトロンボーン作りの実演でも、「ほんとうにうまくいくのかな」……はらはらしながら見守ると……「鳴った!」
 どの一つも同じ音色はない。昔読んだ武満徹の言葉を思い出した。「音というのは生命と同じように多様で、たとえばド・レ・ミ・ファ・ソのドの音にしてもフルートの吹く音とオーボエが吹く音とでは性格がぜんぜん違う。……一つの音には測り知れないほどの夾雑物があると考えている。そうじゃないとその音を具体的な音として支えることができない。」
 「測り知れないほどの夾雑物」とは、わたしたち人間の「ひみつ」「ふしぎ」だ。兄弟姉妹で、似た遺伝子、似た生活環境を持ちながらも、誰一人同じ子がいないように、それぞれが異なった潜在的可能性を持ち、その子ならではの経験をして成長している。「その子にしか出せない音」を支える「夾雑物」を、美しくも不完全に結晶させながら。


2月 園長だより


鬼はそと!

 

 たまたま新月で始まった新しい年も、満ち欠けする月に導かれながら、新月に戻った。今日は、太陰太陽暦の元旦である。そして、まもなく節分がやってくる。鬼がやってくる……わけではなく、やってくる鬼を払うのだが……。
 この季節が巡って来るたびに思い出すのは、息子たちの保育園での節分行事である。時には、「バリン!」、ガラス戸を壊して鬼が侵入してくる(あまりに迫真の演技で、勢いの余り割ってしまったのであるが、観ている方にすれば、ただごとでない)。
ある年の「豆まき」、元気のいい響(長男・ひびき)が、代表して鬼に立ちはだかる。鬼は、「俺たちの国へ行くか?」と問う。響は「いいよ」と答える。するとと、ぐいぐいぐいと本当につれて行かれそうになった。響の顔がこわばる。
 やりとりを「ひとごと」として観ていた他の子どもたちも固まる。それを観ていた足日(次男・たるひ)は、固まる域を超えた。不安と怖ろしさにくしゃくしゃとなった顔の奥から、怒りの形相で鬼を睨む。後ずさりしながらも、兄を救おうと、懸命に豆を投げた。
 そんな弟を、兄は今も(精神的に)頼りにしている。鬼に勝つだけの力があるからではなく、そんな鬼にでも我を忘れて立ち向かってくれる奴だから。足日は、勤め始めた「しぜんの国保育園(町田市)」で、鬼の役をやると言う。今、その準備に余念がない。


月 園長だより

かぐや姫の物語


 我が家では、子どもたちへのクリスマス・プレゼントに本を一冊買うことにしている。ファッションの世界を目指す三男のために選んだのは『デッサン・ド・モード 美しい人を描く』で、長沢節の書いた本の新装版だった。1917年に生まれ、1999年に既に亡くなっている長沢の、古びることのないデッサンは、彼のことを何も知らないわたしの目を止めた。
 ところで、子どものための買い物なのだが、自分の本も一冊買った。和風の装丁が美しい『月のこよみ2014』で、天文関係の出版社から出ているものだ。そこで2014年が月齢0.0から始まる珍しい年であることを発見。この本、毎月の星空も載っていて、天空を黄色い月が満ち欠けしながら、空色の天の川を横切り、赤い軌道を巡っている。
 正月4日、上の二人の息子が仕事のため帰京した夜、「月」を題材にした映画『かぐや姫の物語』を家族4人で観た。テーマもさることながら、監督の高畑勲が、極力余計な線を排し、日本の絵巻物の手法を活かして作っているのが、実際どう映るのか気になっていた。果たして、スクリーン上には、まるで紙の手ざわりの画が、生き生きと動いていた。
 はっとさせられた。長沢節の服飾デッサンも、『月のこよみ』のデザインも、高畑勲の映像も、こまごまと書き込んだり、べったり塗り込んだりしていない。色も最小限のものに抑えられている。その分、わたしたち見る側の想像力を引き出してくれる。わたしたちの子育ても、そんなものでありたい。8日の今宵は、完全な半月である。虚心に見上げよう。


12月 園長だより
 

伝えたい・聴き取りたい・感じたい……それだけで

子どもの教会では、1124日の日曜日、礼拝の後、いつもガリラヤ館の2階で礼拝をしている東洋ローア・キリスト伝道教会と交流した。「手の言葉」を使われる方々とコミュニケーションするということで、予め、指文字での自己紹介や手話賛美の練習をして備えた。
 その日、どきどきしながら、会場である牧師室に集まった。しかし、相手方は積極的に手話で話しかけてくださり、こちらもおそるおそる、合っているか合っていないか、自身のない身振り手振りで応じると、気持ちが通い始めた。
 そのうち、筆談をも交えながら、とにかく、伝えたい、聴き取りたい、感じたい、ただそれだけだったのだが、気まずい間が生まれる余地もなく、会話が続いていった。そのうち、互いに立ち上がったり、目を大きく見開いたり……ちょっとした祝宴となった。
 子どもたちは手話賛美を披露した。その後、何名かが覚えたての指文字自己紹介をしたら、ローアの方々が「こうも表現できる」と、○月ちゃんの「月」は三日月の形とか、藤○ちゃんの「藤」は藤棚から下がる藤の花の形とか教えてくれた。
 すると、不思議、ふしぎ、その子の名前が、生き生きと立ち上がった。「手の言葉」が、こうして、存在感豊かに、ぼくたちの目の前に現れた。今度、お会いする時には、習いたての「こんにちは」で、「可愛く」挨拶できると思うと、今からわくわくする。


11月 園長だより

ことばが生まれる朝

 わたしは、「あさ」をテーマとした絵本を二冊持っている。一冊目は、ずっと昔に購入したユリー・シュルヴィッツのDAWN(第5刷1986、初版1974)だ。頁をめくると、山間の湖の、静かなしずかな夜明けに、いつ間にか、入り込む。息子たちにも読み聞かせた。その後、『よあけ』として、瀬田貞二訳(1977)で福音館書店からも出ていることを知る。
この度手に入れたもう一冊は、絵・井沢洋二/文・舟越カンナ『あさ One morning』(1985)である。たまたま、新潟教会時代の知人の眼科医で、夫をガンで亡くしてから京都に戻り、日本バプテスト病院ホスピス・ボランティアをしている橘俟子さんが、母上の1年を記念してくださった末盛千枝子(父上は彫刻家・舟越保武)の本を通して出会った。
この本は、末盛千枝子が夫を亡くした後、小さい子どもを育てながら取り組んだ絵本プロデュースの仕事から生まれた一冊だ。街中のありふれた日常の朝。しかし、ここにも、色、音、香り、うごき、静寂があって、その全てが愛おしい。絵には、千枝子の20歳離れた妹によって、過不足ない短い言葉が添えられた。そのセンスの秘密は次の通りだ。
「末の妹によく絵本をよんでやることがあったんです。父の所に出入りしていた出版社の方が見せて下さった外国の絵本が、絵も言葉もとても美しくて、この世にこんなに美しいものがあったのかと驚きました。……末の妹は話し始めるのがとても遅かったのですが、ある日突然、私が読んでやっていた絵本の言葉をしゃべりだしたんです。カイコが糸を吐き出すみたいに。それは『ある日お庭に小鳥が来てね、つっぴん、つっぴん鳴いてたよ』というとても綺麗な歌でした。」


10月 園長だより

 

子どもたちと「お月見」をしましたか?


  「919日は何の日?」「仲秋の名月」、「お月見をした人?」「見たよ」「……」、「お団子を食べた人」「お団子?」「……」、「ススキを取ってきた人」「……」「……」。実際に子どもに質問したわけではない。でも何人かのお母さんから聞いたところでは、こんな感じだ。
我が家は、その夜、突如思いついて、久しぶりに「お月見」をした。怜の大好きな松田直樹先生も呼んで。妻は有り合わせのうるち米の粉で団子を茹で(餡子も添え)、近くのススキを刈って花瓶に活けた。庭に木のベンチを出して、木の折りたたみ椅子を拡げた。
空は前日ほどクリアでなかったが、満月はそこそこの位置まで上がっている。それを、電線が邪魔をする。街中での月見は無粋だ……としばらく月を眺めていると、やがて、白いまん丸の月は、電線にかかる。今度は、次の電線との間に入る。「ミだ!」「ファだ!」
そうなると、一句ひねり出したくなった。というのも、札幌時代、まだ小さかった息子(2人!)と、住んでいたマンションの中庭から満月を見上げながら、句会でもないが、共に一句をひねり出そうとして、互いの陳腐な句に笑い合ったことを思い出したからだ。
今年の作は、「満月や 空の五線譜かけあがり」。あの日の満月を見上げた次男(保育士)に電話で「どういう光景を詠んだ句かわかる?」と聞いたら、苦笑しながら、一応分かってくれたが、やっぱり陳腐だ。「満月符(=全音符)」に替えると……くどいか……
   風流とはとても言えない「お月見」だったが、何かゆっくりした時間が過ごせた。怜と松田先生は、砕石の庭(駐車場)に仲よく這いつくばって、石の間からたくましく生え出たドクダミを臭っている。いつの間にか、満月符は、五線を抜け出て輝いていた。

 
9月 園長だより

飛ぶ蚊、走るゴキブリ、歩く人間、一番速いのは?

2学期に向けて、二日にわたって園内研修をした。『実践記録集』のための発表、運動会のイメージ作り、一学期の振り返り、二学期の当面の予定。子どもたちを育てるための課題は山積、難しい顔も、時には涙も。しかし、互いのユーモアの中で笑顔がこぼれる。
だから、というわけでもないが、二日目の最初に、わたしが出したクイズは、蚊とゴキブリと人間、一番速いのは?というものだ。何人かに答えてもらったが正答者はいなかった。ここで、先を読むのをやめて、どれが一番か考えてほしい。答えは最後に記しておく。
ネタ本は、京都の恵文社一乗寺店の書棚で出会った、松田行正編『1000億分の1の太陽系+400万分の1の光速』。太陽系の半径、50天文単位(太陽と地球の距離の50倍=75億?)を1000億分の1のスケール(600頁=7500?=75m)に縮めて表現したものだ。
これを繰っていると、改めて地球と太陽の近さを感じる。また、太陽系で最も遠い海王星でも全太陽系の6割の位置でしかなく、その先4割をなお太陽の作用圏にあることが分かる。ふと、幼いころの子どもとの関わりが、その子の生涯を支える光となることを思う。
編者は、光が1秒間に進む距離30万?を400万分の1にして、同じ頁数の中に表現した。水星を少し過ぎたところに、蚊の飛行速度69?/秒が出てくる。その後、金星さらに地球を過ぎたところに、人間の歩行速度とゴキブリの速度が1.5m/秒で、仲よく登場する。
   皆さんは正しく答えられただろうか。わたしたちの想像と、実際とは一致しない。だから、わたしたちの基準で子どもを測るのでなく、子どもが何を思い、どうふるまっているかを注意深く観察して、彼らに寄り添いたい。そこから新たな出会いが始まる。

7月 園長だより

青い鳥を探して歩くと……
 
3月のこの欄に、「ふぞろいな石ころたち」という一文を書いた。小説『二十四の瞳』の「岬の分教場」を訪ねたときに拾ったペンギンの風体の石のことを紹介したのだ。それがきっかけで、ロダの会6月例会では、「石ころ探し」に行こうということになった。
わたしはロダの会参加者(幼稚園のお母さんや同OB)の期待を背負って、事前に蒼社川沿い、桜井海岸等、近場のあちらこちら探索したが、「いい」場所がなく、結局、集会の拠点として都合の良いサンライズ糸山の海岸で石拾いをすることにした。
そこは、あのペンギン石のような「いい」石ころがふんだんにある場所ではなかったが、それゆえかえって、部屋に戻ってのプレゼンでは、各々、ありふれた石一個の美しさを知らせたり、人間や動物に「見立て」たり、組み合わせの妙を紹介したりしたのだった。
特に興味深かったのは、石ころを数個集めて家族に「見立て」た人が複数いたことだ。わたしは椅子のような形のこぶし大の石を見つけ、その上に何かを座らせようと思いついた。そこに顔のように見える石を載せると、不思議な味わいが出てきた。
メーテルリンクの『青い鳥』ではないが、幸福の象徴である青い鳥は、結局のところ自分達に最も手近なところにあるのである。それは、既に「在る」ものを見直すことにより、また、周りとのつながりの中に、「いい」を超えて見出される。子どもたちも同じだ。

6月 園長だより

雨は高いところから「ぱらぱら落ちる」

♪ぱらぱら落ちる雨よ、雨よ〜。小さいころから数えきれないほど歌ってきた賛美歌だ。「ぱらぱら」の「ぱ」は「上のド」。「落ちる」の「る」は「下のド」、印象的な下降音階が、1節では雨、2節では雪が天(そら)から落ちてくるのを表現する。
雨は、「乾いた土を柔らかにして、きれいな花を咲かすため」。雪は、「葉のない枝に暖かそうな、真綿の服を着せるため」。3節の星は、「旅する人が暗い夜にも、迷わず道を行けるため」。4節の鳥は、「きれいな歌で世界の人に、み神の愛を知らすため」。
賛美歌で必出と言える「神」の語は、この歌では、最後の最後に出てくるだけだ。これだって、種明かしのように「神」を使わず、1〜3節に倣って、「生きる喜び知らすため」でもいい。それでも、その背後に、わたしたちが表現しきれない存在を感じ取れる。
全節、前半は「なぜ落ちる?」「なぜ光る?」「なぜ歌う?」と問いかけ、後半は「〜(する)ため」と答える掛け合いになっている。わたしたちも童心に帰って、わたしたちが生きている世界に心を開いてみよう。問いかけてみよう。彼らはきっと応えてくれる。
最後に、この歌を伴奏なしで口ずさむなら、最初の「上のド」を高くとろう。天から落ちてくるのだから。そうしないと、「落ちる」雨や雪は地下に潜ってしまい、「る」に点々をつけたように泥まみれに――それもいいが(笑)。子どもと一緒に是非歌ってみてほしい。

5月 園長だより
 
朝の見守り役
 
めぐみの朝は早い。バスの運転手は6時半にはもう来ている。7時15分には早番の先生を乗せた1便バスが出発する。わたしは遅番の先生と共に、7時50分から朝のお祈りの時間を持つ。その日の司会が、「さんびか」をリードし、「大きな声で、ハレルヤ!」。聖句を暗誦し、その日の保育とバスの安全を祈る。簡単な打ち合わせをして、8時には終わる。
子どもたちもぼつぼつ集まり始める。大型バスの1便が帰ってくると、幼稚園は少しずつにぎやかに。今年は、先生たちがバスに添乗して、教室が手薄になる時間帯の見守りにわたしも加わらせてもらっている。時には、教会の方の打ち合わせが始まる9時半(バスの最終便が到着する直前)ぎりぎりまで見守って(遊んでもらって?)いる時もある。
シール帳にシールを貼り、連絡ノート類を出し、タオルをかけ、コップと歯ブラシと水筒を置き、リュックと手提げと帽子を掛け……上靴も忘れず履いて、漸く、最初の作業が終わる。そこからは、一人で、また、友だちと、さまざまな遊びに興じ始める。積み木で大架橋を作ってみせる子ども、10以上の手順でハートを折り紙してくれる子ども。
こちらも動く遊具として子どもたちと戯れる。両手をつないででんぐり返し、ハイジャンプ、回転……ちょっと息切れして、「休憩!」。ぽつぽつと話をしてくれる子、聞いて聞いてと情熱的に語る子、「座って」と言っておぶさってくる子、「お鍋の所に来て」と誘いに来る子……。全員がそろう前のちょっと自由な、幸せな時間。

2013年度4月 園長だより

さくら、さくら

  28年前、今治めぐみ幼稚園でチャプレン=幼稚園付き牧師(の卵)を3年間務めました。その頃、園の正門には大きな桜の木がありました。始園・入園式のころともなると、桜は、幹から広がる枝々を薄桃色の花衣で装って、子どもたちを迎えてくれたものです。
札幌、新潟と転勤をして、3年前に帰ってきたら、その桜はいなくなっていました。その喪失感は相当なものでした。今は、それに替わって、小ぶりの桜木と、幼木が植えられています。あと何十年たったら、あの木ほどに大きくなるのでしょうか。
4月初め、休みをとって、家族でドライブを楽しみました。今治から丹原を抜け、桜三里を通って松山へ。名前通り、三里の道は、桜、桜、また桜です。道沿いの桜に、谷を隔てた山に点在する桜、密集する桜に、存在感あふれる一本桜。野も山も和んでいました。
その1か月ほど前、太い木の幹の一部が園庭に運ばれてきて、藤田司先生ののこぎりの音が響きました。永遠に喪われたと思っていたあの桜でした。春分の日には、桜の花枝が挿されてよみがえりました。わたしは、ドキドキしながら、卒園児を見送りました。


3月 園長だより
 
ふぞろいな石ころたち
 
 また、石の話から……。先日、「ロダの会」に集ったお母さんたちに、石ころを見せた。研修で小豆島を訪ねた際、足を伸ばして小説『二十四の瞳』ゆかりの「岬の分教場」に行き、その堤防下の浜辺にゴロゴロと打ち寄せられている中から、捜し出したものだ。
さぞあきれられると思いきや、意外と反応がいい。均整のとれない円錐形のそれは、首を少し突き出したペンギンの風体に似る。頭の辺りには石英の細い筋が巡っていて、ちょっと猫背の後ろ姿には哀愁が漂う。底は完全な平らでない分、テーブルに置くと前後に体を揺らす。
発表会が終わった。不揃いな石ころたちが、思わぬ造形を生み出し、絶妙のハーモニーを奏でた。完全な円錐や、完全な立方体を、きちんと並べても生まれない美があった。演ずる喜びを爆発させている子の隣で、煉瓦のお家が倒れないように見守り続ける子がいる美しさ。
太鼓のバチの出遅れを、懸命に取り戻した石ころと鼓動を合わせて音楽を創って行った石ころたちの場合、その美が、発表用の楽器に習熟するだけにとどまらず、練習で様々な楽器と戯れ、奏する楽しみを味わっていたところから来ていると聞いて、納得。
 わたしは、先に、石ひとつの持つ絶妙なバランスに美を認めた。しかし、この発表を見ているうちに、自己完結的な石ではなく、他の石と組み合わされることによって生まれる、その都度新しい美の誕生にこそ注目せねばと思えてきた。うちのペンギンにも仲間を見つけなきゃ。


2月園長だより
 
探しなさい。そうすれば、見つかる。

 お年玉で新しいテニス・ラケット(前衛用)を買った怜が、向かいの教会駐車場で「壁打ち」をするようになってしばらくしたある夜、戻ってきて、「お父さん星がきれいだよ」と、玄関先から声。わたしは腰を上げ、一枚羽織って裸足のまま靴をつっかけ、外に出た。妻も後ろから付いてくる。見上げれば月齢10の月が煌々と照る隣に木星が「負けじ」と光っていた。
息子が聞く、「冬の大三角形ってどれ」。「ええっと、オリオン座の赤い星ベテルギウスと、その左下にある一番明るい恒星シリウスと、……それから何だっけな。あの辺りの星なんだけどな」、とわたし。分からないままでは残念なので、急いで部屋に戻り、PC持参で探す。「ああ、そうか、プロキオンだ。こいぬ座のα星。そして、シリウスはおおいぬ座のα星、忘れてたなぁ。ほらほらあれだよ」、一通り聞くと、息子は天球から手元の球の方へ戻っていった。
わたしは、なお、空を見上げて、冬の大三角形をピースのひとつとする「冬のダイヤモンド(六角形)」探しに熱中。天を指差しながら、「プロキオンの左上にあるふたご座のポルックス、そして、天頂近くのカペラ、右下に降りてアルデバラン、最後に、オリオン座のリゲル」と独りごつ。でも、「ふたご座って本当に双子だよね」には妻が素早く反応。「『ベルサイユのばら』のオスカルとアンドレは、カストルとポルックスに例えられてたわ」。「へー」とわたし。
さらに調べると、冬の南天の明るい星たちには、「シリウスの大円弧」「ビッグG」「ウィンターW」というような「見立て」もあることを知る。「冬の大三角形」という「見立て」しか知らなかったところから、「もうひとつの見立て(冬のダイヤモンド)」を教えてもらっただけで、もう夜空が友だちになった。きっと、子どもたちの世界が広がるのもこんな風なのだ。

1月 園長だより
 
ほめてあげてください

 昨年秋より、出会いがあって、子どもたちの発達支援のため、スクールカウンセラーの大石早苗先生のご協力を得ている。月一度の「芽ぐみの会」の日には、個別相談やクラスの巡回をしてくださると共に、集まってこられた保護者たちと自由に懇談して、その声に耳を傾け、子育てのヒントを与えてくださっている。
 そんな中で、先生がよく言われるのは「子どもたちをほめてあげてください(傷つけるのでなく)」ということだ。「そうすれば、子どもたちは育っていくのです」。ハッとして、思い出した。前の所属教会のメンバーで保育者でもある横坂幸子さんが、成長が遅く、しばしば的はずれな、今は中一の我が子の、良いところを見つけては、キラキラした目で伝えてくれたことを。
その時、本人も、ほめられて、小鼻をうごめかしていたし、親は親で、我が子もまんざらではないと思って嬉しくなったものだ。幸子さんからは、時々、そんな報告があって、わたしたち親子は育てていただいた。同じように、聴覚障がいを持つ親子も、その絵心(絵や写真の芸術性)や軽妙な手話を見出されて、年々、存在感を増して行った。
わたしたちのうちで育ったのは、「自尊感情」だ。自分は大切な存在だと思えるとき、わたしたちの表情は豊かになった。その言葉も、行動も生気を帯びた。こうして、わたしたちは、ちょっと自信を持ち、その狭いカラを破って外の――厳しいところもあるけれど、自分の可能性を拓いていける――世界へ出て行けた。「めぐみ」の子どもたちも、きっとそうなって行く。

12月 園長だより
 
人生の春の中の四季めぐり

 落葉樹が好きだ。めぐみ幼稚園前のケヤキ通りの樹々は、今年の秋も紅葉を楽しませてくれたが、今は、木枯らしに枯れ葉をふるい落とされて行く。毎日、子どもたちを見送った後、先生たちがそれを掃き集める。もうしばらくすると枝ばかりとなろう。
 落葉集めを手伝っているわけではないので、言えたことではないが、これは晩秋の風物詩である。紅葉で終わればいいとは思わない。落ちるところに風情がある。黄色いイチョウの落葉の絨毯などには、新雪のような神々しさを感じる。
落葉樹の美しさは、落葉で終わらない。札幌にいた時、葉を落とした樹木のシルエットがなまめかしいのに感動したことを思い出す。雪に映えるのはクリスマス・ツリーとなる常緑樹だけではないのだ。これは住んだからこそ知り得たことだ。
落葉樹の裸木は、冬は日差しを集める。血の通っている樹の根本はいち早く雪を融かし、そこに福寿草の黄色い花を咲かせて、歩くスキーや「かんじき」で森に入る者の頬を緩ませる。やがて、芽吹きが紅色に山を笑わせると、透明な新緑が恥ずかしそうに葉を広げていく。
人生の春と言える子どもたちの一年の中にも四季がある。一年成長して、次の学年になると、やはりその学年の中の春を過ごし、夏に力強く緑を濃くし、力をつけて秋を迎える。古い葉を落とすのも成長のため。ほら、裸の心身が去年より大きくなっている。

11月 園長だより
 
今治で一番はじめにバザーをやったのは?

 今年も、「はや」バザーの季節がやってきた。もっとも、春から「めぐみセール」などの準備にあたられている保護者の方々にとっては「いよいよ」ということになる。あちこちでバザーをやっている今日、めずらしくもないが、この町で、かつてバザーと言えば、今治基督教会(わたしたちの教会の旧称)のバザーであった。
最初のバザーは1927年(昭和2)のこと。教会有志が1922年(大正11)に町の(タオルなどの)工場で働く家庭のために立ち上げた今治託児愛育園を支えるためであった。同園は今治で最も古い保育園である。当初、同じキリスト教会の救世軍(社会鍋など社会奉仕で有名)が運営を担ったが、ほどなく当教会婦人会が引継ぎ、今治空襲で焼失するまで続けられた。
開かれたのは6月10日の「時の記念日」。この収益によって、10月5日には「託児所の新館定礎式を行」い、「12月20日には大正通りに之れが竣成を見るに至り」、明けて1928年(昭和3)2月1日に、式典の日を迎えている。その後も、お寿司だけで2,500食という毎年のバザー収益(園経常費の1/3ほどにもなった)で、子どもたちとその家庭を支援した。
戦後、保育園事業は今治市の行うところとなり、教会は新たに今治めぐみ幼稚園を生み出して、幼児教育の業に仕えてきた。いつからかバザーも11月3日となる。開催日は変わっても、また、幼稚園が学校法人に替わっても、収益の用途の比重は変わっても、最初のバザー同様、町の人々と共に幼児教育を支えている。今年は、被災地の子どもたちをも憶えつつ働きたい。

10月園長だより
 
子どもたちの「石ころ探し」に気づいていますか?

 牧師室(園長先生のへや)には、最近、こどもたちが入り浸っている。お目当ては、わたしの持っている『こびとづかん』(前回紹介)のシリーズだ。その脇で、最近注目されることもなく、寂しそうにしているのが、ガラス容器に水を張った中に住まっている石ころたちである。
 部屋を訪ねる人々は、メダカか金魚がいなくなった水槽だとでも思うのか、こう言う。「これはいったい何ですか」。「石ですよ」。するとたいてい、こうだ。「なんで石を水の中に入れるんですか」。「きれいだからですよ」。そう、乾いた石を濡らすと、石本来の輝きが戻って来るのだ。
 皆が不思議そうに聞くので、ちょっと孤独感もあったのだが、同じ感覚の人がいることを知って、ほっとした。NHKの番組「ココロとカラダ満つる時間(とき) おふっ、」に登場した、石大好き女優・とよた真帆さんだ。彼女は、オフになると、渓流等に石探しに入る。
 探されているのを待っていた石を拾いあげると、地球活動の悠久の歴史の中で石が石となるまでを想像する。石ころというアイコンをクリックして、何枚ものウィンドウを開き、タイムトラベルするわけだ。そして、こう言う。「石は、地球のドラマが詰まったプレゼントなんです」。
 子どもたちは、由来を知らずとも「地球からのプレゼント」が好きだ。「すてきな石ころを探してみよう」と声をかけると、目の色を変え、気に入った石を拾ってきて講評を仰ぎ、好評を博すともう一個を求めて駆け出す。子どもたちの世界には、石以外にも「石ころ」が一杯ある。

9月園長だより

げいじゅつざんまい?のなつやすみ

 お盆休みに、家族で高知に墓参りをした。宿泊のチェックインまで間があるということで、近くにある高知県立美術館に向かった。周囲に広く水を張った美術館へは、水の中の通路を進んで入場。開催中だったのはミロ展とトリックアート展。下の二人は後者を中心に両方を鑑賞。
 抽象芸術の好きなわたしが、ミロの作品をやっと半分を観終えたところで迎えが来て、終了。ここで、ホテルに帰る組と、もう一館行こうという組に分かれる。わたしたち夫婦と怜が目指したのは、高知城脇の高知県立文学館で開かれている「なばたとしたか絵本原画展」。
『こびとづかん』と言えば、「ああ、あれね」と言われる方もいよう。こども芸術学科で学んでいる次男が食い入るように見るのは当然として、あの怜までが、一枚一枚興味深く眺め、絵本原画が連続ページで並べられている所では、声に出して読み聞かせてくれた。
 夏休みの終わり、母校・同志社で2年に一度行われる協議会のため、京都に出かける。夜は次男のアパートに一泊。わたしの目当ては、二か月ほどの間に書いたという彼の鉛筆画(65×50cm)50枚だ。ノートや教科書に書き散らかした「落書き」をもとに描いた習作には秀作も。
居室にあったスズキ・コージの原画はトイレ壁面へ移動され存在感を回復。その上方にトイレットペーパーの芯を何百本と積み重ねているのはちょっとしたオブジェ。何かが動くと、心が動く。心が動くと人が輝き、世界が輝く。「生活は芸術、芸術は生活」とは、誰かの名言。
こびとづかんの画像(プリ画像)


8月 園長だより

なつやすみだからできること

  夏休みに入った最初の月・火、今治教会の子どもの教会では、休暇村・瀬戸内東予キャンプ場にでかけた(卒園児も多数)。自然の中のキャンプサイトには珍客も現れる。日頃、草や木の枝にくっついて擬態(カモフラージュ)しているナナフシは、テントに張り付いてバレバレ。
擬態と言えば、浜では、同じくカモフラージュの名人のハマトビムシとハマダンゴムシ(わたしたちがよく知っているのはリクダンゴムシ)も、風化花崗岩を母岩とした砂粒に紛れていたが、子どもたちの来訪に大慌てであった。
日が暮れると、本来、木立の中に紛れているミヤマカミキリ、ゴマダラカミキリ、コクワガタ、カブトムシなどが、光に誘われてやってくる。虫好きの子どもたちは、すかさず捕らえて、我がものとし、飽かず眺めている。
子どもたちが寝静まった夜中、不寝番のわたしは、はくちょう(座)がゆっくり飛んでいくのを眺める。やがて、夜の底が白んでくると、明けの明星のみが輝く。それも消えると、雲に遮られながら、朝日が神々しく光を増していく。嵐(子どもたちの目覚め)の前の静けさ。
たった一泊だが、わたしの幼き日の「センス・オブ・ワンダー」が甦った時間であった。なつやすみだからできることは、思いがけない所に満ちている。最後になるが、天文年とも言える今年、大人のためにもう一つのワンダーがある。8月14日未明の金星食をお見逃しなく。


7月 園長だより

        
それならできそうです

 先日、歯科検診が行われた。田中丈博(若)先生の前で、大きく口を開けて、歯を見てもらう子どもたち。百人あまりの小さな歯を点検した先生を牧師室に迎えて、印象を聞かせていただいた。
 どう評価されるかと待ち受けるわたしに、先生は、口を開くや、「おおむね、良い」と言われ、ほっとした。おうちで、「♪しあげはおかあさん/おとうさん」をよくやってくださっていること、園でもお昼ごはんのあと、よく口がすすげていることがうかがえた。
 続いて、歯を守るためのあれこれを聞かせていただいた。ここでは、わたしが先生にぶつけた一つの問いを巡るやりとりだけを紹介しよう。「先生、完全に磨くのはたいへんですよね。何分も磨くなんて、自分のことでも、できません」。
「毎回完全に磨けなくてもいいんですよ。今回はここを中心に、次はここ、そして、その日のうちに、全部に行き届けばいいのです。」「ああ、そんなことでいいんですか。それならできそうです。毎回完全にはできないので、どうせできないと諦めてしまっていましたから。」
もっとも、先生はこうも付け加えられた。「それでも、磨き残しは出てきます。定期的には専門家に見てもらって、きれいにしてもらうといいですよ。わたし自身もそうしてもらっています。(歯)医者の不養生ではだめですからね。」気負いのない先生の言葉に癒された。

6月 園長だより
 
いのちの息が吹き入れられると

  めぐみ幼稚園のシンボルは「こひつじ」だ。今治教会員だった倉永由美子さんのデザインで、園バスにも登場する。これは、神さまとわたしたちを羊飼いと羊の関係にたとえている聖書による。だから、描かれてはいないけれど、「こひつじ」には、見えない神さまが共にいる。
いのちのはじめは誕生日。神さまが備えてくださった力が、母羊の出産を助ける。母羊が分娩を終えて起き上がると、臍帯は自然に切れ、子羊は産声をあげる。母羊が子羊の体についている粘液や粘膜をきれいに舐め取ると子羊の体は乾き、刺激で血がよく巡るようになる。
しかし、母羊が難産などで疲労し起き上がれない場合には、羊飼いが臍帯を切ってやる。仮死状態で生まれれば、羊飼いは、母羊に代わって、子羊の体、特に、鼻周辺に付着して呼吸を妨げる粘液や粘膜を拭い去る。鼻から息を吹き込んで自発呼吸を促し、胸をなでて刺激する。
 とりわけ、「いのちの息」によって子羊が危機を乗り越える場面は、遠い昔から人々に鮮烈な印象を与えてきた。こうして生き始めた「こひつじ」のいのちがよどまないように、羊飼いである神さまは、その後も、「いのちの息」を吹き込んでくださる。
あまり知られていないが、クリスマス、イースターにならぶキリスト教の三大祭の一つをペンテコステ(今年は5月27日)と呼ぶ。この日、イエスと別れを告げた弟子たちに、神さまの息が吹き込まれた。すると、彼らは力強くイエスさまの愛を生き・伝え始めたと言う。

 

5月 園長だより
 
「天地創造物語」と『色の女王』

  子どもたちと共にする毎週の礼拝で見る、子どもたちの表情が、いつも楽しみだ。先週の聖書は、混沌とした世界に、神さまが「光あれ」と言われると、光が生まれて闇と分けられ(1日目)、そこから、美しい世界が誕生していく物語。
 次いで、上の水(空)と下の水(海)が分けられ(2日目)、海と陸が分けられる(3日目)。光と闇には太陽と月・星が(4日目)、空に鳥、海には魚が(5日目)、陸には草や木、動物、人間が創造される。混沌から光によってコスモス(調和した宇宙)が現れる。そんな話。
 ふと、ユッタ・バウアー『色の女王』が浮かぶ。女王が、ある朝、城から出て、家来を呼ぶ。青、次いで赤、最後に黄を。しかし、皆でけんかとなり、全ては、灰色の世界に。女王の涙が止まらない。でも、こぼれ落ちた涙で、灰色がうすれていき、色たちが戻って来る。
「似ている、天地創造物語に!」そう思ったわたしは、子どもたちの前で、画用紙にいろんな色のクレヨンを走らせながら物語る。やがて、色たちが自己主張し出して、でたらめに混ざり合うと、なんとも嫌な色に変わって行く。子どもたちの顔も曇る。
そこに「光あれ」と神の声。光によって自分の居場所をみつけて輝きだした色たちは、やがて、仲よく色のダンスを始める。世界全体が輝き始める。子どもたちの顔もパッと明るくなる。神さまの声が聞こえる、「いつでも仲直りできるよ(やり直せるよ)」。
 
 

2012年4月 園長だより
       
もうしばらく見てみよう 

 わが家の小さな庭で、スノーポール(キク科の白い花)が二か所、丸い花束のようにふくらんでいます。春の庭の主役にと期待し、今、花盛りのチューリップを、引き立てるどころか、「しばらく見ているうちに」自ら庭の主役になっているのです。
 門に近い方のスノーポールの脇には、矢車草が背丈を伸ばしており、主役をうかがっています。一方、寒い冬を生き延びたマツバボタンが、夏の主役はわたしたちだと、密かにエネルギーをため込んでいます。実際、昨夏も狭い庭を、いつのまにか、覆い尽くしました。
 問題は、チューリップの周りに生えている草です。わたしはタンポポ科(キク科タンポポ属)の雑草だから抜こうと主張しましたが、妻は、矢車草だと主張して譲らず、「もうしばらく見てみよう」ということになりました。結局、最後まで見届けることになるのかもしれません。
 雑草(ゴメンナサイ)も、よくよく見ると、かわいらしい花ない庭の彩りとなっています。つくづく、それぞれがちがった出番を持ち、ちがった役割を持っているものだと思わされます。
めぐみの子どもたちの新しい庭は、どうなるでしょう。めぐみの園丁(せんせい)たちは、さりげなく並べ方や組み合わせの工夫をしながらも、それに頼るよりは、ひとりひとりの子どもの成長による絵柄の変貌を楽しみながら、子らと共に、季節を旅して行くことでしょう。

3月 園長だより

神さま、みーつけ

 年少さんとひよこさんの礼拝でお話をしました。その日の聖書の言葉は、ヨハネの手紙一4章16節で、「神は愛です」でした。とっても簡単なことばですが、わかったようでわからない。そこで、子どもたちに聞いてみました。「神さまを見たことがありますか?」「神さまはどこにいるでしょう?」すると、みんな「上の方」とか、「あっち」とか言ってくれました。くびをひねっている子もいました。そこで、わたしは、「神さまをさがしてみよう」とよびかけたのです。
 そして、前にいた「カナちゃん」を膝に乗せて、「ここに神さまはおられます」と言いました。キョトンとしたり、「えー?」という表情をしたりする子どもたち。でも、隣の子、また隣の子、「ここにも、ここにも神さまはおられます」というと、だんだんニコニコしてきました。
 こんどは、あかちゃんの真似をして、「みんなも赤ちゃんになってください」と呼びかけました。「ここにも、ここにも神さまはおられます」、こんどはおじいちゃん・おばあちゃんになってみてください。ちょっと腰を曲げてみるみんな。「ここにも神さまはおられます」と、わたし。
 「それでは仲よくハグしましょう」、子どもたちがニコニコ、ハグを始めると。神さまの愛がいっぱいに広がります。でも、わたしが若葉せんせいと喧嘩を始めると、なんだか神さまが見えなくなります。でも仲直り……。愛が戻ると、神さまが近くに感じられるようになりました。「愛のあるところに、神さま、みーつけた!」。だから、ほんとうに、「神は愛です」。
 

2月 園長だより
 
ふじたせんせい、ありがとうございました!

 ピンクバスが園に到着すると、「ふじたせんせい、ありがとうございました!」、子どもたちの声が響く。そして、ちょっと緊張気味に、子どもたちがステップを降りて玄関に上がる。その顔には、新しい一日への健気な決意がみなぎっている。
 一方、「ふじたせんせい」は、添乗の教師が交代すると、第二便を発車させる。教師からは、休む子が誰で、親が送ることになった子が誰なのかが伝えられる。慎重にアクセルを踏んで出発。信号では、青になってもすぐに動かない。赤で突っ込んでくる車もあるからだ。
道々、アンテナを一杯に広げ、あらゆる情報をキャッチして安全に努める。他園のバスが通ると、にこやかに挨拶を交わす。無理な運転をする車に対しては、こちらの権利を主張してもいいのに、ぐっと飲み込む。子どもたちを、安全、快適に、園へと運ぶ。都合で道を変えることもない。家を離れ、気が張っている子どもに、余計な負担をかけないための心遣いだ。
細心の注意を払っても、相手のあること。「ひやり」「はっと」もないわけではない。だから、毎朝、掃除、点検をしながら、冷静な運転を自分に言い聞かせる。そして、出発。一人一人子どもを乗せて走る。正門をくぐって、幼稚園の玄関に着く。バスのドアが開くと、子どもたちの声が響く。「ふじたせんせい、ありがとうございました!」 にこやかに笑顔を返す。
 

1月 園長だより
かけがえのない記憶

冬休み、我が家に、怜(6年生)が待ちかねたお兄ちゃんたちが帰省してきた。社会人1年生、大学3年生、全寮制高校1年生である彼らの願いは、久しぶりの巣でダラダラしたいとのこと。といっても、小学校教師である長男は、さっそく怜の縄跳び特訓に精を出した。絵本作りをしている次男は、ペンを片手に机に向かっている。三男は大好きなオシャレに余念がない。
歳も押し詰まると、だんだん、念願のダラダラ生活へ。それでも、元旦礼拝後の牧師館(我が家)のオープン・ハウスに向けて、大掃除と会場設営。ふすまを外して広間に変え、卓を運んで宴会場に。当日は、礼拝後一足早く家に戻り、お客様を迎える最終準備。そして、料理や飲み物を運ぶ。
一大行事も終わって正月二日は母方の実家(松山)へ、三日は父方の実家(高松)へ。彼処では祖父とカラオケ、此処では祖父とボーリング。おもしろいのは、隠しきれない、飾り切れない素の彼らが見られるところ。定点観測でもないが、同じことをする中で、身体能力、がまんづよさ、周りへのいたわり等、成長の度合いが分かる。
 高松では、恒例で、その夜のメニューが孫たちに託される。長男曰く「やっぱり、メインは、おじいちゃんの焼き鳥(鶏もも肉のタレ焼き)。伝授してもらわなきゃ」。祖父「じゃあ、響、火を熾してくれよ」。「もちろん」。父親の実家では、これを食べないでは済まされないというわけである。焼き鳥を含め、何気なく繰り返される毎年の営みが、かけがえのない記憶となって行く。それが心を育てる。めぐみ幼稚園では、いつもの餅つきで、新学期が明ける。


12月 園長だより
えんちょうせんせい、なんしよん

わたしたちの園に、日本基督教団の雑誌の取材が来たことがある。雑誌の表紙を今治教会の絵で飾るために、画家の金斗鉉さんがやってきたのだ。斗鉉さんは、その時のことをこう振り返る。「幼稚園児に囲まれてのスケッチは楽しい。いつのまにか僕のまわりに小さい画家たちの輪が出来た。……『わたしは……じゃけん』と話しかけてくる子どもたちといつまでも一緒にいたかった。」
「たしかに、たしかに」、とわたしは思った。「どこの子どもたちも好奇心旺盛で、人懐っこいが、今治の子どもたちは他所にもましてそうだ。」時には、彼らがしばしば、「えんちょうせんせい、なんしよん」と聞いて来るのを、「今は、お仕事しよんよ」とか、「もうすぐおでかけせないかんのよ」とか、分かるように説明するのに手こずっていた。
先日、伊予三島の教会を訪ねたとき、着任2年目のわたしに、教会の方々が問うた。「今治はどうですか。」その際、上に述べたような子どもたちのようすのことを話すと。皆口々に言われるには、「『なんしよん』というのは、三島でも使うんやけど、『いまなにしてるの』という意味ではなく、『せんせい、あそぼ』『せんせい、あそべない?』という意味なんよ。」「目からうろこ」とはこのこと。とたんに、子どもたちのその時の表情と言葉とがつながった。
もっとも、口調によっては別の意味にもなる。「そんな子どもの気持ちも分からんと、園長先生、なんしよん!」
 

11月 園長だより
このリンゴを見て、描いてください

園のチャプレン・大澤香先生から、今月のテーマについて学んだ。11月は「目を凝らす」である。いつもと違うのは、その日に限って、香先生が、教師たちに白い紙を一枚ずつ配ったこと。皆、内心これは何だろう?といぶかしがった。すると、先生はリンゴを取り出して、テーブルの上に置き、「このリンゴを30秒で描いてください」と指示する。
「静物画のデッサン?」と、少々身構えながら、「恥をかかないように」、懸命に取り組む面々。暫し響く鉛筆の音……。わたしは「もう一筋引きたい」と悪あがきするも、あっという間にタイム・アップ。香先生の次の言葉に耳を澄ます。
「皆さん、『このリンゴを描いてください』、と聞いて、『この』リンゴをよーく……見られたのではないですか。もし、『リンゴを描いてください』であったならどうですか。きっと、一般的なリンゴのイメージで描いたことでしょう。」とたんに、教師たちの顔に納得の笑顔が拡がった。
確かにそうだった。わたしは、リンゴの下の方に、少しくすんだ部分を見つける一方、上部には光を照り返して輝く赤い色に目を留めていた。『この』リンゴに「目を凝らし」ていたのだ。香先生は、こうして、難しい説明を加えずに、子どもたち一般ではなく、その一人一人に「目を注ぐ」ことの大切さを納得させてくれたのだった。

10月 園長だより                
天は神の栄光を物語り、大空は……

秋めく日々の中、牧師たちの研修に出かけてきた。行き先は琴平。2日目のフリータイムには、共にソフトボールを楽しんだ後、6名だけで「こんぴらさん」の奥社まで登った。行きは、涼しの杜と名付けられた山道を、誰ともすれ違うことなく進む。
多くの人が使う長い階段の道と途中で合流し、さらに肩で息をしながら歩くと、やっと到着である。それまで木々の隙間からかろうじてみえていた眺望が、一気に開ける。眼下には飯山(讃岐富士)が遠慮がちに頭を突き出した讃岐平野には、稲刈りを控えた充実の実りが広がる。 
遠くには、瀬戸大橋が、目を右手に向けるとうっすら屋島や五剣山まで見える。恵みの神さまが見ておられる風景に、ほんの少し近づいたような気がした。
帰りの道はひたすら石段を降りる。やがて本社の威容と、これに詣でる人々の祈りの姿を目に入れながら、また降りる。もうここまでしか登れないと諦めながら、遠くに思いを馳せて手を合わす人がいる。心打たれながらまた降りる。左右に土産物店が続くようになった。
ふと気づくと、登りの若いカップルが、道の真ん中で携帯電話の写真撮影機能を使って、上を見上げている。何を見ているのだろう。電線しかないのにと通り過ぎる。でも気になってまた振り返る。足を止めて、彼らと同じ方向を見上げると、そこには、天高く、秋の絹雲が泳いでいた。この大空の下で、こんどは子どもたちが神さまから与えられた手足で駆ける。駆ける。


9月 園長だより
塩ニモマケズ 夏ノアツサニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ

1学期が終わった直後、台風6号の影響で、元々予定していた日程の夕涼み会は中止になった。もっとも、北上していた台風は東に大きく旋回し、やがて大風も止んだ。「ああ、よかった」と胸をなでおろした。ところが台風は思わぬ副産物を残して行った。塩である。
その日、窓には白く、ねっとりしたものが付着した。日が経つと、街路樹や庭木の葉が枯れ始めた。台風が海水を巻き上げ、樹という樹に吹き付けたのだ。塩を必要量摂取出来る動物に対して、摂取した塩分をコントロールできない多くの植物は、本質的に「塩嫌い」だから、まともに塩を受けると枯死する。東日本大震災での塩害を思い起こしてほしい。
8月に入ると、園庭の桜樹も、ケヤキ通りのケヤキたちも、その葉をすっかり茶色に変えてしまった。数えきれない掌で太陽の光を受けていた樹は、一体どうなるのだろうと気を揉んだ。しかし、8月も半ばにさしかかると、淡い新緑が枯れたように見える枝先からこぼれ出始めた。元気よくとは言えないが、少しずつ、仲間を増やしながら……。ほっとした。
25日から30日まで、ボランティアで、仙台、石巻を訪れた。そこで長くボランティアのお世話をしている人が言った。「これでも、ずいぶん緑が増えてきたんですよ」。再生した緑を見ながら、被災した人々の「いのち」も再生し始めている。さあ、新学期。自園式給食も始まる。子どもたちの中にある「いのち」がますます輝きを増すよう、仕えて行きたい。
 



 8月園長だより
♪神さまください……遊ぶ力を

7月、ほし組に教育実習生のKせんせいが来てくれた。事前の実習は終え、今回は仕上げの実習である。ご本人は、テーマを定めながら、保育計画を練っておられた。そのテーマは、音感・リズム感等、子どもの応答する力を呼び起こすことだと、聞かされていて、それがどのような具体的プログラムの中で実践されるのか、楽しみであった。
2週間の実習の最後は、一日実習。設定保育の始め、「むすんでひらいて」の手遊びの変形で、うさぎ、カエルなど「動きながらいろいろなものに変身することを(Kせんせいと)楽しむ」子どもたち。次いでウッドブロックの音に合わせて、歩く・走る・スキップ。日頃の様々な動きの中にリズムがあったことを発見する喜びが、子どもを笑顔にする。
せなけいこのロングセラー絵本「ねないこだれだ」の読みきかせでは、Kせんせいのピアノで、フクロウ・くろねこ・ネズミ・どろぼうの「気配」が立ち上がると、子どもたちもその空気に同調する。双方向的な絵本の時間は、教室をミニ劇場に変えた。
午後のフルーツバスケットでは、子どもたちのルール把握の度合いの違いで、Kせんせいの想定外の事態も見られた。しかし、子どもたちは、クラスの中で培ってきた「遊ぶ力」で、アクシデントを乗り越えながら、ゲームを成立させていた。
 こうして、Kせんせいのすてきな一日プログラムは、子どもたちの力によって見事に完結させられたのだった。
7月園長だより
子どもと共に神さまに向かう

前任の新潟教会に横坂幸子さんという方がいた。北海道等で牧師を務めた父親を持ち、ご自身は、キリスト教保育の伝統校・聖和を出て、同附属幼稚園でも働かれたことがあった。新潟では地域の子育て支援に尽くされると共に、教会では教会学校の子どもたちを愛された。
そのまなざしはいつも保育者のもので、うちの子どもたちについても、親としては「やれやれ」とため息をついているところを、「響ちゃんは、こんないいところがあるんですよ」と、我が子の可能性に目を開かせてくれたりした。
そんな、幸子さんが、あるキリスト教雑誌に「祈り」について寄せた文章は忘れられない。
付属幼稚園に勤め始めたころ、私は大きな失敗をしました。……教えることに捕らわれていた私は、子どもたちと共に神さまに向かうのではなく、「お祈りはこうするものなの」とばかりに、子どもたちに対して祈っていたのです。……しかしある日、礼拝のなかで自分の両側に立った二人の子どもたちの肩を抱いて、「みんなと一緒にあなたに祈れることを感謝します」と祈り始めた時、子どもたちは生き生きと自分の言葉で祈り出したのです。私の祈りの途中から、自分の祈りを加えていく子どももいました。私が風邪をひいて、かすれた声で「神さま……」と祈り始めた途端、隣にいたJ君は、「先生はいま声が出ないんです。大変なんです。良くなるように守ってください」と祈ってくれました。
子どもを見おろして何かを伝えるのでなく、共に見上げて何かを受け取って行きたい。



6月園長だより
「きみがすきだって」って だれかぼくに いってくれたら

26年前、20代の僕は、牧師の卵として今治教会に来た。めぐみ幼稚園ではチャプレンの役割。「あたらしい先生」をまっさきに歓迎してくれたのは、当時の年長「ほしぐみ」「ひかりぐみ」のこどもたち。さっそくなかまにいれて遊んでくれ、僕はめぐみ幼稚園の一員になれた。
受け入れてもらった記憶は古びない。心がそれを憶えている。去年の春、23年ぶりに、今度は牧師として今治に帰って来て、あの時の年長さんの数名と再会した時、蛹の殻を破って、眠っていた記憶が、じわじわと広がって行った。
その一人が、今週末、結婚する。その司式を僕がする。パートナーとなる彼とも会った。リハーサルもやった。彼女手作りの式次第はもう手元にある。今、あの頼もしくも愛おしい幼子が、喜びと不安と緊張の中にいるのに同調している自分がいる。
当日の式は、彼女の希望通り、子どもの教会のこどもたちも見守る中で行われる。結婚の誓約の後には、みんなでこんな風に賛美歌を歌う。
♪「きみがすきだ」って だれかぼくに いってくれたら ソラ 元気になる
♪「きみはだいじ」って だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく
 
 

5月園長だより
さいごのひとつぶのなかに

4月の誕生会の後に、みんなで食卓を囲んだ給食の時間、ほしぐみさんの一テーブルに招かれ、隣の給食室でつくられたメニューに箸を進めた。メインディッシュは「スズキのムニエル」。テーブルでは、「これはサケとはちがうんよ。サケのみはあかいんよ」と講釈してくれる子に、「そうなんよ」、「そうなんよ」と合いの手が入る。白身の、身も心も文字通り「すすが」れるような味わいに、会話がうまみを添える。
食べ終えて、床にこぼれたご飯粒や、野菜片を拾い上げていると、Yちゃんが、声をかけてきた。「さいごのひとつぶのなかに、かみさまがおるんよ。」不意を突かれた。どきっとした。そして、すごいなと思った。おかあさん、あるいは、おばあちゃんから聞いたのかもしれない。でも、彼女の心の中にちゃんとキャッチされた言葉である。本当だ、「神さまは、最後の一粒の中に、本当におるよね」と返すのがやっとだった。
園は、今、自園式の給食をめざして「おためし給食」に取り組んでいる。「食」を通して、「いのち」を実感し、「いのち」に感謝することができるように、と。子どもにもそれを伝えよう、と。でも、もう子どもからそれを教えられている。

2011年4月園長だより
ようこそ、めぐみ幼稚園へ

春休みの園庭は、さぞ静かだろうと思いきや、「預かり」の幼稚園児、卒園児、小学生らで賑わった。エネルギーに満ち溢れるこどもたちが、お手伝いの先生たちに見守られながら思い思いに遊ぶ。お昼にはピクニックに行く日も。
その一方で、新しい年度の準備が進む。担任の先生たちは、新しい子どもたちの名簿を手に、新しい巣づくりに意匠を凝らす。少し前には、名残惜しそうにクラスの後片付けをしていたけれど、今は、心を前に向け、いそいそと手足を動かして、キラキラ眼(まなこ)を迎える準備だ。
一日の預かりを終えた夕刻、幼稚園のスタッフが、山形の高校に進学する我が子のために壮行パーティーを開いてくれた。「こどもの教会」の同級生たちも集って一緒に飲み食いし、順に園庭に繰り出してはミニ・テニスに興じる。そういえば、中学3年生で転校となった彼を、一年前の春休み、誰よりも早く歓迎してくれたのが「めぐみ幼稚園」だった。
入園する子どもたち、新しいクラスになる子どもたち、ここが、君たちの舞台です。心から歓迎します。ようこそ、めぐみ幼稚園へ。

今治めぐみ幼稚園
〒794-0043
愛媛県今治市南宝来町1-1-6
TEL.0898-23-0717
FAX.0898-35-0515
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通常保育
延長保育
預かり保育
途中入園可!
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