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園長室

園長だより  

2024年度11月園だより

 ようやく秋となりました。
 暑くもなく、寒くもなく、園庭では子どもたちが元気に遊んでいます。
 運動会でたくさんのご出席をいただき、ご声援をありがとうございました。
 おかげさまで子どもたちは体を動かすことの楽しみをますます豊かに味わい、自信に満ちて躍動しています。
 そんな子どもたちの様子を見ていて、「幼稚園」という言葉の起源を思いました。
「幼稚学校」ではなく「幼稚園」なのです。「幼な子の学校」ではなく、「幼な子の園」なのです。
 この「幼稚園」という言葉を始めたのはフレーベルです。フレーベルによると子どもたちは幼稚園という「園」に咲く花々です。皆違います。でも世界にただ一つの美しさ、尊さを持っています。そのように子どもたちは神様からいただいているかけがえのない存在なのです。
 そして子どもたちは、それぞれに豊かに育つ力を神様からいただいています。私たち幼稚園の教職員は、神様が子どもたちにお与えになった豊かに育つ力を信じて、そのお手伝い、お世話をさせていただくのです。それが幼稚園が「子どもの園」と呼ばれる理由です。
 園庭でのびのびと楽しく遊ぶ子どもたち、その姿はどれも個性的で、輝いています。まさしく園に咲く花々のようです。
神様がお与えになった育つ力を信じて、実りの秋の喜びを期待して、保育に励んでまいりたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 
11月の聖句
成長させてくださったのは神です。  コリントの信徒への手紙Ⅰ3章6節

2024年度10月園だより

 少しだけ涼しくなりました。
 二学期が始まった当初はあまりの暑さに子どもたちも外で遊ぶことができないでいましたが、最近になってやっと子どもたちが外で遊ぶことができるようになりました。
 園庭に子どもたちの楽しげな声が聞こえると嬉しくなります。実りの秋がすぐそこにきています。
 そうやって園庭で楽しく遊んでいる子どもたちを見ていますと好きなお友達を見つけ、好きな遊びを存分に楽しんでいます。
 危険な暑さの中で外遊びは制限せざるを得ませんでしたが、子どもたちそれぞれに豊かに成長している姿を見ることができてとても嬉しいです。
 幼稚園生活に慣れて、お友達と一緒に遊びを楽しみ、一緒に成長していく充実した二学期になることを期待しています。特に直近の運動会でご家庭の皆様に見守られ、先生やお友達と一緒に思いっきり体を動かして楽しむ姿を見ていただけることでしょう。
 そんな充実したみのりの秋のために保育に励んでまいります。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 
10月の聖句
ひとりよりもふたりが良い。  コへレトの言葉 第4章9節

2024年度9月園だより

 二学期が始まりました。
 まだまだ厳しい暑さが続いています。夏休みはいかがお過ごしでしたか。
 私は7キロ痩せました。主にジョギングです。月間走行距離、7月、8月はそれぞれ250キロ走りました。これだけ頑張ったらもう少し痩せていても良いはずなのですが・・・・やっぱり歳のせいか、痩せにくくなりました。
 さて、私が大切にしている本が三冊あります。聖書、「ハイジ」、そして「少女パレアナ」です。今月はパレアナのお話をします。パレアナは父親から「喜びの遊び」を教わりました。それはどんなことの中にも喜びを見つけて喜ぶという遊びです。
例えば、「与えられた部屋には、素敵な絵が一枚もなかった。でも、窓から見る景色はどんな絵よりも美しい。そのことを喜ぶ。」と言った感じです。パレアナが伝えた「喜びの遊び」は少しずつ町の人々に広まり、町中に幸せな笑顔が広がっていきました。
 私たちの日常生活のいろいろなことの中に、神様は喜びを備えてくださっています。それに気づく「喜びの遊び」を皆さまもやってみませんか?
 私はこの二学期、幼稚園の生活の中でこの「喜びの遊び」をやってみます。そして皆さまと共にたくさんの喜びに満たされた二学期となることを楽しみにしたいと思います。
 どうぞよろしくお願いします。

9月の聖句
主において常に喜びなさい。  フィリピの信徒への手紙第4章4節

2024年度7月園だより

今のところ、厳しい暑さにはなっていないようですね。
 あっというまに一学期が終わろうとしています。
 子どもたちは幼稚園の暮らしにも慣れ、元気に遊んでいます。お友だち同士のつながりが次第に強くなって、一緒に遊ぶ楽しさが園庭に溢れています。
楽しい幼稚園の生活を通して、子どもたちが愛されていることを実感し、「潤った」心を豊かに育みつつあることが嬉しいです。
 愛されている子どもって、どこか「潤って」見えるのです。
 幼児期にたくさん愛されて、心を愛で潤されて、すくすくと育っていってほしいと心から願います。愛された日々を過ごした子どもは自分を大切に生きていくことができます。その幸せな日々は、誰かを大切に、誰かを愛して生きることができるようになります。
 そんな自分を大切に、そして出会う人を大切できる人間形成に幼稚園がお役に立てますように。残り少ない一学期をどうぞよろしくお願いいたします。

7月の聖句
隣人を自分のように愛しなさい。  マルコによる福音書12章31節

2024年度6月園だより

 園庭のベンチに腰掛けて子どもたちの外遊びの様子を見ていました。
 随分と活発になってきましたし、違う年齢の子同士の交わりも見られてきました。
 嬉しそうに元気に園庭を走り回っています。暑くもなく、寒くもない、外で遊ぶには一番良い季節ですね。
 ある子が、「このお空は神様が作ったんだよね」と言って、すぐに走って行きました。
 遠足の時のお話を聞いてくれていたのですね。嬉しくなりました。
 ある子は園庭のイチゴを探していました。緑の葉っぱをかき分けて真っ赤なイチゴを見つけるととても喜んでいました。
 空も海もそしてイチゴも神様が愛情を込めて作った世界の一部です。神様は世界をお作りになった後、とても良くできたと喜ばれ、世界を祝福されました。
 その神様の喜びとする世界、祝福された世界で生きることを目一杯喜んで、思いっきり楽しく遊んで大きくなってほしいと心から願います。

6月の聖句
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。  創世記1章31節

2024年度5月園だより

 4月は、例年と比べて少し肌寒い春でした。まだ泣き声も聞こえますが、子どもたちは少しずつ幼稚園に慣れてきています。お天気の良い日には外で楽しく遊んだり、幼稚園の生活の中で自分の楽しいことを見つけ始めています。またお休みのお知らせも例年と比べて少ないようで嬉しく思っています。
 新しい年度、子どもたちの成長がとても楽しみです。
 今月の聖書、漁師たちはイエスの言葉を信じて、素晴らしい収穫を得ることができました。
 子どもたちの内に秘められた成長する力、それは神様がお与えになった素晴らしい贈り物です。
 その贈り物の可能性を信じて、自分たちの先入観によらないで子どもたちに寄り添って歩んで参ります。そのようにしてわたしたちはこの素晴らしい可能性を信じて、心込めて保育を行ってまいります。私たちの想像を超えた素晴らしい成長の姿を子ども達は見せてくれることでしょう。
 とても楽しみです。5月もどうぞよろしくお願いいたします。

5月の聖句
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。  ルカによる福音書第5章4節

2024年度4月園だより

年間聖句
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」   
 ヨハネによる福音書第14章6節
 
 春、2024年度、新しい出会いが始まりました。
 入園、進級、おめでとうございます。
 今年もキリスト教保育を通して、神と人から愛されている喜びを伝え、生きる喜び、生きる力を育み、子どもさんとご家庭の幸せづくりのお手伝いをさせていただきます。
 さて、めぐみ幼稚園では神様を敬い、人を愛する人に育ってほしいと願っています。「神様を敬い」という時、具体的には礼拝を通して、イエス・キリストという人の素晴らしさを子どもたちに伝え、イエス・キリストを大好きになってもらうところから始めたいと思います。イエス・キリストは子どもたちが大好きでした。そのイエス・キリストの愛が、子どもたちが神様を知り、神様を敬う手掛かりになります。そして子どもたちは自然に神様に愛されていることを喜び、神様を敬う子どもへと育っていってくれることと信じます。
 神様を敬い、人を愛する心は、きっと子どもたちの生きる喜び、生きる力につながっていくことでしょう。
 新年度もどうぞよろしくお願いいたします。
 
4月の聖句
新しい歌を主に向かって歌え。  詩編 第96章1節

2023年度3月園だより

 毎週、子どもたちは礼拝ではしっかりとお話を聞いてくれます。すごく嬉しいです。先日の礼拝では、それに加えて、さらに嬉しかったことがありました。
 「良きサマリア人」のお話をしたことです。このお話は、深刻な対立関係にあったユダヤ人とサマリア人であるのに、怪我をしているユダヤ人を、ユダヤ人は見捨てて、サマリア人が助けたというお話でした。子どもたちに「みんなは意地悪するお友達が困っていたらどうする?助けてあげる?」と聞きましたら、子どもたちは口々に「助けてあげる」と答えてくれました。子どもたちの優しい心がすごく嬉しかったのです。
 聖書のお話を毎週礼拝で子どもたちに伝えてきて、子どもたちが神様に喜ばれる生き方「良い道」を自然に身につけていることを思わせられて、本当感謝です。
 残りわずかな三月の歩みですが、最後まで子どもたちとの出会いを感謝し、精一杯保育に励んでまいります。どうぞよろしくお願いしたします。
 
3月の聖句
主よ、あなたの道をお教えください。  詩編86:11

2023年度1月園だより

 新しい年となりました。
 12月にガリラヤ館が完成致しましたが、そこに至るまでのご協力ありがとうございました。
さて、コロナ禍以降、「密」という言葉に悪いイメージがついてしまったように思います。感染防止のためやむを得ないことでしたが、本来、これはとても残念なことです。人と人との距離が近いこと「密」であることは、本来は良いことのはずです。それは心の近さ、心のつながりの強さ、豊かさにつながっているからです。それは感染防止とは全く別の次元でとても大切なことです。
 三学期、保育の総仕上げの時期となりました。あえて子どもたちとの心の距離を「密」にして、しっかりとつながって、保育の励んでまいりたいと思います。毎日の生活を通して、神様とのつながり、教師と子どものつながり、子ども同士のつながりを大切にしてまいります。そのつながりが、豊かに実を結ぶ春を迎えられますように。
 どうぞ今学期もよろしくお願いいたします。

1月の聖句
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。  ヨハネによる福音書 15章5節

2023年度12月園だより

 私が24歳、駆け出しの頃の話です。友達のところに遊びに出掛けたら、彼がこれから「○○会に行く」と言いました。好奇心旺盛な私が「僕も行っていい?」と言いますと、彼は「別にいいんじゃないかな。」と言いました。そこで私も彼の後について行ったのですが、会場は有名なレストランでした。集まってきた人たちは年配の立派な身なりの人ばかり、後から分かったのですが、クリスチャンの経営者の会合でした。今でいう「これはやばい。偉い人ばっかり。どうしよう。」と思ったのですが、「あとの祭り」です。それでも会に集まって来られた方々は暖かく私を受け入れてくださいました。そしていつもその会合の「しめの一言」を言われる方の言葉が忘れられません。その方はこう言われたのです。
「幼子は、神がこの世界に決して絶望してはおられないのだというメッセージを携えて生まれて来る。」この言葉に深い感動を覚えました。この言葉は、インドの詩人タゴールの言葉だそうです。
 今、この世界には大きな不安があります。イスラエル、ロシア、ミャンマーなど終わりのない争い、抑圧が続いています。先日はミサイル(人工衛星?)が日本上空を通過して、とても恐ろしい思いをしました。至る所で終わりの見えない対立が起こっています。幼稚園に通っている子どもたちと同じ子どもたちが、戦いに怯え、傷つき、命を失っています。そのようなどうしようもない世界に対して、神は絶望しておられない。そのメッセージが幼子の誕生であるというのです。子ども達の存在、新しい命の誕生は私たちの希望です。そのようなメッセージを携えて、クリスマス、イエス・キリストがお生まれになりました。この世界に対して神は決して、絶望してはおられません。神は私たちを見捨てたりはされません。そのような希望のメッセージを込めて、クリスマスにイエスはお生まれになりました。この喜びを皆様と分かち合い、希望を新たにして、お互いに愛し合い、助け合う歩みを始めていきたいと思います。二学期も残り少なくなりました。どうぞよろしくお願いいたします。

12月の聖句
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。  イザヤ書9章5節

2023年度11月園だより

 この聖書の言葉には全世界を造られた神への賛美と感謝の想いが満ち溢れています。
 世界は神が心を込めて、愛を込めて造り上げた最高の作品であり、神の喜びとするものでした。神は光をもたらし、朝と夜を分け、海と陸地を分け、時の営み、季節の営みを定められました。そして海、陸、空を命で満たされました。そのようにして造られた世界を見て、神は大いに喜び、この世界を祝福されたのです。
 この自然の営みは神の配慮に満ちています。太陽の光、海や川の水、豊かな実りをもたらす自然の営み、目に見えないけれど、命を養うために決して欠くことのできない空気、世界は神の数えきれないほどの配慮によって保たれています。
 神が造られた素晴らしい世界にあって、人間は、神との愛の交わりに生き、神の恵みを喜び、感謝します。この世界は、私たちが生きる喜び、生かされている喜び、共に生きる喜びを表現し、神を褒め称える「賛美のステージ」なのです。
 この世界は、神が私たちに委ねてくださった尊い「贈り物」です。前任の幼稚園で、子どもたちに、「贈り物をもらったらどうする?」と尋ねたら、「ありがとうと言う」と答えました。「それからその贈り物をどうする?」とさらに問うと「大事にする」と答えました。この子どもたちの声に大切な真理があります。
 この世界は神の愛の贈り物で満ちています。秋の季節、収穫の季節、自然の充実を感じます。豊かな実りを感じます。その一つ一つを与えてくださった神に、子どもたちと共に感謝し、賛美し、喜びに満ちてこの世界を生き、大切にする心を育んでいきたいと思います。

11月の聖句
地はお造りになったものに満ちている。  詩編104編24節

2023年度10月園だより

 10月といえば、もう秋のはずですが、まだまだ暑さが続いています。それでも朝夕はずいぶん過ごしやすくなりました。また、ようやく日中の外遊びも少しずつできるようになりました。子どもたちは運動会を楽しみに幼稚園で元気に遊んでいます。
 二学期になり、友達との関係も深まってきました。クラスとしてのまとまりもだんだんできてきました。そんな中10月の聖句が心に響きました。
「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ヨハネによる福音書10章16節
 集団がまとまるためには、中心が必要です。幼稚園であれば、各クラスの中心は担任であり、その担任がしっかりとクラス全体を配慮する時、クラスのまとまりはグッと深まり、またお互いの友達関係も深まります。
 さらに深いところでは私たちの幼稚園の中心はイエス・キリストによって表された神であり、神様を礼拝し、神様を敬うことによって、私たちは神様を中心に深く結び合わされ、しっかりとしたまとまりある集団へと育っていきます。
 二学期、そのようにして集団生活のまとまりを育て、みのりの秋を過ごしたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
10月の聖句
羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 ヨハネによる福音書第10章16節

2023年度9月園だより

 猛暑の中、夏季保育が行われました。預かり保育にたくさんの子どもたちがきていますが、やはり全園児登園しての保育は大きな喜びです。
 一日目は再会を喜び、二日目は誕生会と礼拝、三日目は夏祭りと楽しさ山盛りの三日間でした。二日目は誕生会に続いて礼拝を行いました。お祝いの子どもはなんと14人、一人一人をお祝いするのには、当然のことながら、かなり時間がかかりました。保護者の方もおいでになって子どもたちは興奮状態、この後に礼拝を落ち着いて守れるかな?そもそも無理なことだったかな?と心配していましたら、誕生会が終わると共にスッと雰囲気が落ち着いて、いつものようにとても落ち着いた礼拝を守ることができました。子どもたちの気持ちの切り替えと集中力、お話を聞く力に感心してしまいました。三日目の夏祭りは、かき氷、ヨーヨーつり、魚釣り、輪投げなどなど、楽しいこと山盛りでした。
 人はパンだけで生きるものではない。(ルカによる福音書第4章4節)
 人は、食べ物だけで生きるのではありません。食べ物だけ与えられていても人間の命は、本来の輝きを放つことはできません。人は、神様の愛に守られ、人同士の生き生きとした愛の交わりの中で生きていくのです。成長していくのです。その時、子どもたちの命は豊かに輝くのです。
 2️学期、たくさんの楽しいことが待っています。遊びの中で楽しみながら、喜びながら、時にはぶつかり合って、豊かな交わり、コミュニケーションの中で、子どもたちの生きる喜びと豊かな成長を果たしていきます。子どもたちの命が生き生きと輝く姿が楽しみです。2学期もどうぞよろしくお願いいたします。

9月の聖句
人はパンだけで生きるものではない。 ルカによる福音書第4章4節

2023年度7月園だより

 暑くなってきました。プール遊びも始まりました。よほど楽しいのかプール遊びを楽しむ子どもたちの歓声は、道一つ隔てた私の執務室まで聞こえます。
 6月25日の家族招待礼拝はとても幸せな時間でした。コロナ禍で2020年から中断し、以来3年ぶりの開催となりました。駐車場が日吉小学校ということで皆様にご不便をおかけました。ご理解ご協力、ありがとうございました。
 また、ガリラヤ館建築工事が始まっております。長きにわたる工事で皆様方にご不便をおかけしております。こちらへのご理解とご協力にも重ねて御礼申し上げます。
 さて、私、中学生の頃新聞配達のアルバイトをしておりました。そのこともあって早起きが得意です。今でも朝は4時には起きて、仕事をしたり、ジョギングしたりしています。朝の時間は特別な時間です。1日の始まり、ここをどう有効に過ごすかがその日1日に大きな影響を与えます。人間は朝日を浴びて体内時計をリセットすることによって生活リズムを整えます。それまでのいろいろなこと、疲れ、ストレスをリセットして新しい1日を始めることができます。
 朝日を浴びることよりももっと大切なことがあると私は思います。それは朝、目覚めるたびに今日の命を感謝するということです。今日も目覚めることができた。神様ありがとうございます。今日も1日どうぞお守りください。感謝の心で1日を始めることは、朝日を浴びて体内時計をリセットするよりも大切です。その感謝の心を具体的に表すのが朝の挨拶です。
 幼稚園にいるときは必ず、朝、子どもたちを迎えるようにしています。子どもたちと出会えること本当に大きな喜びです。子どもと神様に感謝の心を込めて「⚪︎⚪︎さん、おはようございます。」と挨拶します。感謝の心で1日を始める。その積み重ねの中で子どもたちにも感謝の挨拶の心が育ってほしいと願っています。
 一学期も残り少なくなりました。どうぞよろしくお願いいたします。

7月の聖句
「主に、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。」 詩編5編4節

2023年度6月園だより

 梅雨に入りました。お外で遊べないのは残念ですが、「恵みの雨」と思うことにしましょう。
 先日の親子遠足は青空の下、楽しく過ごすことができました。
 波方公園の美しい自然、青空、白い雲、緑の中で、お友だちとご家族といっしょに遊んでいる様子はとても幸せそうで、見ていて嬉しくなりました。このような時間は本当に貴重な良い思い出になりますね。
 美しい自然も私たちの命も、神様が作られました。世界は神様からの素晴らしい贈り物です。「神様、ありがとうございます」の心で、自然を大切にし、思いっきりのびのびと遊ぶ経験を大切にしたいと思います。
 6月もどうぞよろしくお願いいたします。
 
6月の聖句 
主はわたしたちを造られた。 詩編 100編3節

2023年度5月園だより

 日中は少し暑く感じられますが、朝夕はまだひんやりとしています。
 新学期がスタートして1ヶ月、子どもたちは園生活に少しずつなれてきたようです。
 めぐみ幼稚園では、毎週礼拝を行っています。全園児が礼拝堂に集まって、心を静かに、讃美歌を歌い、暗誦聖句を唱え、聖書のお話を聞きます。初めのうちは、クラスのお部屋に行って礼拝をします。
 このマルチメディア全盛の時代ですが、子どもたちはなんの変哲もないただお話をとてもよく聞いてくれます。
 私が聖書のお話をするのですが、子どもたちに楽しく聞いてもらえるようにいつも努力しています。子どもたちの知らない言葉は使わない。ゆっくりと笑顔で子どもたちの顔を見て話す。不思議なのですが、「みんな大好きだよ。一緒に礼拝できてうれしいよ。このおはなし、先生も大好きだよ。」と感情を込めて話すと不思議なくらい子どもたちは受け止めてくれます。そんな子どもたちと共にする礼拝の時間が私は大好きです。礼拝を通して、子どもたちにが、神様を、イエス様を大好きになってほしい。お話を聞くことを楽しみにする子どもに育ってほしいと心から願っています。

5月の聖句
主よ、お話ください。僕は聞いております。  サムエル記上3章9節

2023年度4月園だより

 新しい年度が始まりました。あっという間に桜が満開になって、葉桜。幼稚園の前のケヤキ並木は若葉がまぶしくしげっています。
 今治めぐみ幼稚園は、今年度から認定こども園(幼稚園型)に移行しました。めぐみ幼稚園の幼児教育を充実させていきたいとの願いからです。新しいこともあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
 さて、今月の聖書の言葉は、めぐみ幼稚園にとって原点ともなる大切な言葉です。
 イエス・キリストは、子どもが大好きでした。そして子どもたちの姿の中に大切なものを見ていました。それは相手を信頼して全てを委ねる姿勢です。「人間もこれくらい神様を信頼して神様に自分を委ねたら良いのに。子どもを見習いなさい。」とイエスは言いたかったのかもしれません。
春、新しい生活の中で、子どもたちは幼稚園を信頼して自分を委ねてくれます。その信頼に全力で応えて保育に励んでまいります。
 今年度もどうぞよろしくお願いいたします。

4月の聖句
子供たちをわたしのところに来させない。  マルコによる福音書 第10章14節

2022年度3月園だより

 依然として寒い日々ですが、少しずつ春の気配も感じます。桜の木も芽が膨らんでいるのか、 少し柔らかく見えたりします。「どこかで春が生まれてる」という歌を思い出します。
 先日の生活発表はありがとうございました。昨年はコロナ禍の中で録画開催となり、とても残念でした。今年は久しぶりに年少から年長児まで同時開催できました。ちなみにひよこ組は年齢的特徴から幼稚園での開催が望ましいと考え、昨年から幼稚園ホールで行っています。今年の年長児はコロナ禍の中で入園し、コロナ禍の中で卒園していきます。様々な面で経験させてあげたいことを実施できず、悔しい思いがありました。
 それでも子どもたちは素晴らしい成長の姿を見せてくれました。特に最後の歌では、最前列に座っていて思わずハンカチで涙を拭いていました。それを年長児がしっかりと見ていたようで「園長先生、泣いとった」と言っていたとのことでした。
 神様とご家庭の皆さまに心から感謝いたします。
「強く、雄々しくあれ。」今月の聖書の言葉です。これだけ男女平等、機会均等が求められている時代にいかがなものかとも思います。要するに「大丈夫、勇気を出して」という意味で良いのかなと。
 年長児は卒園して小学校へ、在園児もそれぞれに新しい歩みとなります。子どもたちの前には長い人生の道があります。辛い時もあることでしょう。不安に感じることもあるでしょう。そのような時に幼児期に愛されて楽しい時を過ごしたことが大きな支えとなります。そんな人生の支えとなる幸福な幼児期のお手伝いをこの一年精一杯させていただいてまいりました。新しい歩みへと踏み出そうとする子どもたちに「神様も、イエス様も、そして私たちもみんなのこと大好きですよ。だから大丈夫、勇気を出して」とメッセージを持って保育を成し遂げてまいりたいと思います。
 本当に残りわずかな日々ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。

3月の聖句
強く、雄々しくあれ。  ヨシュア記1章6節

2022年度2月園だより

寒中、お見舞い申し上げます。
一年で一番寒い時期となりました。
子どもたちは寒さに負けず、元気に走り回っています。その楽しそうな声に励まされます。
幼稚園で働いていますと、自分の幼児期のことを思い出そうとします。でもずいぶん忘れてしまいました。それでも漠然としていますけれど、楽しかったなあ。幸せだったなあと温かい気持ちになります。愛されていたのかなあ。可愛がってもらったんだなあ。そんな確信だけはしっかりとあります。幸せなことだなと感謝します。
人間の世界では何もないところからは何も出てきません。人を愛そう、人を大切にしようと思えるのは、誰かから愛してもらったからです。家族、友だち、先生、たくさんの人から、そして神様から大切に愛していただいて、今があります。
そのような愛に感謝して、子どもたちにもそんな幸せな幼児期を送ってほしい。そのために子どもたちを心から愛し、大切にしていきたいと思います。
三学期残り少ない日々、どうぞよろしくお願いいたします。

2月の聖句
ここに愛があります。  ヨハネの手紙Ⅰ第4章10節

2022年度1月園だより

 新年、明けましておめでとうございます。
 かなり寒い日々でしたが、寒さも少し和らいできました。
 皆様、お正月はいかがでしたか。
 三学期がとても楽しみです。
 さて、「うれしい心は、誰かに分けてあげると増えるんだよ。」と子どもたちによくお話ししています。美味しいリンゴを誰かに分けてあげて一緒に食べたら、一人で食べるよりも絶対に美味しいですよね。「分かち合い」です。
一緒に遊び、一緒に食べて、一緒に楽しんで、時には一緒に悩んで、一緒に悲しんで、喜びは倍になって、悲しみは半分になる。  
 子どもたちと生活の喜びも悲しみも分かち合って、実り豊かにさん楽器の保育を全うできればと願っています。
どうぞよろしくお願いいたします。


1月の聖句
一緒に喜んでください。   ルカによる福音書 第15章6節

2022年度12月園だより

 12月となりました。ガリラヤ館解体工事も完了し、更地となって、とても広々とした眺めです。登園降園を始め、さまざまな面での皆様のご協力、ありがとうございます。
 さて、幼稚園ではクリスマスの準備が始まりました。アドヴェントクランツにロウソクの明かりをつけて子どもたちはとても楽しみに毎日を過ごしています。
 クリスマス、それは旅のドラマということができます。ヨセフとマリアの旅、羊飼いの旅、博士たちの旅、いろいろな旅によってクリスマスのドラマは成り立っています。その旅の目的地はベツレヘムの馬小屋です。そこでイエス・キリストのお誕生の出来事を祝うのです。全世界に神の愛を伝えるためにお生まれになられた救い主のお誕生を祝うのです。この大きな喜びに向けて、幼稚園も子どもたちと共にクリスマスの旅を始めています。とても楽しい旅です。12月、寒いけれども暖かい、忙しいけれど、嬉しいクリスマスをもって、二学期の保育を成し遂げて参ります。どうぞよろしくお願いいたします。

12月の聖句
さあ、ベツレヘムへ行こう。  ルカによる福音書第2章5節

2022年度11月園だより

 すっかり秋となりました。運動会では、皆様のご声援ありがとうございました。子どもたちは、大好きなご家族に見守られて、思い存分体を動かして楽しみました。最後の親子フォークダンスでは毎年のことながら「涙腺崩壊」でした。
 さて、二学期のこの時期、子どもたちの友達関係もずいぶん深まってきました。子どもたちは一緒に遊びを楽しみ、時にはぶつかり合いながら仲良くなります。困った時には勇気を出して、ためらわないでお手伝いする子どもに育ってほしい、それが神様がお喜びになることだという意識が身について欲しいと願っています。そのような優しさ、思いやりが育つように子どもたちの一日一日に寄り添って歩んでまいります。
 11月もどうぞよろしくお願いいたします。


11月の聖句
わたしのとなりびととは だれですか。  ルカによる福音書第10章29節

2022年度10月園だより

 涼しくなりました。秋です。食欲の秋、芸術の秋、体育の秋、実りの秋です。
 四月に入園し、園生活に慣れ、自分の遊び、友達を見つけて、楽しく過ごした子どもたち、そんな園生活の「実り」が大きく現れてくる季節です。
 実りは「つながり」によって実現します。教師とのつながり、友達とのつながり、神様とのつながり、たくさんの愛情を受けて、成長する喜び、生きる喜びが溢れます。そのキーワードは「つながり」です。聖書に学び、神様の言葉、子どもたちの言葉、ご家庭の皆様の言葉を大切に受け止めつつ、保育に励んでまいります。そして子どもたちの成長の喜びに輝く姿を見て、喜びを分かち合いたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
号外 礼拝堂耐震補強改修工事完了!!
 耐震性に不安があって、礼拝堂の使用は長らく制限しておりました。この度、耐震補強改修工事が完了しました。基礎、土台、床、壁、天井、屋根瓦、外装塗装などなど、新しくなり、ピカピカの礼拝堂です。9月22日、初めて全園児で礼拝を守りました。「わー、明るい」、「きれい、レストランみたい」などとの子どもたちの声、本当に嬉しいひとときでした。
ご家庭の皆様のご理解とご協力、ありがとうございました。近日中に礼拝堂をご家庭の皆様にも公開いたします。どうぞお楽しみになさってください。
 

10月の聖句
その人は豊かに実を結ぶ。       ヨハネによる福音書第15章5節

2022年度9月園だより

 まだまだ暑い日が続いています。それでも空の景色は秋の気配を感じます。
 いよいよ二学期が始まりました。依然として新型コロナウイルスの猛威が続いています。出口の見えない状況ではありますが、絶対に諦めません。精一杯できることを考えて、子どもたちの大切な一日一日が生きる喜び、成長する喜びに満ちたものとなりますように、期待に胸膨らませて、保育に努めてまいります。
 さて、私の先輩がこういうことを言われました。
「一個のリンゴの中にある種の数は誰にでもわかる。しかし、一粒の種から実るリンゴの数は誰もわからない。」
 一粒の種、まかれる土地によって、実りは全然変わってきます。一つの言葉を受けても、その受け止め方によって、その後の様子は全然変わってきます。神様が素晴らしい恵みを与えてくださっても、受け止め方によって、その後の実りは違います。素直に感謝して、まずはやってみる。その姿勢を大切にして、実りの秋を子どもたちと喜び合えるように保育して参ります。どうぞよろしくお願いいたします。
 

9月の聖句  
また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは百倍になった。
マルコによる福音書第4章8節

2022年度7月園だより

 いよいよ暑い夏本番となりそうです。
 子どもたちはプール遊びや水遊びを楽しんでいます。そんな楽しそうな子どもたちの様子を見ていると思わず「これが天国・・・」と呟いてしまいました。ロシアによるウクライナ侵攻は続いています。他にも紛争地域はたくさんあり、そこでは子どもたちが恐れ慄き、命を脅かされています。それを思うと、今の幼稚園の生活は、本当に恵まれていると思えて、「天国」という言葉が浮かんできたのでした。
 こんな素晴らしい日を過ごせることの喜びを子どもたちと分かち合い、神様と周りの人たちに心から感謝したいと思います。そんな喜びと感謝の生活が神様をほめたたえる生活につながるのだと思います。
 暑い夏となりそうですが、皆様のご健康をお祈りいたします。

7月の聖句
「主に向かって 心からほめ歌いなさい。」  エフェソの信徒への手紙5章19節

2022年度6月園だより

 今月の聖句「探しなさい。そうすれば見つかる。」は、片付けが苦手で仕事はいつも私にとって、個人的は耳に痛い言葉です。それはともかく。
 子どもたちは、好奇心が旺盛です。不思議に思ったこと、興味のあること、「なぜー」「どうして」と目をキラキラさせて質問してくれます。これからもそんな好奇心を大切にしてほしいと思います。答えに行き着くことも大切ですが、探し求める過程そのものにも意味があります。ワクワクドキドキしながら目を輝かせて、探し求めてほしいものです。時として神様は探していた以上の素晴らしいものを下さることがあります。
私たちも子どもたちと共に目を輝かせて、遊びの楽しさ、面白さ、生きる喜びを探し求めていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

6月の聖句
探しなさい。そうすれば見つかる。  マタイによる福音書第7章7節

2022年度5月園だより

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
                               マルコによる福音書第10章13~16節
 
 4月、嬉しい出会い、嬉しい始まりの時でした。
 今月の聖書の言葉はキリスト教主義の幼稚園にとって特別に大切ですので、二つのことをお伝えしたいと思います。

1.今治めぐみ幼稚園(キリスト教幼稚園)の使命
 イエス・キリストは子どもたちを愛されました。多忙で疲れていても、子どもたちを決して拒むことなく、愛し、祝福されました。このイエス・キリストの子どもたちへの愛を伝えるために今治めぐみ幼稚園は作られました。幼児教育を通して、神さまの愛を子どもたちとそのご家庭に伝え、ご家庭の幸せづくりのお手伝いをさせていただく。これが今治めぐみ幼稚園の使命です。今月の聖書はそのことを示すとても大切な聖書です。

2.子どもから学ぶこと
 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」イエス・キリストは子どもを愛されました。そして子どもから学ぶようにと言われました。何を私たちは子どもから学ぶのでしょうか?それは、ありのまま全てを委ねる姿勢です。子どもはある意味とても弱い存在です。一人では生きていけません。だから親を100パーセント信頼して全てを委ねます。そんな子どものような姿勢で神様に全てを委ねなさいとイエス・キリストは教えています。子どもに学びなさいとイエス・キリストは言われます。私たちも子どもを受け入れ、子どもから学びつつ共に歩んで参りたいと思います。
 どうぞよろしくお願いいたします。

5月の聖書の言葉
 子どもたちをわたしのところにこさせなさい。神の国はこのような者たちのものである。
                          マルコによる福音書第10章14節

2022年度4月園だより

新しい年度が始まりました。
ロシアによるウクライナ侵攻、終わりの見えないコロナ禍。毎朝、暗いニュースで始まります。人間はなんと愚かなあやまちを繰り返す生き物なのでしょうか?子どもたちが戦場に行かされたり、戦火におびえるような時代にもなりかねません。やりきれない思いで胸が塞がります。
それでも春になりました。明るい春に光が差し込んでいます。
インドの詩人タゴールは言いました。
「幼児は、神がまだこの世界を見捨ててはいないというメッセージを携えて生まれてくる。」
このような愚かな人間のことを神様は決してお見捨てになってはおられません。この世界を神様は愛をもって見守り、支えてくださいます。このメッセージを子ども達に伝え、希望を奮い起こして、キリスト教幼児教育を通して、子どもたちとご家庭の幸せづくりのお手伝いをさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
2022年度年間聖句
主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。    
                                          詩編 第121編7-8節
 
4月の聖書の言葉
   私の助けは来る 天地を造られた主のもとから。
                 詩編 第121編1-2節

2021年度3月園だより

 皆様、寒い中、いかがお過ごしでしょうか。
 2月にはついに幼稚園でも新型コロナウイルス感染者が確認され、その対応をめぐって、皆様にご協力いただきました。深く感謝申し上げます。
 幼稚園で把握する限りでは感染者の方々は快方に向かっておられるとのこと、心よりお祈りいたします。
 残り少ない幼稚園の日々、どうかこのまま何事もなく最後まで過ごしたいと祈るばかりです。
そのような折に今度はロシアのウクライナ侵攻という大事件が起こってしまいました。コロナで痛み傷ついている世界に今度は戦争・・・本当に残念な事態です。ウクライナにも幼稚園も保育園もあることでしょう。めぐみ幼稚園に通ってくるような可愛い子どもたちがたくさんいるはずです。そんな子どもたちが、どんなにか不安に怯えていることか、そして家族は・・・そう思いますと胸が締め付けられそうになります。心から平和の回復を祈るばかりです。
そんな中、子どもたちが本年度の歩みを終えようとしています。この幼稚園から小学校へと巣立っていく子どもたちもいます。このような不安な時代であっても、だからこそ、心から笑顔で祝福したいと思います。これからの新しい歩みにもイエス様が共にいて守ってくださいます。私たちはいつまでもお祈りしています。懐かしくなったらいつでも遊びに来てください。
そんな思いを胸に三月を過ごして参ります。「あと少しかない」ではなく、「あと少しある」と考え、最後の一分一秒まで子供達の成長と生きる喜びのために保育して参ります。この1年間、ありがとうございました。どうぞよろしくお願いいたします。

3月の聖句
 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。  マタイによる福音書第28章20節

2021年度2月園だより

 寒い日が続いています。私が今治に来まして6年になりますが、今年が一番寒いかも知れません。朝、駐車場で子どもたちをお迎えしていますと手も足もガチガチに冷えてきます。カイロが欠かせません。カイロは体を温めてくれますが、心を暖めてはくれません。心は子どもたちの笑顔が暖めてくれます。
 昔、ある先輩がいました。随分と厳しい人でした。でも忘れられない一言をくださいました。「幼稚園はな、子どもの味方なんだ。」この単純な言葉が、私の幼稚園運営の根本にあります。
 子どもとご家庭の幸せを実現するため、神様の愛と祝福を伝えるために今治めぐみ幼稚園はあります。今月の聖書の言葉はその原点を確かめさせてくれました。残り一月半、一日一日に感謝し、大切に保育してまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
 
2月の聖句
 「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」  マタイによる福音書第10章13節

2021年度1月園だより

 心より新年のご挨拶を申し上げます。
 旧年中は暖かなご理解とご支援ありがとうございました。
 クリスマスも場所の変更はありましたが、皆様のご協力により、とても暖かく嬉しいひと時となりました。
 一月の聖句は「子よ、元気を出しなさい。」。
 この言葉、「大好きなあなた、元気を出して」と言い換えて良いと思います。
 神様は子どもたちの素晴らしい可能性を信じて期待しておられます。そしてその素晴らしい成長を楽しみしておられます。
 三学期、私たちは、この神様の心に倣って、大好きな子どもたちに寄り添い、子どもたちの成長の素晴らしい可能性を信じて、本年度の保育を最後まで行なっていきたいと思います。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 
1月の聖句 
 子よ、元気を出しなさい。  マタイによる福音書9章2節

2021年度12月園だより

 秋も終わり、もうすぐ冬、そしてクリスマス。コロナ禍で色々と不便ですけれど、それでもとてもとても楽しみです。
 そんなクリスマス大好きな私には大切なクリスマスの思い出があります。牧師になって初めての教会は岩手県の教会でした。教会の主任牧師と幼稚園の実質園長(法的には事務)を務めていました。冬、ある日、スーッと雪が降ってきて、すぐに一面真っ白。とても綺麗でした。でもそれが毎日続くのです。宮崎県生まれの私には想像もできなかった寒さでした。暗い夜、薄明かりの中に真っ白な園庭、クリスマスイヴの夜、24歳、独身の私はひとりぼっちでため息をついていました。今なら「クリぼっち」と呼ぶのだそうですね。もうすぐ日付が変わる頃、外からクリスマスの賛美歌が聞こえてきたのです。近くの教会の牧師さんが、青年たちを引き連れてきてくださったのでした。「寒いクリスマスの夜にひとりぼっちはよくない。僕と息子の二人だけででもくるつもりだったよ」とのことばを添えて。それは何ものにも勝る最高のクリスマスプレゼントでした。心から「メリークリスマス。クリスマスおめでとうございます。」との挨拶を交わしました。
 クリスマスの喜びは、「あなたは独りではない」ということです。神様が一緒にいてくださいます。そして素晴らしい仲間を与えてくださいます。
 幼稚園のクリスマス、神様が一緒にいてくださることを子ども達と喜びたいです。神様がお父さん、みんな家族、そんな温かいクリスマスになりますように。どうぞよろしくお願いいたします。
 
12月の聖句
 おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。  ルカによる福音書第1章28節

2021年度11月園だより

 すっかり秋となりました。運動会では様々なご理解とご協力をありがとうございました。毎年のことながら、体を存分に動かして楽しむ子どもたちの生き生きとした姿、笑顔、真剣な眼差しに大きな感動を与えられました。
 さて、冒頭の聖書の言葉、なんだか不思議な言葉ですね。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」とは一体どういうことでしょうか?
 私はこの聖書の言葉を聞いて、パラリンピックを思い出しました。東京で行われることもあって、それまで無関心だったパラリンピックを初めてまともに見たのでした。パラリンピックに参加する人たちは、何かしら障がい、弱さを抱えています。誰かの助け、手伝いがなければ競技を行うことができません。お互いが助け合って競技を行う、助けられる者が助ける者に感謝するだけでなく、助ける者も大きな喜びと感謝に満たされて、一緒になって思いっきり競技を楽しんでいる姿、そこにはオリンピックにはない大きな感動がありました。強さ、速さ、効率だけを求める世界にはない共に生き、支え合う中で与えられる大きな喜びの世界があることをパラリンピックを見ていて教えられました。そしてこの聖書の言葉は本当なのだなとしみじみ思いました。
 幼稚園の生活の中でもお互いが支え合って共に歩む喜びの生活を目指していきたいと思います。
 今月もどうぞよろしくお願いいたします。
 
11月の聖句
 わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。 
  コリントの信徒への手紙二 第12章9節
 

2021年度10月園だより

 少しずつ秋らしくなってきました。子どもたちは、運動会への期待に胸を膨らませながら、張り切って毎日練習を楽しんでいます。これからしばらくの間、いわゆる「暑くもなければ、寒くもなし」。幼稚園の生活にも慣れ、外で体を動かして遊ぶのに最も良い季節となります。
 さて、ある政治家が地方に出かけて、支持者に向かって、「君、名前は何というのか」と聞いて、支持者が例えば「高橋です」と答えると、その政治家は「高橋という苗字は知ってるよ。私が知りたいのは君の下の名前だ。」というのだそうです。するとその支持者は「先生が自分の名前を知っていてくださったんだ」と感動するのだそうです。実は、この政治家の先生、この支持者の名前を実は知らないのです。でも、こういう言い方をするといかにも知っているように思えて、相手が喜んでくれます。実に上手に人の心をつかむものですね。
 名前を覚えてくれていることは、とても嬉しいことです。自分が大事にされているような気持ちがします。反対に忘れられていると寂しいものです。私など、なかなか名前が覚えられなくて、反省してしまいます。
 神様は、私たち一人一人の名前をしっかりとご存知です。神様にはどうでも良い人は一人もいません。私が尊敬する牧師がこういうことを言っていました。「神様はどうでも良い人をお造りになるほどお暇な方ではない。」と。この秋、保育の充実の中で、神様が、子どもたち一人一人をしっかりと覚えてくださっている。愛してくださっているという喜びを感じられるように保育に励んでまいります。
 皆様の上に実りの秋の祝福をお祈りいたします。
 
10月の聖句
 あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。  ルカによる福音書 第10章20節

2021年度9月園だより

 いつもありがとうございます。
 猛暑、長雨(大雨)、猛暑。そしてコロナウイルスの感染拡大。今年の夏休みは大変な夏休みになってしまいました。皆様は、そして皆様の大切な人たちは大丈夫でしたでしょうか?
 新型コロナウイルスの第五波の影響で先の見えない前途多難な二学期となりそうです。それでも、感染対策、さまざまな工夫で、実り豊かな二学期を実現したいと思います。
 さて、私たちがこれから二学期を実り豊かなものとしていこうとする時、そもそも何が実り豊かなことなのかを確かめたいと思います。
 それは子どもたちが、生きる喜び、愛される喜び、成長する喜びに生き生きと輝くことです。二学期も保育の一つ一つの活動を通して、子どもたちの声を丁寧に聞き、子どもたちの実態にあった適切な支援を行い、子どもたちに神様の愛を伝えます。そして子どもたちが愛されている喜びに輝き、その愛を周りの友だちと分かち合って、互いに愛し合う生活が実現するようになること。それが幼稚園の「実り豊かな」生活です。その実現のために励んでまいります。
 二学期もどうぞよろしくお願いいたします。
 
9月の聖句
 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。  ヨハネによる福音書第13章34節

2021年度7月園だより

 いつもありがとうございます。
 幼稚園ではプール遊び、水遊びも始まりました。梅雨の晴れ間に子どもたちは早くも夏の遊びを楽しんでいます。新学期が始まって、それぞれに入園、進級と新しい生活が始まり、初めは泣いていた子どもたちもすっかり幼稚園の生活に慣れて、遊びを楽しむことができるようになってきました。そんな子どもたちの様子をとても嬉しい気持ちで見ています。
 7月の聖書の言葉は「勇気を出しなさい」です。イエス・キリストは弟子たちに寄り添って、励ましてくださいました。それによって、弟子たちは安心して、勇気付けられ、困難を乗り越えていくことができました。
 このイエス・キリストに倣って、幼稚園の保育の中で、子どもたちに寄り添い、それぞれにあった言葉掛け、支援を行う中で、子どもたちが安心して新しいことに挑戦し、少しずつ成長していってほしいと心から願っています。もっとも実際そのような姿を子どもたちが見せてくれていることに大きな喜びを感じます。
 残り少ない一学期ですが、子どもたちが勇気をだして新しいことに挑戦していけるように、成長の喜びを豊かに感じてもらえるように、子どもたちに寄り添っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 
7月の聖句
 勇気を出しなさい。  ヨハネによる福音書16章33節

2021年度6月園だより

 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 ルカによる福音書/ 12章 27節
 
 六月には花を飾って礼拝します。それぞれに子どもたちが持って来てくれた花を見ながら子どもたちに尋ねます。「王様やお姫様の服とこのお花とどっちがきれいかな?」
 子どもたちはいつも「お花の方がきれい」と答えてくれます。よくわかっているなあと感心します。子どもたちは物事の本質、一番大切なことはしっかりとわかっていることがおおいです。
 イエス・キリストも野原の花に目を止め、その花の美しさの中に神様の素晴らしい働きを直観したのです。そして神様はその花よりもずっとずっと私たちを愛してくださっていることを伝えました。花は、神様の素晴らしい御業を伝える共に神様の私たちへの愛の大きさを教えてくれています。このように愛されていることを喜び、その愛されている喜びを誰かと分かち合って、ますます豊かに喜びに満たされる。そんな喜びの分かち合いの経験を子どもたちと重ねていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 
6月の聖句
 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。  ルカによる福音書12章27節

2021年度5月園だより

 いよいよ五月となりました。
 愛媛県において、コロナ禍はますます深刻さを増しています。その一方で幼稚園は穏やかなスタートとなり、子どもたちは少しずつ幼稚園になれてきました。先日は、松山市で傷害事件が発生し、容疑者が逃走中ということで、幼稚園では4月26日、27日は厳戒態勢でした。容疑者は27日四国中央市で確保されたとのこと、26日にはもしかしたら今治市に潜伏していたのかもしれません。そう思いますとゾッとしました。また、多少大袈裟だったかもしれませんが、厳戒態勢をとってよかったと思いました。つくづく子どもたちの尊い命を預かるつとめの重さを感じました。
 さて、五月の聖句は以下の通りです。
 あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。
 マルコによる福音書 第5章34節
 ある女性がいました。女性は長い間病気で苦しんでいました。その治療のために財産を使い果たしてしまいましたが、病気は一向に良くなりません。この女性は困り果てて、イエス・キリストなら癒してくれるだろうと思って後ろからイエスの服に触ったのです。多分普通の人なら気付かない些細な接触だったと思います。驚いたことにたちまち女性の病が癒やされたのでした。さらに驚いたことにイエスはたちまち気づいて「誰かが私に触った」といってその人を探し始めたのでした。女性は驚き、隠しきれないと思って、正直にイエスに事情を話したのでした。それを聞いたイエスがその女性にかけた言葉が五月の聖句です。イエスという方は、心のアンテナがとてもよく研ぎ澄まされていました。人の心、切なさ、辛さに気づいて、しっかりと受け止めることができる方でした。だから女性の心を聞いて優しく受け入れてくださったのです。
 私たちも、保育の場面で、心のアンテナを常に整え、子どもたちの心を丁寧に受け入れ、う寄り添うことができる様に努めてまいります。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 
5月の聖句
 あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。  マルコによる福音書第5章34節

2021年度4月園だより

 新しい年度が始まりました。
 コロナ禍はまだ続いています。それでも新しい年度、感謝と喜びと期待で胸が高鳴ります。
 感染対策に努めながら保育に励みたいと思います。
 さて、今年度のキリスト教保育総主題は「共に喜ぶ」です。
 
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
コリントの信徒への手紙一 第12章26節
 
 1.何を喜ぶのでしょうか?それは神様から命をいただいて生きていること、神様から、家族から、先生から愛されていること、お友達と一緒にいられること、成長できることです。そのためにまずは笑顔で子どもたちと出逢いたいと思います。子どもたちと出会い、一緒に幼稚園の生活を送ることができることを喜び、感謝して、子ども達を迎えます。そして子ども達に寄り添い、子どもたちの心の声に聴きます。そこから保育の歩みを始めていきます。そして生きる喜び、一緒にいられる喜び、一緒に成長できる喜びを一つ一つ積みなさねていきます。
 2.誰と喜ぶのでしょうか?それは子どもたちと、ご家庭の皆様と、教職員同士とです。喜びは、誰かと分かち合うとますます大きくなります。お互いの意思疎通を大切にして、課題を共有して、一緒に歩み、喜びを分かち合う一年としたいと思います。
 本年度もどうぞよろしくお願いいたします。
 皆様の上に神様の祝福をお祈りいたします。
 
 
4月の聖句
 わたしは良い羊飼いである。  ヨハネによる福音書第10章14節

2020年度3月園だより

 寒さも和らぎ、春も近く感じられます。皆様いかがお過ごしでしょうか。
 先日、生活発表を無事に行うことができました。新型コロナウイルス感染対策として、入場制限、二部開催など、皆様のご理解とご協力ありがとうございました。当日は子どもたちが素晴らしい成長の姿を見せてくれ、ご家庭の皆様とともに喜び合うことができて、とても良い生活発表となりました。
 そんな生活発表の余韻を楽しみながら、日々、増えていく春の光を受けて、子どもたちはますます生き生きと輝いて遊んでいます。できることが増えてうれしい、お友だちとの遊びが深まって楽しい、面白い、そんな子どもたちの姿をとても嬉しく思います。その一方でもうすぐ今年度が終わる、年長組は小学校へと巣立っていく、年中、年少、満三歳児は一つ進級するという嬉しさと寂しさの入り混じった感情、かと思えば新型コロナウイルスによってこの幼稚園生活が中断されはしないかという心配、なんとも複雑な胸中で三月を迎えました。とにかく今年度末まで無事に保育を全うしたい、全うさせていただきたいそんな思いでいっぱいです。
 そんな中でも新しい旅立ちをしようとする子どもたちに向けてのメッセージは「あなたは独りではない」です。神様がイエス様が一緒にいてくださる。そして家族、お友だちもいっしょ。あなたは決して独りではない。だから大丈夫。安心して歩いていってね。期待と不安の入り混じった人生の歩みに、そんな神様の「寄り添い」があることを伝えたいと思います。残り少ない日々、幼稚園の保育を通して、子どもたちに「寄り添い」、最後までの成長の喜び、愛される喜びを実感できる保育を行なってまいります。どうぞよろしくお願いします。
 
3月の聖句
 わたしは必ずあなたと共にいる。  出エジプト記3章12節
 光の子として歩みなさい。  エフェソへの信徒の手紙5章8節

2020年度2月園だより

一年で一番寒い頃を過ごしています。皆様いかがお過ごしでしょうか。いつもありがとうございます。
 新型コロナウイルスの拡大に歯止めがかからずついに再び緊急事態宣言が出されました。いつ、幼稚園を休園しなければならない事態になっても不思議はありません。当たり前の幼稚園の日々が突然途切れてしまう。そんな不安が胸を去りません。そう思うと幼稚園の通常の日々がなんと尊く愛おしいものか。とにかくこの日々が続いて欲しい。三学期の終わりまで保育を行いたい。そればかりを願っています。つくづく先が見えません。でも先が見えないなら今を大切にしよう。少しだけそう開き直ることもできました。
 さて、新型コロナウイルス危機の中、今、一番大切なことは何か?私はそれは愛だと思います。様々な情報が溢れ、混乱し、不安を煽り、人間不信になりがちです。そのまま流されてしまうなら、それは新型コロナウイルスへの敗北です。このような時にあっても、このような時だからこそ、私たちはお互いを大切にする愛を失ってはならないのです。社会全体が大きな不安に揺れ動います。それでも私たちは愛を見失ってはいけません。幼稚園の保育、礼拝を中心として、聖書の物語を子どもたちに伝える中で、愛の尊さ、愛される喜び、互いに愛し合う喜びを子どもたちに伝えたい。分かち合いたいと願っています。
 残り少ない日々、どうぞよろしくお願いいたします。皆様のご健康を心よりお祈りいたします。
 
2月の聖句
「愛は、すべてを完成させるきずなです」  コロサイの信徒への手紙 第3章14節

2020年度1月園だより

新しい年2021年、心からご挨拶を申し上げます。
2020年は大変な年でした。神様と皆様にお支えいただいて、歩むことができました。心から感謝申し上げます。
そして2021年も大変な始まりとなりました。新型コロナウイルスの感染拡大が止まりません。まだトンネルを抜けることができません。出口が見えていません。
そんな中で、私が新しい年に子どもたちと共に確かめたいことは、神様がいらっしゃるということです。そしてこの神様は「愛の神」だということです。もっと具体的に言えば、この神様は、全世界を愛しておられる、命あるもの全てを、あなたを愛しておられるということです。一人一人は、あなたは、愛されている、大切にされているということを幼稚園の生活を通して、子どもたちに感じて欲しいということです。あなたは、あなたのままで良い、そのままで大切な素晴らしい命である。そこを大切にするとき、子どもたちは、愛されている喜びを感じ、安心してそれぞれに成長していくことでしょう。そんな三学期にしたいと願っています。まだまだ非常に厳しい状況ですが、子どもたちに愛されている喜び、生きる喜び、成長できる喜びを感じてもらえる三学期にしていくために精一杯努めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 
今月の聖句
神は愛です  ヨハネの手紙Ⅰ4章16節

2020年度12月園だより

 いつもありがとうございます。
 12月となり、幼稚園ではクリスマスを楽しみに過ごしています。礼拝でアドヴェントクランツにローソクを一本ずつ灯して、準備します。今年は新型コロナウイルスの影響で、イルミネーション点灯式は中止となり、寂しいことでした。いつもの様にクリスマスをお祝いできないことがとても残念ですが、それでも一番大切なことは伝えていきたいと思っています。
クリスマスの一番大切なことってなんでしょうか?私たちはクリスマスにプレゼントをいただきます。いろんな物をいただきます。嬉しいことです。物も大切ですが、物に込められた心ははもっと大切です。
 それは目に見えません。でも目に見える物よりも目に見えない心の方が大切なのです。みんなそれぞれ愛の心を込めて贈り物をします。クリスマスの最高の贈り物は、イエス・キリストです。物ではありません。このイエス・キリストに込められた神様の愛が一番の贈りものです。
 新型コロナウイルスの影響があっても、この神様の私たちへの愛は変わりません。この一番大切なことを子どもたちに伝え、共に喜び合いたいと思います。そして喜びを分かち合い、心から笑顔でクリスマスをお祝いしたいです。12月もどうぞよろしくお願いします。
 
12月の聖句
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ヨハネによる福音書第3章16節

2020年度11月園だより

 朝夕、肌寒く感じられます。いかがお過ごしでしょうか?
 運動会、何だかもう随分以前のように思われます。新型コロナウイルスの影響で開催できるか、開催するとしたらどうしたら良いのか、とても悩みました。その末に分散開催という方法で行うこととしました。当日は例年と変わらないこどもたちの生き生きとした姿、成長を、ご家庭の皆様と喜び合うことができ、本当に感謝でした。また、親子競技は、小学校からはほとんど行っていません。ですから、幼稚園の時がとても貴重な機会です。そしてクライマックスは年長組の親子フォークダンス。毎年、見ていて涙が出ます。子どもたちがお母さんに抱きついていくときの笑顔、それを受け止めるお母さんの笑顔、幸せ満開なとても美しい瞬間です。幸せって極々身近にあるもの、でもお金では買えない、かけがえのない尊いものだなと実感させられます。 
 ご家族に見守られ、存分に体を動かし、また共に楽しむひと時は、幼き日の愛された喜びの思い出の一コマなのですね。そんな愛された喜びの経験が、こどもたちの心を潤し、自らも愛する者として歩み出すことができる様にします。そしてその様な愛された日々は実は神様からの恵みの贈り物なのだと思います。
 神様は、こどもたちが幸せになるように、互いに愛し合う者として生きることができる様に、家族との交わり、幼稚園の交わりをお与えになったのです。そんな愛された喜びのうちに、これからスクスクと育ち、愛する者として歩んで行って欲しい。そのために保育に勤んでまいります。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 
11月の聖句
 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 ヨハネによる福音書第15章12節

2020年度10月園だより

 秋となりました。子どもたちは運動会を楽しみに練習を楽しんでいます。私も最近筋トレとランニングを始めました。いつか子どもたちの前で「人間こいのぼり(ヒューマンフラッグ)」ができるようになりたいと思って毎日筋トレを励んでいます。
 さて、毎月、聖書の学びを教師会で行っています。今月は、ゲームをしました。
「一個のリンゴをいただいた時になんと言いますか?」教師を二つのグループに分けて、一つのグループには感謝をもう一つのグループには不平を述べてもらうようにしました。感謝するグループからは「私リンゴが大好きです。」、「とても良い香りですね」という声が聞かれました。不平を述べるグループからは「今ならナシでしょ」とか「皮剥くのが面倒」というような声が聞かれました。そしてどっちが楽しい気分になれるでしょうかと教師に問いました。すると当然ですが、感謝したほうが楽しいという答えが返ってきました。一度しかない人生、いろいろなことがありますが、感謝して生きるほうが楽しいはずです。同じ現実でも、感謝して向き合うほうが楽しいに決まっています。私も、なかなかできないのですが、人と会う時は、挨拶の次には感謝の言葉を具体的に伝えられるようにいつも努めています。子どもたちにも、何事にも感謝できる「ありがとう」の心、神様に感謝する心が育って欲しいと願います。そのために子どもたちと一緒に「ありがとうの種」を毎日見つけていきます。そして幼稚園の生活が「ありがとう」の言葉で溢れる感謝の日々となりますよう努めてまいります。
実りの秋、どうぞよろしくお願いいたします。
 
10月の聖句
 いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは  詩編92編2節

2020年度9月園だより

ご家庭の皆様へ
 大雨、長い梅雨が明けたと思えば、今度は猛烈な暑さがやってきました。今年の夏は、新型コロナウイルスの影響で様々な制限がありました。帰省や旅行もままならず、懐かしい人、大切な人にあったり、楽しいところに家族で出掛けたりといった楽しいことがどれだけできたでしょうか。良い夏となったのでしょうか?心配しておりました。
 今月の聖書の言葉を読みますと、駆け出しの頃、私にとてもよくしてくださった宣教師の先生のことを思い出します。その先生は、アメリカからいらして、30年近く、東北を中心にとても良い働きをなされました。穏やかで、ユーモラスで、若い未熟な私をとても優しくご指導くださいました。その先生がクリスマスに一冊の本をプレゼントしてくださいました。先生は、昔気質で、アメリカ人にしては珍しく、タイプライターもあまりお使いにならずご自分の手で文字を書いておられ、とても達筆でした。その達筆な英語で本に一言書いてくださいました。その最後にYour Fellow workerとありました。ということは、大ベテランの先生が、私のことを「仲間の働き手」としてくださったということで、とても嬉しかったです。
 今月の聖書でも、イエス・キリストは、様々な欠点を持った弟子たちを「友」と呼ばれます。上から目線ではなく、対等に、時にはへり下って、愛と尊敬を込めて関わってくださるのです。このイエス・キリストの言葉に込められた姿勢を私たちも大切にしたいと思います。子どもは「大人予備軍」ではありません。子どもは子どもとして、今、そのままの姿で、愛と尊敬を持って受け入れ、共に歩むべき存在です。私たちはそのことを胸に刻み、愛と尊敬を持って、子どもたちと向かい合いながら、二学期を歩みたいと思います。
 二学期もどうぞよろしくお願いいたします。
 
9月の聖句
 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。   ヨハネによる福音書15章15節

2020年度7月園だより

 いよいよ暑い夏が来そうです。新型コロナウイルス対策としてマスクと熱中症予防、その間を「見切り」ながら、保育を続けていかなければなりません。
 今月の聖書の言葉を読みますと、私の二番目の子どもを思い出します。楽しみにしていた遠足が雨で延期になって、「行きたーい」と泣きました。そして待ちに待った遠足の日、お天気が良くて行けるとわかって、嬉しそうに踊っていました。嬉しい時、自然に踊りたくなるんだなあと改めて思いました。
 「少女パレアナ」、私の大好きな小説です。パレアナは自分の生活の中の出来事一つ一つを喜ぶ、一見喜べないようなことの中にも喜びを見出す「喜びの遊び」を父親から教わりました。そしてそれを町の人々に広めていきました。すると町の中に幸せがたくさん溢れてきました。
 子どもたちの生活の一コマ一コマに大きな喜びの種があるように思います。自分で気づくことができると良いのですが、いつもできるとは限りません。子どもたちに寄り添いながら、日常の出来事の中に喜びを見出し、それを分かち合い、神様に感謝したいと思います。喜びの遊び、皆さんもぜひやってみてください。私は毎晩やっています。
残り少ない一学期ですが、どうぞよろしくお願いします。
 皆様の上に神様の祝福、神様のお守りを心よりお祈りいたします。

7月の聖句
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。  詩編118編24節

2020年度6月園だより

ご家庭の皆様へ
 新型コロナウイルスの蔓延を防ぐために緊急事態宣言が解除となりました。このような事態は前例がなく、大きな不安と隣り合わせの日々でしたが、神様のお守りと皆様のご理解、ご協力をいただいて、幼稚園は少しずつ通常の姿へと戻りつつあります。
 さて、テレビ番組にはよく「タレント」と呼ばれる人たちが登場します。「タレント」とは「才能」という意味に使われます。しかし元々は聖書の「タラント」という言葉から来ていまして、「贈り物」「賜物」という意味があります。でも「タレント」は本来特別な人々だけに与えられているのではなく、すべての人に与えられています。一番、根本的なタレント「贈り物(賜物)」は命です。命こそ、すべての人に与えられている最も尊い贈り物(賜物)です。新型コロナの影響により、大きく出遅れてしまいましたけれども、命与えられて生きる喜びを、日々、子供たちに感じてもらえるような有意義な園生活を日々実現したいと思います。
 加えて、この命の賜物は、幼稚園においては、教師との信頼関係の中で豊かに成長します。出遅れたとはいえ、子どもたちは少しずつ園生活に慣れてきました。その生活の中で、教師と子どもの関係を大切にしていくこと。子どもたちのありのままを喜びと感謝を持って受け入れ、愛されている喜び、受け入れられている喜びを感じてもらえるように努めます。それが伝わる時、子どもたちは与えられた命の賜物を豊かに花開かせていくことでしょう。とても楽しみです。
 六月も、どうぞよろしくお願いいたします。
 皆様の上に神様の祝福、神様のお守りを心よりお祈りいたします。
 
6月の聖句
 あなたがたはそれぞれ賜物を授かっているのです。 ペトロの手紙Ⅰ4章10節

2020年度5月園だより

ご家庭の皆様へ
 新型コロナウイルスにより、全世界が大きな不安にさらされています。幼稚園も皆様に登園の自粛をお願いせざるを得ないこととなりました。今、19名(4月28日現在)の子どもたちが登園した状態で保育を行っています。毎年、この時期、子どもたちの可愛らしいはしゃぎ声、そして泣き声の聞こえる当たり前の風景がとても懐かしく思われます。先の見通せない状況に心が落ち込んでしまいます。
 でもでもここで心折れてしまっては負けです。様々な不安、制限があって、みんなと会うことができなくても、心を奮い立たせ、前向きに生きていきたい。心は負けない。そんな気持ちでこの危機を一緒に乗り切っていきましょう。
 さて、みなさま、子どもさんにお名前をつける時、どうなさいましたか?誰がお名前を考えましたか、どんな意味ですか、どんな願いを込めましたか?それからご自分の名前についても誰がつけてくださったのか、どんな意味があるのか、ご存知ですか?名前はただの記号ではありません。生まれてくる命、大切な世界でたったひとつのわが子につける名前には、深い願い、熱い思い、新しく始まる人生への期待がたくさん詰まっています。その意味で名前を大切にすること、名前を覚えることは、とても大切です。
 今月の聖書では、神様が人の名前を呼ぶと書いてあります。神様は、「人間をその他大勢」とは決して考えておられません。たくさんの命であっても、どの命も世界でたった一つの尊い愛すべき命として、大切に愛してくださいます。だから名前を覚えて呼んでくださるのです。
 幼稚園でも、子どもたちを名前で呼ぶことは、とても大切です。心を込めて子どもたち一人一人の名前を呼ぶことは、子どもたちを掛け替えのない存在として大切に受け入れること、愛することの第一歩だと思います。
 極めて制限された中ですが、子どもたちの名前を大切に覚え、心を込めて呼びかける保育を行って参ります。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 皆様の上に神様の祝福、神様のお守りを心よりお祈りいたします。
 
5月の聖句 『あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。』イザヤ書43章1節

2020年度4月園だより

 入園、進級おめでとうございます。
 美しい桜、青い空、とても美しい春の日々が続いています。でも今、世の中は新型コロナウイルスの蔓延により大きな不安の中にあります。
 でも、この時は二度と帰ってこないかけがえのないひと時です。だからこそ、例年にもまして、心からお祝い申し上げます。
 さて、若い頃、落ち込んでいた時のことです。やるせなくて虚しくて、やけ食いしました。焼肉定食2人前。最初の一口二口は美味しかったけれど、やけになってバクバク食べて、食べ終わるとただお腹が苦しいだけでした。心は重苦しく、ますます虚しくなっていました。本当に満たされなければならなかったのは、お腹ではなく、心でした。自分が本当に求めていたのは焼肉ではありませんでした(と言いつつ普段は焼肉大好きな私です。)
 本当に人を満たすもの、満足させるもの、生き生きと生かすものは愛情と信頼なのだと気付いたのでした。
 この春、新しい幼稚園の生活に期待と不安を持って子どもたちが集ってきます。私たちは、いっぱいの笑顔で子どもたちありのままを受け止め、聖書を学び、いつもお祈りして、神様からいただいた愛情を注いで保育に励みたいと思います。そして子どもたちの心が喜びで満たされるような保育を行ってまいります。
 この一年、どうぞよろしくお願いいたします。
 皆様の上に神様の祝福を心よりお祈りいたします。
 
4月の聖句
 あなたがたは神に愛されている子供です  エフェソの信徒への手紙 第5章1節

2019年度3月園だより

 生活発表会では、たくさんのご家庭の皆様においでいただき、ありがとうございました。子どもたちの成長の姿を見、喜びを分かち合う、とても良いひと時となりました。
 そしてあっという間に三月・・・新しい保育室を備えての保育も順調に進んでいます。残り少ない日々ですが、子どもたちは、春の光を先取りするかのように生き生きと遊んでいます。どの子も生きる喜び、成長の喜びに輝いています。その姿を見るたびに大きな喜びと一片の寂しさ(もうすぐ巣立っていく年長児)を覚えます。
 幼児教育を通して、子どもたちに神様の愛を伝えたい、そう願い、日々祈りつつ保育を行ってまいりました。子ども達は素晴らしい成長の姿を見せてくれました。神様とご家庭の皆様に心から感謝いたします。
 人間は、本来、神様をほめたたえるために造られたと聖書には書いてあります。そして、神様は豊かな愛を注いで、人間に大きな喜びを与えてくださいます。だから人間は神様を褒め称えることができるのです。
 残り少ない今年度の園生活、子どもたちと共に神様の恵みを確かめ、神様に感謝し、心から褒め称えて歩み通したいと思います。
 この一年、本当にありがとうございました。保育の責任を全うすべく最後まで精一杯励んでまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
 
3月の聖句
 主に向かって心からほめ歌を歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 エフェソの信徒への手紙第5章19-20節

2019年度2月園だより

 二月となりました。とうとう保育室が完成いたしました。2月3日の午後からお引越しを始め、2月5日より新しい保育室での保育が始まります。皆様のご協力ありがとうございました。
 神様は子ども達への愛を伝えるためにこの幼稚園を作られました。この幼稚園の理事長と園長は私ですが、本当の本当の「理事長」は神様であり、本当の本当の「園長」はイエス・キリストなのです。
 さて、古い言葉に「一月は急ぐ、二月は逃げる、三月は去る」とあります。保育の総仕上げの三学期、ひと時ひと時を大切に保育に努めてまいります。そうは言いながら、時の流れを早く感じろのは大人の感覚です。大人から見ると短い期間でも、子どもたちにとってはそうではありません。」子ども達の時間の密度はとても高いので、「あとふた月足らず」ではなく「あとふた月足らずもある」と考えなければなりません。この二月も子どもたちに寄り添い、子どもたちが安心して、しっかりと歩むことができるように励んでまいります。二月もどうぞよろしくお願いいたします。
 
2月の聖句  主によってしっかりと立ちなさい。フィリピの信徒への手紙/ 4章1節

2019年度1月園だより

 新年おめでとうございます。
 新しい年となりました。保育園舎の建築工事も順調に進んでいます。一月末には完成となり、二月初めにお引越しとなります。とても楽しみですが、それよりも何よりも、この三学期、子どもたちがどんな成長の姿、生きる歓びに輝く姿を見せてくれるかが楽しみです。
 今月の聖書、使徒パウロは生きていることが不思議な程、たくさんの苦難を経験しました。それらを乗り切ることは、パウロ独りではとても無理でした。でもそ神様や神様の恵みによって出会った仲間が寄り添ってくれて、苦難を乗り越えることができました。神様がそばにいて、助けてくれたり、励ましてくれることによって、不可能が可能となっていく世界の素晴らしさをパウロの歩みが教えてくれています。
 私たちも、子どもたちのそばに寄り添い、励まし、適切に支援する中で、子どもたちのできることが増えていく喜び、成長していく喜びの実現に務めたいと思います。そして子どもたちがそれぞれに世界で一つだけのその子らしい成長の姿、生きる歓びに輝く姿を楽しみに、保育の総仕上げに励んでまいります。
 三学期もどうぞよろしくお願いします。
 
 1月の聖句
 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。フィリピの信徒への手紙/ 4章13節(口語訳)

2019年度12月園だより

 12月となりました。いつもありがとうございます。
 11月24日の家族招待礼拝はたくさんのご家族においでいただき、子どもたちと共に礼拝を守ることができてとても嬉しいひと時となりました。本当に子どもたちは聖書のお話を喜んで楽しんで聴いてくれます。
 さて、12月となり、幼稚園ではクリスマスを楽しみに過ごしています。寒くなってきて、年末で忙しくなって、それでもどこか楽しくて、暖かい。クリスマスって本当に嬉しいものです。そんなクリスマスの魅力って一体なんなのでしょうか?
 私が好きなクリスマスの歌は「目には見えない贈り物が世界をつつむクリスマス」という言葉で終わります。クリスマスには目に見える贈り物をいただきます。でもそれをつつむ「目には見えない贈り物」があるのです。それがクリスマスの嬉しさと温もりの源となっています。それはイエス・キリストによって伝えられた神様の愛です。私たち一人一人が愛されている。神様の愛に包まれている。そんな愛されている喜びが、クリスマスの温もりの源なのです。
 幼稚園では今年もクリスマスをお祝いします。愛されている喜びに感謝し、それを誰かと分かち合い、感謝と思いやりの溢れるクリスマスを喜び、二学期の保育を全うしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

2019年度11月園だより

 運動会、皆様のご理解とご協力ありがとうございました。台風15号、19号により、各地で深刻な被害が出ています。心からお見舞い申し上げます。その一方でラグビーワールドカップで大いに盛り上がりました。ラグビー日本代表の活躍や、カナダ代表が釜石で、アイルランド代表が千葉で災害ボランティアを行ったり、被害に遭われた方々を覚えて試合前には黙祷を行ったり、被害の中にある方々の励ましにもなっていたこともありました。
 私の母校は、ラグビー好きが多く、私もその一人です。特に今回の日本代表の活躍には心打たれるものがありました。体格やパワーではどうしても劣る日本代表ですが、「One Team ワンチーム」を合言葉に皆が心を一つにし、それを具体的な戦術にまで落とし込んで、強くて大きい相手に打ち勝っていく姿には私だけでなく、多くの国民が感動しました。これは本当に大切なことだと思います。チームの力量は、個人の力量の合計と同じではありません。まず心を一つにして、さらにそれを具体的なチームのやり方にまで落とし込んでいく時、1かける15が20にも30にもなります。逆に、心がバラバラでは、1かける15が10や5になってしまいます。
 幼稚園の保育も同じです。教職員は一つのチームです。このチームが、心を一つにして、それを具体的な保育に実践していく中で、大きな結果を残すことができます。まさしく「One Team ワンチーム」でなければなりません。その時に私たちの幼稚園は、「心を一つにする」という時、その中心に神様の愛、イエス・キリストの愛を据えています。聖書の学びを通して、神様がどれほど私たちを、こどもたちを愛しておられる。イエス・キリストの愛がどれほど素晴らしいものか、大きな喜びであるかを感じ、そこに心を合わせた上で具体的な保育に取り組みます。11月もどうぞよろしくお願いします。

2019年度10月園だより

 先週、教育実習を見に行きました。紙コップロケットの製作、みんなとても上手にできて楽しく遊んでいました。
 部屋の隅で様子を見ていた私のところに女の子が二人、「先生、できたよ。見て」と言って実際に紙コップロケットを飛ばして見せてくれました。自分で作って、自分で遊んで楽しむ。その喜びを分かち合ってくれました。とても嬉しかったです。
 聖書には種まきのたとえが出てきます。同じ種でも、まいた土地によってその後の実りが全然違っています。この例えは何を語っているのでしょうか?
 タネは、育つ環境、まかれた土地によって、その実りが決まります。環境によっては何十倍の豊かな実りもあれば、全くゼロもあり得ます。環境って大切ですね。子どもたちが種だとすれば、家庭や幼稚園は土地、すなわち環境です。幼稚園での生活が、子どもたちの人生の大切な時期、豊かな実りをもたらすために、常に神様のみこころに従い、自分の保育を吟味して、一人一人を大切に受け止め、丁寧に関わっていきたいと思います。そんな願いを年度始めから持ちつつ保育していますが、二学期、この秋はそれが具体的な子どもたちの成長という結果として現れてきます。そういう意味ではまさしく実りの秋と言えるでしょう。子どもたちの成長を、ご家庭の皆様共に喜び、実りの秋を感謝することができるように保育に励んでまいります。どうぞよろしくお願いします。
 皆様の上に神様の祝福を心よりお祈りいたします。

2019年度9月園だより

 二学期が始まりました。運動会、遠足、バザー、クリスマス、二学期は楽しみな行事がいっぱい!とても楽しみです。
 
 9月の聖書の言葉は、
 「恐れるな。主が共にいる。」 (歴代誌下 20章17節より抜粋)です。
 
 ペトロはガリラヤ湖の漁師でした。ある日、一晩中頑張ったのですが、魚は一匹も取れませんでした。諦めて、網を片付けていたら、イエス・キリストがやって来ました。そして「もう一度お気に漕ぎ出して、網を下ろしてみなさい」というのです。ペトロは驚きました。魚がとれるはずがありません。でも、「お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」と言って、もう一度船を出し、網をおろしたところ、船が沈みそうになるほどのたくさんの魚がかかりました。これをきっかけにペトロはイエスの弟子となり、イエスについていくこととなったのでした。(ルカによる福音書 第5章1-10節より)
 なぜ、ペトロはもう一度網をおろしたのでしょうか?ペトロには、大きな戸惑いがありました。不安でした。でもイエスがそばに寄り添ってくれました。言葉をかけてくれました。そのことに励まされて、ペトロはもう一度沖へ漕ぎ出し、網を下す勇気、やる気を持つことができたのでした。そしてペトロは全く新しい世界へと踏み出すことができたのでした。
 二学期、様々な新しい経験がこども達を待っています。戸惑いや不安もあることでしょう。私たち、教職員一同、この物語のイエスのように、こどもたちのそばに寄り添い、適切な言葉をかけ、こどもたちと共に素晴らしい成長の喜び、生きる喜びを求めて歩んでまいりたいと思います。
 二学期もどうぞよろしくお願いいたします。
 皆様の上に神様の祝福を心よりお祈りいたします。

2019年度7月園だより

 ようやく梅雨入りしたようです。昨年のような災害が起こりませんように。幼稚園ではプール遊びも始まりました。いつもありがとうございます。
 子どもたちと給食をいただいています。どの子もとても嬉しそう、楽しそう。幼稚園の生活にすっかり慣れて、みんな一緒にいることがとても嬉しい。そんな幼稚園生活の充実を感じます。どの子も愛されているなあ、幸せそうだなあと思いました。
 
7月の聖書の言葉は、
「愛する人は、いつも光の中にいます。」 (ヨハネの手紙一 2章10節)です。
 
 この「光」は、お日様の光のように自動的に私たちを照らす光ではありません。神様の愛のことです。「愛する人は、愛されているから」と言い換えても良いと思います。何もないところからは、何もでてきません。誰かを愛することができるのは、愛されているからなのです。幼稚園生活を通して、お友だちや先生と楽しくいっぱい遊んで大きくなる。そんな日々が、子どもたちに生きる力、愛する力を育みます。幼稚園の教職員は、そんな神様の愛を子どもたちに伝える「窓」でありたいと思います。窓が曇っていては、子どもたちに神様の愛は届きません。日々の保育活動の中で、それぞれの子どもたち一人ひとりの様子を受け入れ、適切に支援することを通して、子どもたちが愛されている喜びを実感できますように。残り少ない一学期の保育を整えてまいります。どうぞよろしくお願いします。

2019年度6月園だより

 朝夕は上着があってもいいかな、昼は半袖かなという日々が続いています。先日の遠足は、前日の雨の影響で市民の森の条件が整わず、当日晴れなのに室内開催ということとなってしまいました。それでもお友だち、家族、先生と一緒に楽しい時間となりました。皆様のご理解とご協力、ありがとうございました。
 さて、今治めぐみ幼稚園の母体である今治教会には、子どもの教会があります。そこで5月19日岩城島の小さな教会に行ってきました。朝、高速船で出かけ、みんなで教会をお掃除し、一緒にお弁当をいただき、礼拝をしました。礼拝のお話の中で子どもたちに少し難しい質問をしました。
 「ねえ、みんなは、お父さん、お母さん、大好きでしょ。みんながお父さんお母さんが大好きな心とお父さんお母さんがみんなを大好きな心、どっちが大きいかなあ?」
 すると子どもたちは即座に
 「お父さん、お母さんの心の方」と答えてくれました。
 自分が親を愛するよりも、親は自分をずっと愛してくれている。愛する前からたくさん愛されている。そのことを子どもたちはもうちゃんと分かっているんだなと思ってとても感動しました。ちなみに、その日、出席した子どもは、みんな、今治めぐみ幼稚園の卒園生でした。愛されていることをちゃんと感じている子どもたちの心を育てたのはもちろんご家庭でしょうが、めぐみ幼稚園もそのお手伝いができたのかなととても嬉しく思いました。
6月の聖書の言葉は、
「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」 (詩篇150 6節)です。
 「ハレルヤ」は今、「パプリカ」という歌にも出てきますが、「神さまバンザイ」という意味です。息あるもの、すなわち命あるものが、みんなで神様から愛されていることを感じて喜び、神様に感謝し、ほめたたえる。それが最も素晴らしいことであると聖書は押しています。そして神様の愛は、家庭で、幼稚園で愛されている喜びを実感できる生活を通して伝るのです。
 神様に感謝し、神様をほめたたえる時、子どもたちは「楽しかった。嬉しかった」と言います。幼稚園の生活が、そんな楽しさと喜びにあふれたものとなりますように、そして幼稚園が子どもたちの神様への感謝と賛美の声で満ちあふれますように、保育に励んでまいります。6月もどうぞよろしくお願いします。

2019年度5月園だより

 嬉しい始園式、入園式を行い、幼稚園の新学期が始まり、約三週間、四月が終わろうとしています。幼稚園の中では、一つ大きくなったこと、初めての幼稚園生活。嬉しさと不安とが入り混じった様子が見られました。今年は例年よりも泣き声が多かったかな。でも少しずつ幼稚園での新しい生活にも慣れ、落ち着いてきました。園庭では楽しそうな子どもたちの声が聞こえています。
 さて、保育のキーワードは、「喜びと楽しみ」です。四月、新しい出会いを共に喜び、楽しむ。幼稚園の生活が「うれしかった」、「楽しかった」という子どもたちの声と笑顔で満ち溢れるように保育を始めました。幼稚園に慣れてきたゆとりを生かして、五月は外の世界に子どもたちの目が移っていくことを予想しています。
 そんな五月の聖書の言葉は、「初めに、神は天地を創造された。」創世記第1章1節です。
 この世界は神様がお創りになった素晴らしい「作品」です。中でも人間は最も良い者として創られ、神様の愛とめぐみをいただいて、その喜びをこの世界の中で生き生きと表現します。この世界は生きる喜び、神様への感謝を表す「ステージ」なのです。そこにはたくさんの自然、生き物、友だち、先生との出会いがあります。遊びの生活を通して、その出会いを思いっ切り楽しむ。そんな歩みが五月から本格的に始まっていくことでしょう。とても楽しみです。どうぞよろしくお願いします。

2019年度4月園だより

 2019年度年度はじめに寄せて
 
 進級、入園、おめでとうございます。
 四月、新入園、進級、新しい生活が始まりました。青空と春の明るい光、ワクワクして来ます。
 大切なお子様の幼児教育を教育を私たちに託してくださり、ありがとうございます。
 先日、初めて玉川の桜を見に行きました。美しい。素晴らしいですね。頓田川沿いの桜並木にも毎年見とれています。桜に限らず、花が美しく咲くためには水が必要です。水によって豊かに養われ、潤されてこそ、美しい花が咲きます。人間も同じです。人間の場合、その「水」とは単なる水だけではなく、愛情によって養われ、潤されることによって、それぞれの命が豊かに輝き、「花を咲かせる」のでしょう。
 
 今年の保育主題は
言葉に満たされて 響き合う。
 年間聖書は
その人は流れのほとりに植えられた木 詩編1編 3節
 
 命を養い、潤す愛情を伝える時、言葉はとても大切です。私たちは子どもに伝える言葉を大切にします。吟味して、愛情を込めて用います。キリスト教主義の幼稚園として、聖書の言葉を学び、その教えを大切にしながら保育する中で、子どもたちが神様の愛に養われ、潤されて生き生きとした「花」を咲かせることができるように、生きる喜び、成長できる喜びに輝く一年となりますように保育に励んでまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
 
園長紹介 木谷誠(きたにまこと)
 1959年12月15日、宮崎県延岡市(小説「坊ちゃん」のうらなり先生が「とばされた」ところ)生まれ、同志社大学神学部に学びました。今治教会第15代目の牧師です。岩手に3年、岡山に6年、再び岩手に9年、福井に14年、今治に来て4年目です。岡山以外では幼稚園長もさせていただいておりました。愛媛県はミカン類が美味しいですね。牧師として教会に36年、幼稚園には29年(うち園長として25年)勤めさせていただいています。
 趣味は歌(男声合唱)、「ゴーシュ」(フランス語で「下手」、「不器用」という意味)なチェロ、サッカーです。体育会系です。というわけで、仕事では牧師と園長の「二刀流」、趣味は「歌、チェロ、サッカー」の「三刀流」です。でも、イノシシどしのためか、その時々、一つのことに夢中になっています。今年は子ども達といっぱい遊びたいです。どうぞよろしくお願いします。
 

2018年度3月園だより

  先日の生活発表では、寒い中にも関わらず、たくさんのご家庭の皆さまがおいでくださいまして、ありがとうございました。住民センターを使用して初めての発表会、慣れない場所ではありましたが、こどもたちは立派に成長した姿を見せてくれました。私たち幼稚園教職員にとっても大きな喜びの時でした。
子どもたちにとっても、ご家庭の皆様にとっても大きな喜びに満たされた幸せな時間でありましたら幸いです。
 さて、三月、新しい旅立ちの時となりました。年長組の子ども達は卒園して小学校へ、在園児も一つ進級します。そんな三月の聖書の言葉は
 「私は世の終わりまで いつもあなたがたと 共にいる」
マタイによる福音書第28章20節
 この一年も、神様が、イエス・キリストが、幼稚園の子どもたちと共にいてくださいました。こどもたちの生き生きとした成長の姿を保育の折々に目にすることができて、本当にそのことを感じます。もちろん、保育する私たちも精一杯つとめて参りましたが、それを豊かに支えてくださった目に見えないイエス・キリストの寄り添いの恵みの大きさを思わずに入られません。共にいて、愛を注いでくださるイエス・キリストの恵みによって、この一年を歩んでくることができました。感謝でいっぱいです。
 そしてこれからもイエス・キリストは、こどもたちと、私たちと共にいてくださいます。そして愛を豊かに注いでいてくださいます。そして私たちを互いに愛し合う歩みへと導いてくださるのです
 いよいよ今月は保育の総仕上げ。こどもたちとの本年度の幼稚園生活は残り少なくとなりました。でも、まだまだこども達は豊かに成長できると確信して、最後の日まで保育に励んでまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

2018年度2月園だより

 いつもありがとうございます。一年で一番寒い季節を過ごしています。インフルエンザが全国で猛威を振るっているようで心配です。
 いよいよ一年の保育の総仕上げの時期となりました。幼稚園の保育のキーワードは「楽しかった」です。教育の営みの一つ一つが押し付けではなく、楽しい活動でありつつ、一人一人の成長、生きる喜びに資するものでありたいと努めてまいりました。その意味では、様々な活動の折に触れて、こどもたちから「楽しかった」という言葉を聞くことができたことは大きな喜びです。でも、その他示唆の積み重ねが「共に楽しむ、共に喜ぶ」というところへと結びついてほしいものです。神様の愛をいただき、家族、教師、友達と過ごす中で、愛されている喜びを感じ、成長していくあゆみ、それが個人だけにとどまらず、友達同士でその喜びを分かち合っていくことができるように。一年の保育のあゆみはそこを目標としています。
 2月の聖書の言葉は以下の通りです。      
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 」
 ローマの信徒への手紙 第12章15節「楽しかった」から「喜んでもらえて嬉しかった」へとつながっていくように、一人一人の成長が繋がりあって、喜びの分かち合いとなるように努めてまいります。
 三学期もあと二ヶ月足らず、でもまだまだ子どもたちは豊かに成長していくことができます。最後の最後まで保育に励んでまいります。どうぞ宜しくお願いいたします。
 寒きおり、皆様のご健康を心よりお祈りいたします。

2017年度1月園だより

求めなさい。そうすれば与えられる。
マタイによる福音書/ 7章 7節
 
 あけましておめでとうございます。旧年中はありがとうございました。
 今年もよろしくお願いいたします。
 いよいよ三学期となりました。年度の総仕上げ、保育の総仕上げの時期です。それぞれの子どもたちの豊かな成長を願って保育を続けてまいりました。それぞれの子どものここまでの成長を喜びつつ、年度末までに成長してほしい願いもあります。そのような子どもたちの成長のために、まず神様に祈り「求めて」いきたいと思います。その上で精一杯保育に努めます。神様は私たちの願いを聞いて、素晴らしい成長の姿を実現してくださることでしょう。もしかしたら、それは、祈り求めた成長の姿と同じではないかもしれません。でも、神様は時として私たちが祈り求める以上のことをしてくださいます。そんな願いと期待と持ちつつ三学期の保育を進めてまいります。
 「一月は急ぐ、二月は逃げる、三月は去る」という言葉があります。年度末の慌ただしさを表現したことばです。でも、これは大人の感覚です。子どもたちの時間感覚は違います。三学期残り三カ月足らず、二カ月と少しであっても大人では考えられないような豊かな成長の姿を見せてくれることでしょう。
 三学期もどうぞよろしくお願いします。

2018年度12月園だより

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 
ヨハネによる福音書第3章16節
 
 12月となりました。礼拝でアドヴェントのろうそくを一つ一つともしながら、こどもたちとクリマスの準備を始めました。毎年のことながら師走の慌ただしさと寒さの中にあっても、クリスマスは、私たちの心を温めてくれます。どうしてそんなに嬉しいのでしょうか?
 それは神様がイエス・キリストをこの世に送ってくださったことによって、私たちへの愛を示してくださったからです。愛されている喜び、大切にされ、覚えられている喜びが、私たちの心をあたためてくれるのです。家族、ともだちと一緒に過ごした楽しいクリスマス、みんなの笑顔、そんな思い出は心の宝物として、その人の人生を支えます。辛い時、寂しい時、くじけそうになる時も、自分は愛されてきたんだからと心を強くすることができます。そんな生きる力は愛される経験から育まれます。幼稚園で迎えるクリスマスが、そんな愛された日々の心温まる思い出となりますように、心を込めて保育してまいります。どうぞよろしくお願いします。

2018年度11月園だより

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
ヨハネによる福音書/ 15章 05節
 
 以前、岩手県に住んでいました。隣町がぶどうの産地だったので、子ども達を連れてぶどう狩りに行きました。多分、ぶどうは美味しかったのだと思います。それより子どもたちが小さかったので、ぶどうを取るために子どもたちを何度も何度も抱き上げて、腕がとても疲れたことを覚えています。今ではとても楽しい、大切な思い出です。先週の誕生会では、お誕生日の子どもたちの中で、好きな食べ物は「ぶどう」と答えた子が多かったことも思い出しました。私もぶどうは大好きです。岩手に住んでいた頃、農家の方からいただいたぶどうを岩手の冷たい水で冷やしていただいた、あの味、紫の宝石のようなブドウの色、忘れられません。
 さて、ぶどうは枝が木の幹につながって実を結びます。木とつながっていることがぶどうが実を結ぶために必要なことです。
 人も同じです。誰かとつながっていることで実を結びます。幼稚園の生活では教師や友達とのつながりの中で、子どもたちは豊かな成長という実を結びます。さらに根本的には、神様とつながる中で神様の愛という栄養をいただいて、子どもたちは愛されている喜びに満たされ、互いに愛し合う生活という実を結ぶのです。それは教師も同じです。「つながって実を結ぶ」。単純なことですが、人間が実を結ぶという場合、ぶどうの枝と違って、そのつながりは目に見えません。心のつながりは目に見えないのです。そのつながりを、子どもたちを見守り、必要な援助や言葉かけ、ふれあいによって、「見える化」する、「聞こえる化」する、「肌で感じる化」することが大切です。それによって、つながりは生き生きと子どもたちのうちに働き、生き生きとした成長、豊かな交わりの喜びとして、実を結ぶのです。
 秋、収穫の喜び、実を結ぶ喜びの季節です。四月から子どもたちとともに歩む、つながりを大切に歩んで来ました。少しずつそれが実を結んで来ています。その「収穫」を子どもたちと、ご家庭の皆様とともに喜び合うために保育に励んでまいります。どうぞよろしくお願いします。

2018年度10月園だより

 秋になりました。ホッとしています。熱中症の心配も少なくなり、安心して子どもたちの楽しく遊ぶ様子を見ていられます。
 大学院一年生の時、大好きな先生が引退されることになりました。よく叱られました。でも本当に可愛がっていただいきました。毎週日曜日、朝夕の礼拝のお話、それはそれは素晴らしかった。朝の光の差し込む礼拝堂の中で、先生の姿がスーッと消えて、あたかも礼拝堂がお話ししているように感じました。聖書の読み方、牧師としての姿勢を身を以て教えていただきました。この方との出会いなくして、今日の私はありません。そんな恩師の引退は本当に寂しいことでした。引退も近いある日曜日、先生は礼拝説教の中で、「私はもうすぐこの教会を去ります。でも、神様は変わることなく働いてくださいます。だからこの教会はこれからも教会であり続けます。育ててくださるのは、私ではなく、神様なのです。」とおっしゃいました。ちょうど今月の聖書の言葉
 
 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 コリントの信徒への手紙一/ 03章 06節
 
でお話なさったのでした。
 自分一人で大きくなった人はいません。人は様々な出会いをいただいて、いろいろな人との関わりの中で育てられていきます。そしてそのような出会いを備えてくださるのは、神様です。様々な人との出会いの背後に、神様の愛の導きがあります。ですから、自分が育てられたことは、もちろんこれまでであったたくさんの人々に感謝して良いのですが、それらの出会いを備えてくださった神様への感謝を忘れてはいけません。本当の意味で育ててくださったのは神様であると今月の聖書は教えてくれています。
 その意味で、私たちは今幼稚園に通って来ている子どもたちと出会えたことも大きな恵みです。育てる立場にある私たちではありますが、子どもたちとの出会いによって、大きな喜び、大切な気づきをいただき、育てていただいています。
 私たちも様々な出会いに感謝し、出会いを大切にしていきたいと思います。そしてそのような出会いを備えてくださる神様に感謝したいと思います。
 二学期、そんな出会いを喜びながら育ち合う喜びの連続となりますように。どうぞよろしくお願いします。

2018年度9月園だより

 暑い夏でした。「危険な暑さ」という言葉を初めて聞きました。皆さま、いかがお過ごしになられたでしょうか?皆さまもご存知の通り、西日本豪雨により、愛媛県も深刻な被害を受けました。私もボランティアにも行ってまいりました。南予地方の被害も甚大ですが、意外と知られていないのが伯方島、大三島、大島の被害でした。心からお見舞い申し上げます。
 さて、聖書にはザアカイという人が登場します。彼の仕事は収税人。当時の収税人は、不正に税金を集めて私腹を肥やしていたため、人々からは嫌われていました。そんなザアカイがイエス・キリストが来ることを知り、なんとか会おうとして町に出かけました。しかし、イエス・キリストの周りには、人々がたくさん集まっていたために近づくことができません。また、嫌われ者ザアカイに場所を譲ってくれる人もいません。仕方なくザアカイは先回りして木に登ってイエス・キリストを一目見ようとしました。いよいよイエス・キリストがザアカイのすぐ下に来ました。するとイエス・キリストが立ち止まってザアカイに話しかけたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
 ザアカイは驚きました。まさか、イエスが自分のところに来てくれるとは!早速家に迎え入れ、嬉しい食事が始まりました。あのイエスが自分のところに来てくれた。この嬉しさにどう応えよう。ザアカイは言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
嬉しくて嬉しくて、ザアカイは、イエス・キリストが喜ぶことをどうしてもしたかったのでした。イエス・キリストは言われます。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」イエス・キリストも、ザアカイのこの言葉がとても嬉しかったのでしょう。ザアカイのこの言葉と行いは、イエス・キリストの愛の呼びかけに対する応答です。とても素晴らしい出会いの物語です。
 二学期になりました。私たちは、幼稚園の保育を通して、神の愛を子どもたちに伝えたいと思います。そして子どもたちがザアカイのように愛の呼びかけに応えて、自ら言葉と行いで愛を返すようになってほしいと祈っています。長い二学期、行事がたくさんあります。二学期がそんな愛の呼びかけに応える応答の日々となりますように。二学期もどうぞよろしくお願いします。

2018年度7月園だより

 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 
 暑い夏が来ます。私は夏男でして、夏は大好きです。こどもたちと夏を思いっきり楽しみたいです。
 毎週、金曜日に行われる幼稚園の礼拝、大きな喜びです。その際に必ず「主の祈り」を唱えます。暗唱するにはいささか長いのですが、こどもたちはすぐに覚えてくれます。この主の祈りについて、子どもたちに教える時に一番大切なことは、この祈りを教えてくださった方はイエス・キリストであるということです。イエス・キリストが教えてくださった祈りはこれだけです。だからこの主の祈りは、教会の宝物です。そんな大切な祈り、こどもたちには、難しいかもしれませんが、わかっても、わからなくても、とにかく覚えていてほしいと願って、毎週一緒に祈っています。わかってもわからなくても覚えているって実はとても大切なことだと思います。もっとも主の祈りの意味を全部わかって祈っている人は、教会の中でもそう沢山はいないと思います。とても深い内容ですから。
 そんな主の祈りで私が伝えたいことは、神様が私たちの「父」でいてくださるということです。神様が私たち人間をご自分の子のように深く深く熱烈に愛してくださる父のような方であることをまずこどもたちに伝えたいです。さらにこの神様に、感謝し、敬う心を持ってほしいと願っています。神に感謝し、敬う心を持つことが、人への感謝、思いやりの心につながっていくのです。これが子供達の人生においてとても大切な心の柱になると信じます。
 残り少ない一学期ですが、どうぞよろしくお願いします。
 

2018年度6月園だより

 先日、西條栄光幼稚園の会議に出席しました。とても珍しいことにこの教会と幼稚園はお堀の中にあります。お堀の周りにはとても綺麗な花が咲いていて、思わず歩みを止めて見とれてしまいました。そしてイエス・キリストもしばしば歩みを止めて野の花に見ておられたことを思い出しました。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」(マタイによる福音書第6章28節から30節)。イエス・キリストは、ともすれば見過ごしてしまう小さな野の花は王様の豪華な装いよりもはるかに美しいと感動されました。そしてそこに花を美しく着飾ってくださる神の愛を見ました。また空の鳥を見、神の愛の養いを教えました。そしてその花よりも鳥よりも私たち人間はもっともっと愛されているのだと教えました。
  イエス・キリストは、野の花には、神の愛の装いを、空の鳥には神の愛の養いがあると教えました。そしてなによりも私たち人間は、それらよりもはるかに神から愛されていると教えています。
  六月、こどもたちはそれぞれに幼稚園の生活にも慣れ、周りに関心が向かい始めました。自然の美しさを子どもたちに伝え、そこに込められた神様の愛を、私たちへの愛をともに喜びつつ過ごしていきたいと思います。愛されている喜びこそ、子供達の生きる喜びと成長の最高の原動力であると信じます。今月もどうぞよろしくお願いします。
    6月の聖句
「空の鳥を見なさい。あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」
マタイによる福音書第6章26節
 

2018年5月園だより

2018年度5月に寄せて
 桜が咲いて、この前始園日、入園式だと思っていましたら、あっという間に桜も散り、新緑がまぶしい5月になります。今年は、泣く子が少ないように思えましたが、徐々に幼稚園に慣れ、緊張が解けてきたのか、最近になって泣く子が増えてきました。そういう過程を経て、本格的に幼稚園に慣れて行くのでしょう。これからが楽しみです。
  さて、先日、教師会で教師に自分の名前の由来を尋ねてみました。それぞれの名前に親御さんの熱い願いが込められていることを実感し、とても感動しました。ご家庭の皆様も、子どもさんの名前をつける際には、一生懸命考え、思いを込め、願いを込めて付けられたことでしょう。
  それぞれの名前は、それぞれ一人一人がかけがえのない尊い存在であること、愛された存在であることを伝えてくれています。名前って尊いものです。私も早く園児の名前を覚えないと・・・・
 さて、聖書にはこう書いてあります。。
「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。ヨハネによる福音書/ 10章 3節」
  羊飼いは神様であり、イエス様です。羊は私たち人間です。神様は、私たち一人一人をかけがえのない尊い存在として大切に愛してくださいます。神様は私たち一人一人の名前をご存知なのです。「名前を呼ぶ」ことは、一人一人が愛され、尊ばれた命であることを確認する営みです。そしてその一人一人を神様は守り、導いてくださる羊飼いとなってくださいます。
  幼稚園の保育が始まりました。私たち保育者は、子どもたち一人一人を大切な存在として尊び、愛する。その始まりとして名前を呼ぶことを大切にし、神様の愛と導きを伝える歩みに励みたいと思います。
  5月もどうぞよろしくお願いします。
5月の聖句
『わたしは良い羊飼いである。』(ヨハネによる福音書/ 10章 11節)

2018年度4月園だより

  進級、入園、おめでとうございます。
 四月、新入園、進級、新しい生活が始まりました。春の明るい光、期待に胸が膨らみます。
 それぞれの大切なお子様の教育を私たちの幼稚園に託してくださり、ありがとうございます。
 さて、幼児期は大切です。人間としての基礎が形成される時期だからです。建築で言うならば基礎工事に例えられます。その時期に最も大切なことは、たくさん愛されるということです。たくさんたくさん愛され、愛に潤った生活を過ごすことです。そのような愛された生活、愛に潤った生活を過ごすことによって、子どもたち自身も愛する者となっていく。このことが幼児期(ひいては人生全般)で最も大切なことです。
 私たちの幼稚園は、キリスト教主義の幼稚園です。神様とイエス・キリストから愛されている喜び、その愛の中で成長していくことができる喜びを、幼稚園生活を通して、子どもたちに伝えていきます。
 四月、新しい幼稚園生活の始まりの時、私たちはすべての子どもたちのありのままの姿で受け入れ、心から歓迎します。そこから保育を始めます。まずは笑顔、そしてやさしい言葉から始めます。「よく来てくれたね。ありがとう。うれしいよ。大好きだよ。安心して、一緒に遊ぼうね。」そんなメッセージを、教職員の笑顔から始めます。保育全体で子どもたちに愛されている喜びを伝えます。
 
 四月の聖書の言葉は「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(ヨハネの手紙第Ⅰ4章11節)です。
 
 この言葉は、まさしく「愛されたから愛し合いましょう」となります。裏を返せば、愛されなければ愛することはできません。私たちは、この聖書の言葉にならって、子ども達一人一人を心おから愛することを通して、神様の愛を伝えます。わたしたちもこどもたちのありのままを受け入れ、安心して幼稚園生活を始めることができるように努めてまいります。
 子どもたちばかりではなく、ご家族の皆様も不安やご心配があるかもしれません。そのような折にはどうぞいつでもお声をお掛け下さい。
 そのようにして、四月、良いスタートとしましょう。どうぞよろしくお願いいたします。
 
 
園長紹介
 木谷誠と申します。1959年12月15日、宮崎県延岡市(小説「坊ちゃん」のうらなり先生が「とばされた」ところ)生まれ、同志社大学神学部に学びました。今治教会第15代目の牧師です。岩手に3年、岡山に6年、再び岩手に9年、福井に14年、今治に来て3年目です。岡山以外では幼稚園長もさせていただいておりました。愛媛県はミカン類が美味しいですね。牧師として教会に35年、幼稚園には28年(うち園長として25年)勤めさせていただいています。
 趣味は歌(男声合唱)、チェロ(ははっきり言って下手です。)、サッカー(現役草サッカー選手です。この歳でボールを追いかけて走り回れるだけ幸せですね。今治ですから、元サッカー日本代表監督の岡田さんのFC今治を応援しています。)。それからトレーニングも好きです。この前、園児を軽々と抱っこできてすごく嬉しかったので、ますますトレーニングしようと思っているところです。というわけで、仕事では牧師と園長の「二刀流」、プライベートでは「歌、チェロ、サッカー」の「三刀流」です。どうぞよろしくお願いします。
 

3月園だより

  先日の生活発表、寒い中にも関わらず、たくさんのご家庭の皆さまがおいでくださいまして、ありがとうございました。皆様の温かい眼差し、熱い拍手をいただいて、こどもたちは本当に幸せな時間、成長の喜びを感じることができる時間でした。練習の折、こどもたちに「どうだった?」と尋ねましたら、「たのしかった」とのことでした。生活発表の練習の日々、「頑張る」のではなく、楽しんで欲しいと願っていました。その願いを叶えてくれた教職員にも感謝しています。
 さて、「まだ間に合うはもう遅い」と言う言葉をよく聞きます。グズで取り掛かりの遅い私にはとても耳に痛い言葉です。でも開き直るつもりもないのですが、「もう遅いはまだ間に合う」ということもあるのかなと思ったりもします。諦めたら全ては終わります。しかし、諦めないで最後まで取り組むことが大切です。三月の聖書の言葉は以下の通りです。  
「あなたの未来には希望がある。 」エレミヤ書 第31章17節
 教育は、希望がなければ成り立ちません。人は成長できます。死ぬ直前まで成長できる。この希望を信じなかったら教育は成り立ちません。遅すぎると言うことはありません。Never too late!
 いよいよ三月となりました。本年度、こどもたちとの幼稚園生活はいよいよあと少しとなりました。その短い日々の中で、こどもたちの成長のため、祝福のために何ができるか?最後の最後まで諦めないで日々の保育に励む時、神様が素晴らしい祝福をもたらしてくださると信じて、希望をもってこの三月を歩んでまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

2月の園だより

 一年で一番寒い季節を過ごしています。インフルエンザの流行も心配です。
 いつもありがとうございます。
 先日、新聞でオウム真理教の裁判が終結したというニュースがありました。松本サリン事件、地下鉄サリン事件等一連の事件は社会を震撼させた大事件でした。オウム真理教の幹部になった人たちのことも多く報道されましたが、あの人たちはなぜか私と同世代の人たちが多くいたことが心に残っています。とても優秀な人たちでいわゆる「難関校」、「一流大学」で高度な学問と技術を学んだ人たちでした。そんな優秀な人たちがあんな恐ろしいことに加担してしまったことを巡ってあれこれ考えました。優秀な知識と技術を持っていても、それをどう使うかはその人の人間性、価値観が分かれ目になります。宗教心といっても良いかもしれません。優秀な知識と技術を用いて、人を生かし、人を助け、社会に貢献するか、人の命を傷つけ、奪い、反社会的な活動を行うか、その人の内面によって大きく分かれてしまうのです。
 2月の聖書の言葉は以下の通りです。      
 「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。 」
 コロサイの信徒への手紙 第3章14節
 こどもたちは、これから小学校、中学校、高校大学へと進学していくのでしょう。そこで様々な知識と技術を学ぶことでしょう。それはとても大切なことです。でもその技術を活かすも殺すも心の在り方次第です。知識と技術を良い方向に活かすのは、その人が心に愛を持っているかにかかっていると思います。私は、こどもたちが、幼い日にたくさん愛されて、自らの内に愛を豊かに育んで欲しいと願います。何よりもそれを願っています。そのために幼稚園の保育を通して、神様の愛を、こどもたちに保育者の全身全霊を込めて伝えてまいります。
 三学期もあと二ヶ月足らずとなりました。最後の最後までこどもたちの成長の喜び、愛される喜びのために保育に励んでまいります。どうぞ宜しくお願いいたします。
 寒きおり、皆様それぞれのごご健康を心よりお祈りいたします。
 

1月園だより

 新年おめでとうございます。新しい年、皆様の上に、神様の祝福をこころよりお祈りいたします。
旧年中は、ご理解、ご協力をありがとうございました。特にクリスマスは、感動いたしました。劇を演じる子どもたちが、クリスマスの登場人物そのものに見えました。例えば、天使で登場しているあの子は、〇組の〇さんではなく、天使そのものに見えました。2000年前のクリスマスの出来事が今、ここに再現されました。神様のお守りとご家庭の皆様のご協力のおかげです。
 さて、新しい年が始まりました。様々な不安もありますが、希望に満ちたあゆみとなってほしいと願います。
1月の聖書の言葉は以下の通りです。      
「見よ、わたしはあなたと共にいる」 創世記 第28章15節
 これはヤコブに語られた神の言葉です。ヤコブは、何かと欠点の多い人でした。しかし、神様はヤコブを見捨てることなく、愛し、導かれました。そのような愛をいただいてヤコブは少しずつ成長することができました。人を本当の意味で変えることは、強制ではできません。真実の愛のみが本当の意味で人を変え、成長させます。
 様々な不安もあるこの時代、私たちは、この年も変わることなく、真実に私たちを愛し、守ってくださる神を希望の根拠としたいと思います。
 いよいよ三学期となりました。「一月は急ぐ、二月は逃げる、三月は去る」とも言われます。ひとときひと時を大切にしたい。こども達の時間の密度は大人とは違います。大人には短く感じられる時間でも、子どもたちは大きく成長していきます。この三学期、保育の総仕上げの時期、春に向かって、子供達の大きな成長を楽しみに保育に励んでまいります。どうぞ宜しくお願いいたします。

12月園だより

 11月も終わり、いよいよクリスマスが近づいてまいりました。原則として毎週金曜日に礼拝を守ります。私にとってこの礼拝のひとときはとても大きな喜びです。幼稚園の礼拝で私が願っていることは、子ども達に聖書のお話を楽しんで欲しいということです。特にイエス・キリストという方を伝えたい。この素晴らしい方の物語をわかりやすく楽しくお話しして、イエス・キリストを大好きになってほしいと思ってお話ししています。こどもたちは、物語の流れを共感をもって受け止めてくれます。苦しんでいる人、困っている人の場面では真剣に心配し、そのような人たちにイエス・キリストが深い愛を注いでくださるところでは、ホッとしたり、喜んだりしてくれます。語るものも聞くものも、イエス・キリストの物語を味わい、楽しみ、その素晴らしさを共有できる瞬間は大きな喜びです。そういう毎週の礼拝の営みの中で、こどもたちがイエス・キリストを大好きになってほしい。イエス・キリストから、神様から愛されていること、守られていることを信じ、神を敬い、人を愛する人に育ってほしいと願っています。また礼拝を通して、こども達にお話を聴く力も育っていくことでしょう。
 さて、12月、嬉しいクリスマスがやってきます。
 聖書の言葉は                
「いと高きところには栄光、神にあれ、
  地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカによる福音書第2章14節
 クリスマスの最高の贈り物はイエス・キリストのお誕生です。神様が私たちを愛して、ひとり子イエス・キリストを送ってくださった。それほどまでに愛されている喜びをこども達に伝え、共に喜び、分かち合うクリスマス。受けるだけでなく、分かち合い、与え合い、喜びがますます充ち溢れるクリスマスにしたいと思います。
 二学期も残り少なくなりましたが、どうぞ宜しくお願いします。皆様それぞれのご家庭に嬉しいクリスマスが来ますように。心より祝福をお祈りいたします。
 

2017年11月園だより

10月になって台風が二つも来るとは驚きましたね。みなさん大丈夫でしたでしょうか?
先日の運動会は、延期になったにもかかわらず、たくさんお集まりいただき、温かい拍手、ご声援、ありがとうございました。
幼稚園の保育は運動会を経て、子供達はますます自信を深め、遊びが充実してきました。お友達と一緒にいることが楽しい、先生と一緒にいることが楽しい時期になりました。神様は、人間を、もともと誰かと共に生きる者として造られました。そしてその「共に生きる生き方」を祝福されました。今、その祝福された共に生きる歩みが充実してきています。
11月の聖書の言葉は
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイによる福音書第18章20節
この言葉は、「一人ではダメなの?」という疑問を持たれることがあります。「一人だったら神様は一緒にいてくださらないの?」という疑問です。そんなことはありません。神様は一人でも一緒にいてくださいます。この言葉は、神様は、人と人とが共に生きるようにしてくださり、その共に生きる歩みを祝福してくださることを伝えています。私たちは、そのこども達と共に生きる形をより豊かな祝福溢れるものとするために保育に励んでまいります。いよいよ実りの秋の集大成の十一月、とても楽しみです。どうぞ宜しくお願いします。
 

2017年10月園だより

すっかり秋になりました。夜は涼しげな虫の音にホッとしています。幼稚園では運動会に向けてこどもたちが張り切って練習しています。暑くもなく、寒くもなく、本当に良い季節です。
さて、人生はよく旅にたとえられます。幼稚園生活は、こどもたちにとって、家庭生活から集団生活への新しい旅立ちということができるでしょう。そしてそれは人生の最初の旅立なのでしょう。
皆様の大切なこどもさんを幼稚園にお受け入れするということは、幼稚園生活という新しい旅に、こどもさんとご家族をお招きしたということです。そしてこの「旅」のもたらす素晴らしい成長と喜びをお約束をしているということです。こどもたちも、ご家庭の皆さまもこの約束を信じて、この幼稚園での生活、「旅」を始められたということができると思います。
この「旅」は決して一人ぼっちの旅ではありません。私たち教師は、ご家庭の皆さまとご一緒に、こどもたちの「旅」に寄り添い、こどもたちの生きる喜び、成長の喜びという「旅」の充実のために日々の保育に励んでおります。
10月の聖書の言葉は
「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」創世記第12章4節
アブラム(アブラハム)は70歳の時に神様から新しい旅を始めなさいと言う言葉を聞きました。70才で新しい旅をしなさいというのは、ずいぶんと無茶な話です。でもアブラハムは神様の祝福の約束を信じて旅立ちました。神様はアブラムとの約束を守り、アブラムの旅に寄り添い、助け、導き、素晴らしい旅の実りを与えてくださいました。
私たちもアブラハムの信頼に応えて下さった神様に習い、子供達とご家庭の皆さまの信頼に応え、素晴らしい旅の実りを実現してまいりたいと思います。10月もよろしくお願いいたします。

 

2017年9月園だより

とても暑い夏でした。間違いなく、去年よりも暑かったですね。
皆さま、ご無事でしたでしょうか?事故にあわないように、病気(特に熱中症)にならないように、再会を楽しみしつつお祈りしておりました。
実は私、ディズニーが大好きです。絵も素敵ですが、音楽が素晴らしい。最近では「アナと雪の女王」の「ありのままで」が大ヒットしました。私が特に好きな曲は「星に願いを」です。映画の始まりでコオロギが夜空の星に向かって歌います。願い続けたらかなら叶う。とても暖かく夢のある歌です。
こどもたちは様々な願いを持っていることでしょう。「大きくなったら・・・になりたい」とか「・・・ができるようになりたい」とか「・・・が欲しい」とか。「・・・が欲しい」というと大人だといささか嫌味に聞こえることもありますが、こどもたちの願いはとてもストレートで嫌みがありません。
こどもたちは前向きです。常に未来に向かって、伸びていこうとしています。いろんな願いを持ちます。私たち大人はこどもの願いを聞いて、「そうだね」「できるといいね」、「かならずできるよ」、「かならずなれるよ」こどもの心に寄り添い、夢を、願いを応援したいものです。
もちろん全ての願いが叶うものでもありません。中には「ちょっとどうなの」ということもないわけではありません。でも、あきらめずに願い続けていたら、願いがかなうように一生懸命努力していたら、素晴らしい未来が待っている。その希望をこどもたちと一緒に大切に育てていきたいものです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる」マタイによる福音書第7章7節
9月の聖書の言葉です。
秋、こどもたちの前向きな気持ち、夢に寄り添いながら、実りの秋の喜びを分かち合えるように精一杯努めてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
 
『2017年7月に寄せて』 
 毎週、金曜日は幼稚園の礼拝です。賛美歌を歌い、お祈りし、聖書のお話を聞きます。ひよこ組さんからほし組さんまでみんなとても立派にお話を聞くことができます。昨年、初めて礼拝した時、子どもたちが良いお話によって育てられているなあと思いました。先生方が良いお話をなさっていたから、子どもたちはお話が大好きで喜んで聞いてくれるのでしょう。
 さて、先日、研修会で「命は与えられたものである」と習いました。確かに命は「いただきもの」です。私たちがいただいている最高の「贈り物」、「プレゼント」です。前任の幼稚園で子どもたちに「プレゼントをもらったらどうする?」と尋ねますと、こどもたちは、「ありがとうと言う」と答えてくれました。「もらったプレゼントはどうするのかな?」と更に尋ねましたら、「大事にする」という答えてくれました。私たちは自分の命が与えられていることに感謝し、大切にしなければなりません。もちろん他人の命も同様に大切にしなければなりません。このことは幼児期にしっかり伝えたい人生の知恵の根本です。
 実は命ばかりではなく、この世界も神様からの「贈り物」です。神様は愛を込めて、心込めてこの世界を造られました。自然、そして全ての命を造られ、この世界を祝福されました。そしてこの世界を私たち命あるものすべてに贈り物としてくださったのです。世界は、神様の愛の贈り物です。この世界で、神様の愛をいただき、生きる喜びにあふれてみんなで神様に感謝し、この世界を大切にするのです。この世界は、そんな神様への感謝を表す「ステージ」なのです。
 特に自然の中で、共に遊び、共に過ごす時、私たちは神様の愛を共に喜び、感謝することができます。これから夏、神様の造ってくださった世界に生きる喜びを遊びの中で子どもたちが存分に感じ、感謝し、喜びに輝いて過ごしてくれるように励んでまいります。
 残り少ない一学期となりましたが、どうぞ宜しくお願いします。
『7月の聖句』 天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ。(詩編96編 11節)
『2017年度6月に寄せて』
 私たちは、子どもと出会うことで、子どもからたくさんの幸せをいただきます。子育て、教育は楽なことばかりではありませんが、子どもから頂く幸せは何にもまさる喜びです。
 少し前、今年度初めてほし組の子供達と給食をいただきました。その翌日、園庭に出てみましたら、ほし組の子どもたち何人かが集まって来て、ニコニコしながら「園長先生、今日の給食、どうするん?」と声をかけてくれました。その心は「園長先生、昨日一緒に給食食べて楽しかった。今日も一緒に給食食べよう。でした。残念ながらその日は別の予定が入っていたのですが、とてもとても嬉しかったです。関西弁で言えば、自分に向かって「おまえ、どんだけ幸せやねん」となります。本当に子どもたちは、私たちに幸せを与えてくれます。そういえば、自分の子どものことを振り返っても、子どもが生まれてくれて、たくさんの幸せをもらったことが思い出されました。
 さて、私たちの幼稚園では「キリスト教保育」という雑誌の「聖書にきく」というコラムを参考にして聖書を学んでいます。毎年、執筆者が変わります。以前は、当幼稚園の元園長榎本栄次先生も書いておられました。今年度の執筆者は、石川県の先生です。私は前任地がお隣の福井県でしたから、この先生はとてもよく存じています。私が心から尊敬する方です。「やるべきことをやる。愛にあふれた方」です。私の前任の教会の信徒さんが、石川県におられた頃、生まれた子どもさんに重い病気があったのです。その時、この先生が慰め、励ましてくださいました。それを聞いてから、私はずっとこの先生を尊敬しています。またお話や執筆を通して、沢山のことを学ばせていただきました。「目から鱗」の経験をたくさんさせてくださいました。
 今回の目から鱗は「奇跡」ということについてでした。普通「奇跡」といえば、通常では起こり得ない出来事を指して「奇跡」と呼びます。ところが、この先生は、「奇跡は神のなさることである」と言われたのです。これは本当に「目から鱗」でした。私たちの日常のなんの変哲もない出来事の中でも「神様がなされた」と思えることがあれば、それが「奇跡」なのだというのです。子育てにおける子どもの成長の姿。そこにはご家庭の皆様、教師の関わり、努力によるところも大きいでしょう。でもそれだけでは言い尽くせない不思議があるのではないでしょうか?自分も子育てに努めた。でもそれだけで子どもがここまで成長したとは思えない。そんな「プラスα」がありはしないでしょうか?自分の子育てを振り返ってみてもそうです。もちろん親として妻と共に一生懸命に努めました。でもそれだけで子どもが育ったとはどうしても思えません。沢山の方に支えられた。そして何よりも神様に守っていただいたとしか思えないのです。そもそも子どもを与えられるということ自体が、人の力だけではどうしようもない「奇跡」です。子どもは「作る」のではありません。与えられるのです。授かるのです。それは神様のなさること、奇跡ではないでしょうか?そう思って、幼稚園の子ども達の様子を見ていますと本当に日々、成長していきます。もちろんそこには保護者の皆様、教師の努力もありますが、神様が子どもたちを愛してくださって、素晴らしい祝福を与え、成長させてくださっているという「奇跡」が満ち満ちているように思え、感謝と喜びが溢れてきます。そしてますます保育に一生懸命に励もうという意欲を新たにさせられます。
 今月の聖書の言葉は
 「これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと」詩編118編23節
 日々成長していく子どもたち、神様のなされる素晴らしい「奇跡」を驚き、喜び、励まされながら、今月も保育してまいります。どうぞよろしくお願いします。
 
5月園だより
『2017年度5月に寄せて』
幼稚園が始まりました。泣く子が少ないようで、外遊びも始まり、幼稚園は順調なスタートを切ることができました。
ところで、先日、礼拝後のことです。ある女の子がやってきてある子から
「園長先生、小公子好きなんやろ 私も読んどる」と言われました。すごい。この子、親御さんから私が園のお便りに書いた巻頭言を読んでもらったのでしょう。とてもとても嬉しかったです。
さて、時々こういう質問をいただきます。「おたくの幼稚園はキリスト教の幼稚園らしいが、信者の子どもしか入れないのですか?」
私は「いいえ。そんなことはありません。私たちの幼稚園の根本にあるキリスト教の精神を理解してくださる方なら宗教に関係なく、お受け入れしています。」とお答えしています。キリスト教の精神とは「人間を超えた大いなる存在である神に守られ、愛されていることを喜び、神を敬って、神に喜ばれるように生きる」ことです。神は目に見えません。でも確かにおられて、自分たちを守っていてくださる。そのように目に見えない神を敬い、その方に喜ばれる者として生きる。悲しまれることはしない。それがキリスト教教育、宗教教育の大切なポイントです。
そのようにして、目に見えない神を敬うことは、目に見えないものを大切にすることへとつながります。大人の世界は目に見える結果を求めます。子ども達もいずれはそういう社会に出ていかなければなりません。でも目に見えるもの 目に見えないもの、本当はどちらが大切でしょうか?
たとえば、贈り物。贈り物は目に見えます。でも贈り物に込められた心は目に見えません。贈り物は、物ですから、いつか古びていきます。でも贈り物に込められた愛情は、古びることはありません。昔、父から時計をもらいました。もう動きません。でもその時計に込められた父の愛は決して古びません。その時「大事にしてください」との父の言葉、父の眼差しも私の心に焼き付いています。贈り物を本当に喜ばしい「贈り物」にしてくれるのは、愛だったり、感謝だったり、思いやりだったり、贈る人の心です。
サン・テクジュベリの「星の王子さま」で狐が王子に言います。「本当に大切な者は目に見えないんだよ。」。目に見えるものは、目に見えないものによって支えられています。目に見えるものを意味あるものとするのは、目に見えない心です。愛 思いやり 感謝 大切な心は目に見えません。でも、それがあって、愛、感謝、思いやりが目に見える行動として現れてくるのです。
私たちは幼稚園において、常に目に見えないものを大切にしています。目に見えるものがどうでも良いのではありません。作品一つにしても、結果としての作品よりもそれに至るまで子どもたちがどれだけ感動したか、楽しんだか、どんな思いを込めて作ったのか。そういう目に見えないものとのつながりの中で目に見えるものを理解し、意味づけていきます。
五月の聖書の言葉は、 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」です。私たちの保育において、一番伝えたい大切なものも、目に見えません。それは神様の愛です。イエス・キリストにおいて、子どもたちを愛し抜かれる神様の愛を幼稚園の活動、施設設備、なによりも教師の働きかけを通して伝えます。そして子どもたちに愛される喜び、生きる喜び、生きる力、感謝と思いやりの心を育んでいきます。これも目に見えません。でも、それら目に見えないものをしっかりと大切に育てていく営みが、いずれは目に見えるものへと繋がっていきます。生み出していきます。
5月もどうぞよろしくお願いします。

 
『2017年度4月に寄せて』
 四月、新入園、進級、新しい生活が始まりました。
 期待と共に不安もあることでしょう。新入園児にとっては、家庭から離れて集団生活に入ります。初めての経験でしょう。進級するこども達も一つ大きくなった喜びと共に新しい生活には不安もあることでしょう。
 そんな四月、新しい生活の始まりの時、私たちはすべてのこども達がそのありのままの姿で受け入れられ、歓迎されていることを実感してもらうことから保育を始めます。まずは教師の笑顔、やさしい言葉かけから始めます。「よく来てくれたね。ありがとう。うれしいよ。大好きだよ。安心して、一緒に遊ぼうね。」そんなメッセージを幼稚園の保育全体でこども達に伝えます。
 四月の聖書の言葉は「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書第20章19節)です。
 この言葉はイエス・キリストの復活の物語の中に出てきます。イエス・キリストは十字架にかけられて三日後に復活されました。そして弟子達に出会われました。弟子達の心は真っ暗でした。イエス・キリストが捕らえられる時に、逃げてしまい、イエスを守ることも、イエスについていくこともできませんでした。大きな挫折感、自己嫌悪、悲しみ、不安で弟子達の心は冷え切り、固く閉ざされていました。そんな弟子達に対して、復活されたイエス・キリストは「あなたがたに平和があるように」と呼びかけたのです。「安心しなさい。わたしだよ」という意味です。もっと言えば、「安心しなさい。わたしは今もあなたがたのありのままを愛しているよ。」というメッセージです。このイエス・キリストの愛の挨拶によって、弟子達は安心し、固く閉ざされた心は開かれていったのでした。
 この弟子達ほど、深刻ではないでしょうが、この時期のこども達の心の不安は弟子たちと似ているところがあるように思います。新しい生活への不安です。そのようなこども達に対しても、イエス・キリストは「あなたがたに平和があるように」、「安心しなさい。あなたのありのままが大好きだよ。」と呼びかけておられます。このイエス・キリストの心にならって、わたしたちもこども達のありのままを受け入れ、安心して幼稚園生活を始めることができるように努めてまいります。
 こどもたちばかりではなく、ご家族の皆様も不安やご心配があるかもしれません。そのような折にはどうぞいつでもお声をお掛け下さい。
 そのようにして、四月、安心して「であう」月としたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 
4月園だより
『2017年度の始まりに寄せて』
 
 四月になりました。私が今治の地にまいりまして一年が過ぎました。四国の第一印象は桜がとても綺麗でした。今年も楽しみです。でも何よりも楽しみなことは、こどもたちと共に新しい年度の歩みを始めることです。
 さて、私たちの今治めぐみ幼稚園はキリスト教保育の幼稚園です。保育の根本にキリスト教精神を置いて、そこを出発点として保育を行います。聖書の言葉を大切にし、年間聖句、毎月の聖書の言葉に学びながら保育を行っています。日々こども達と分かち合っています。
 今年度の年間聖句は
 「あなたがたは神に愛されている子供です。」 エフェソの信徒への手紙5章1節
です。
 すべての人は、神様から愛されている尊いかけがえのない存在です。その愛されている喜びを実感して、その愛に応えて互いに愛し合う者として歩む。それがこの聖書の言葉のメッセージです。そしてこの聖書の言葉のメッセージを幼稚園の生活を通して、こども達に伝えていきたいと思います。神様から愛され、家族から、教師から愛され、喜び、その愛に応えて、愛する者として歩むことを目指します。
 私がこどもの頃大好きだった本の一つが「小公子」です。その中で忘れられない一節があります。「父親は母親にやさしい言葉で話しかけた。すると生まれたこどももやさしい言葉で母親に話すようになった」。
 何もないところからは何も生まれません。ない袖は振れません。人は受けたことを出していくのです。幼い日に愛されて、やさしい言葉をたくさんもらったら、やさしい心に育てられて、やさしい言葉をたくさん話すようになるのです。たくさん愛をいただいて、愛される喜びに輝いて、愛する者として歩んでいってほしい。そう願っています。
 その愛の根本にすべての人を愛する神様の愛があります。今の日本社会、そのような愛が見失われているとしか思えないような出来事がたくさん起きています。心が痛みます。だからこそ、私たちはすべての人が愛されている。すべてのこども達が愛されているその喜びを実感していただける保育をこの年も行ってまいります。
 皆様のご理解とご協力をよろしくお願いします。
 
4月の聖句「あなたがたに平和があるように。」 ヨハネによる福音書第20章19節
 
3月園だより
 
   先日、発表会が行われました。皆様のご理解とご協力、ありがとうございました。
 室内行事ではありますが、天気が気になりました。私が会場に歩いて到着した午前9時ごろは曇り。ああよかった。発表会が終わって、歩いて幼稚園に着いたその時も雨はなし。でも発表会の間はザアザアと雨が降っていたとのこと・・・・
 そんな発表会。主催者の私が申し上げるのはおかしいかもしれませんが、こどもたちの成長の輝き、生きる喜びの輝きに圧倒されてしまいました。それから子どもたちと教師の心の結びつき、さらに子どもたちを温かく見守るご家族の眼差し、一番大好きな人たちに見てもらえる、拍手してもらえる喜びが満ち溢れていて、結局、私の目はやっぱり「雨」でした。目だけで済んだらよかったのですが・・・
 誤解を恐れず申します。私は発表会当日の「結果」よりも当日に至るまでの歩み、「過程」の方が大切だと考えています。この発表会で子どもたちとともに何を実現したいのか、どんな成長を願うのか、そのために当日に向けて、どう歩んでいくのか?当日に向けてどれくらい楽しめたか、どれくらい成長できたか?どれくらい生きる喜びを感じていたか?さらにそれがこども同士で、また教師とこどもで、励ましあい、支え合って歩んでくることができたか。そのような過程が当日の結果へとつながっていきます。そのような過程こそが子どもたちにとって最も大切だなのです。
 そのようにして培った幸せな経験が子どもたちの人間性の深いところに根付いて、子どもたちの一生の基礎となっていくことでしょう。
主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。詩編27編1節
 子ども達のこれからの歩みも神様が光を照らして導いてくださる。そんなおおらかな人生への信頼をもってそれぞれに新しい歩みへと踏み出して欲しいと思います。
 「一月は急ぐ、二月は逃げる、三月は去る」。とうとう三月です。でも、子どもたちの時間はまだまだあります。最後まで、子ども達の幸せと成長のために精一杯努めてまいります。どうぞよろしくお願いします。
 
3月の聖句 主はわたしの光、わたしを救い わたしは誰を恐れよう (詩編 27編1節)
2月 園だより
   
 寒中、お見舞い申し上げます。
 一年で一番寒い時期を過ごしています。皆様いかがお過ごしでしょうか?幼稚園では少しずつインフルエンザによるお休みが出てきて心配しています。
 私は、福井県の敦賀市からまいりました。その前は岩手県におりました。そういう身からしますと今年は随分暖かい冬を過ごさせていただいています。朝夕は少し冷え込むようですが、日中お天気が良いと暖かくて、ひよこ組のこども達は、園庭の人工芝の上で裸足で遊んでいました。ちょっとびっくり。まさしく「温暖」な地域なのですね。
 こども達は若干お休みの子もいますが、元気に登園してきています。休みが明けて、スムーズ三学期の生活に入っていけたようです。残り少ない三学期、良いスタートを切ることができたようでホッとしています。
 さて、2月の聖書の言葉は、
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」(コリントの信徒への手紙二第4章18節)です。
 目に見える結果が求められる世の中です。でも目に見えるものは目に見えないものに支えられていることを忘れてはいけません。「目に見えないもの」とは、何でしょうか?いろいろありますが、まず第一には「心」と言えるしょう。こども達の保育に当たる時、目に見える姿だけではなく、こども達の心の動きを常に大切にしていかなければなりません。今、こども達は何を感じているか、何を喜んでいるか、何に困っているか、何に興味があるのか、常にこども達の心を大切に、寄り添って保育してくことが大切です。「目に見えないもの」として、次に手がかりになるのは「過程」です。もうすぐ生活発表も行われます。そこでの本番当日の目に見える結果も大切ですが、特に幼児期はその日に至るまでの過程、こども達がどれだけ楽しんだか、どれだけ努力したか、どれだけ成長したかを大切にして行きたいと思います。そしてそのように当日は見えない過程を大切にしていく中で、こども達に豊かな成長の喜び、生きる喜び、生きる力というもっと深い意味での「目に見えない」大切なものが育っていくことでしょう。
 一月は行く、二月は逃げる、三月は去ると申しました。でも目に見えない子供達の心に寄り添い、一時日時を大切に歩む時、短く、早く流れていく時間にあっても素晴らし三学期となることでしょう。
 今月もどうぞ宜しくお願いします。
 寒中ですが、皆様のご健康をお祈りいたします。
       
1月 園だより
三学期、保育の総仕上げ、こども達の成長を楽しみに
 
 新年明けまして、おめでとうございます。
 旧年中はありがとうございました。本年もどうぞ宜しくお願いします。
 皆様、それぞれに楽しいお正月を過ごされたことと思います。冬休みが明け、新しい年、こどもたちと再会できて、とても嬉しく思います。
 遅まきながら、12月には今治めぐみ幼稚園でも初めてのクリスマスを皆様とご一緒できて本当に感謝でした。イルミネーション点灯式には「びっくり本(もう古い?)」。度肝を抜かれて始まり、アドヴェントクランツにロウソクの明かりを一つまた一つと灯しながら、礼拝を重ねて準備し、クリスマス当日を迎えることができました。聖誕劇(ページェント)では、こども達一人一人が、クリスマス物語の登場人物そのものに見えてきて、深い感動を覚えました。クリスマス物語そのものが持っている力を感じました。。こども達も劇に参加し、演じることで、クリスマス物語をより深く、より豊かに味わい、楽しみ、経験し、神様の愛を心の深いところに受け止めたことでしょう。またご家庭の皆様の温かい眼差し。こどもたちが一番観て欲しいのは、大好きなご家族です。そのご家族に愛情のこもった眼差しで観ていただき、心温まる幸せなクリスマスとなったことだと思います。幼稚園の営みがそんなご家族の幸せな思い出とこどもたちの豊かな成長のためにお役に立てたのであれば幸いです。私はと言いますと皆様の歌の指揮をさせていただくということで、とても緊張しました。歌は好きですが、指揮は苦手で果たしてお役に立てたものか?それはともかく、こどもたちは、クリスマスという夜の物語に光り輝く姿で明かりを灯してくれました。
 さて、1月の聖書の言葉は、「光の子として歩みなさい。」(エフェソの信徒への手紙第5章8節)です。実はこの言葉、前任の幼稚園では毎年三月の聖書の言葉、卒園式に暗唱する言葉としておりました。そして私が下手な字で卒園生に送る聖書にこの言葉を書かせていただいていたのでした。個人的にも大好きですし、キリスト教保育の大切な要点を示してくれている言葉です。
 「光の子」とは、愛されている喜び、成長する喜びに輝くこどものことです。その実現のために必要なことは、たくさんたくさん愛されることです。ご家族から、教師から、お友達から豊かな愛を受け、愛される喜びに輝いて、互いに愛し合う経験を重ねることです。その愛をいただき、その愛を反映して、こども達は光り輝くのです。光の源は、自分の内にあるのではなく、他から受けるのです。また、より根本的には、イエス・キリストに示された神様が、こども達を豊かに愛してくださっている、その神様の愛を幼児教育を通してこども達に伝えることがキリスト教主義幼稚園のつとめです。この聖書の言葉から、そのことの大切さを改めて思わされました。
 さあ、三学期。年度末、保育の総仕上げの時期です。「一月は急ぐ、二月は逃げる、三月は去る」とも申します。焦ることなく、今を大切に、こども達と共に歩むことができる日々に感謝し、こども達が愛される喜び、成長する喜びに光り輝けるように精一杯保育に励んで参りたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
 皆様の新しい年に神様の祝福を心よりお祈りいたします。
 
1月の聖句
『光の子として歩みなさい』
 エフェソの信徒への手紙5章8節
12月園だより
クリスマス、ぬくもり、愛
私「ねえ、お名前〇〇ちゃんでよかったかな?」
園児「うん。そうだよ。」
私「やったー、だんだん覚えてきたでしょ」
園児「じゃあ、僕のお母さんのお名前知ってる?」
私「うーん。知らないなあ」
園児「じゃあ、教えてあげる僕のお母さんの名前はねえ〇〇っていうんだよ。」
私「そうか、そうなんだあ」
給食の時間、一生懸命子どもたちの名前を覚えています。こども達に名前を聞いたら、家族の名前まで教えてくれました。なんて幸せな子どもたちなんでしょう。名前を教えてもらった私は、それこそ「おすそわけ」をしてもらって、とても幸せな時間になりました。ご家族の愛のぬくもりに包まれているのだなと改めて思わされました。
 クリスマスがやってきます。寒いけれども暖かい、なんだか嬉しいクリスマスです。なんだかぬくもりが感じられます。誰かに優しくしてあげたくなるクリスマスの魅力は、その根っこに神様の愛があるからです。この世界を愛して、独り子イエス・キリストをお与え下さった神様の愛が私たちの心を温めてくれる、ぬくもりの源です。
 今治めぐみ幼稚園で迎える初めてのクリスマス、とても楽しみです。そしてみなさまのご家庭に、ぬくもり溢れる愛の溢れるクリスマスが来ますように心よりお祈りしています。
 
12月の聖句
『神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』
ヨハネによる福音書 3章16節
 
11月園だより
 
共感力、思いやりの心
 私、実は体育会系です。運動が大好きです。年齢による体力の衰えは鍛え方が足りないんだと自分だけ(あくまでも自分だけ)には言い聞かせています。それでもどうしようもなく「歳のせいかなあ」と年齢を感じさせられることがあります。それは何かと言うと「涙もろく」なりました。この前の運動会、雨の中、年長組親子がダンスを踊っていらっしゃる様子を見ていた時のことです。ダンスの中、少し離れたところからお母さんに向かって「抱っこ」に走る寄るこども達の嬉しそうな顔、それを抱き上げるお母さん方の嬉しそうな顔。空は雨なのにそこだけは眩しく輝いていました。そして私の目はもう「どしゃ降り」、涙が止まりませんでした。幸せの風景とはこういうものなのだと教えられました。ありがとうございました。
 今月の聖書の言葉、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」は、人の心に寄り添い、感情を共にすることの大切さを伝えています。嬉しい時には共に笑い、悲しい時には共に涙する。そんな「共感力」、「思いやりの心」が大切です。ではその心はどうすれば育つのでしょうか?先ずは愛される喜びの経験をたくさんすることだと思います。自分自身が愛され、喜びを共にしてもらえる人、悲しみを共にしてくれる人と出会う経験、自分の心に寄り添って、ぬくもりを伝えてくれる経験、そんな経験の積み重ねの中で、「共感力」「思いやりの心」が育ちます。そしてこどもたちはもう既にそのような「共感力」、「思いやりの心」を自らの内に持っているんだなと思わされることが多々あります。そのことを喜びながら、こどもたちが幼稚園の生活の中で愛される経験をたくさんしてほしい。なによりも教職員一同、こどもたち一人一人の心に寄り添い、愛を伝える保育の歩みを続けてまいります。今月もどうぞ宜しくお願いします。
 
10月園だより
 
 相次ぐ台風のため、日本全国で大きな被害が出ています。今治は、幸いあまり被害はないようですが、皆様の大切な方々は大丈夫でしたのでしょうか?さて、ここ最近、降り続く雨の間を縫うようにして、子どもたちは運動会の練習に励んでいます。この前、日吉公園に練習を見に行きまして、感心したことがあります。それは星組の子どもたちが、ダンスの並び方が上手だったことです。私も幼稚園長として長年運動会に携わってまいりましたが、私が運動会で一番難しいと感じることは、いろいろな踊りの動きを覚えたり、早く走ったりすることではありません。その前の段階、等間隔で並ぶこと、これが一番難しいことだと思います。子どもたちは、踊りや体操の動きなどは上手にできるようになります。それでいながら、等間隔で並ぶことは、なかなかできないのです。どんなに上手に踊れても、動けても、並び方がうまくいかず、スペースがないと、力を発揮できないのです。そのことでは、今までもずいぶん苦労してきました。そういうわけで、めぐみ幼稚園のほし組さんには感心しています。運動会が楽しみです。
 さて、子どもたちが、運動会を目指して、楽しく体を動かしている姿、当たり前の姿です。でも、この当たり前の姿の尊さを思います。世界中には、戦争や様々な不正の中で子どもたちが脅かされています。子どもが毎日楽しく遊んでいる風景が当たり前になっていない現実がたくさんあるのです。残念なことです。子どもたちが、生き生きと楽しく遊んで、日々成長の喜びに輝いている。これを尊く思う心、これを決して忘れてはなりません。世の中は、経済優先、力関係が優先されます。しかし、こども達の幸せを尊ぶ心を失ってしまったらいけません。あたかもそれは、塩味を失ってしまった料理のように味わいのない、つまらない社会となってしまいます。そしてこども達の姿を光、希望として常に尊ぶ姿勢が、社会の真の幸せを実現します。
 そのような意味からも運動会は、とても大切な行事です。生き生きとした、成長の喜び溢れるこども達の姿を、ご家族の皆様と共に喜び、幸せを実感するひと時とし、実りの秋の素晴らしい思い出としたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
9月園だより
 
 猛暑の夏でした。皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか?海に、山に、また旅行、楽しい思い出がたくさんできたことでしょう。こども達のお話が楽しみです。私は、宮崎県の生まれで、夏が大好きです。今治めぐみ幼稚園創立60周年記念誌をようやく完成させることができ、近々皆様にもお配りする予定となりました。教会関係の音楽講習会に参加して、礼拝について学んできました。個人的には、高校サッカー部のOB戦に出場して1ゴールして嬉しかったですね。実は私、草サッカーの現役(?)選手なのです。仕事の関係上、試合に出たことはありませんが・・・
 さて、夏、8月を過ごしていますと、平和のことを思わずにはいられません。かつての悲惨な戦争の記憶がどんどん風化しているようで心配です。今、憲法改正問題等も話題となっています。ご家庭の皆様におかれましても、政治的には、色々な立場があろうことかも思います。でも、私が幼稚園長として、切に願うことは、幼稚園に通っているこども達が、戦場に行かされたり、戦火に怯えるようなことだけは絶対にあってはならないということです。憎しみ合い、争い合うよりも、愛し合い、支え合う方が良いに決まっています。とてもシンプルなことです。それなのに、世界中で争いが絶えません。痛み、傷つき、飢え、命を奪われている人々が、こどもたちが沢山います。なぜ、それができないのか。本当に悲しいことです。
 今月の聖書に、「無垢でまっすぐに見る」姿は、幼稚園のこどもたちにぴったり当てはまる姿です。その姿、その生き方が、平和な人、未来につながるというのです。私たちが素晴らしい未来、平和な未来を創ろうとする時、大切なことは、「無垢でまっすぐな」存在であるこどもたちを常に見ることではないでしょうか。そこから私たちは、平和な未来を創り出す手がかり、エネルギーを与えられるのです。こどものあり方に学ぶこと、とても大切だと思います。こどもは、自ら学び、成長していく存在です。でも私たち大人はが、こどもから学ぶ。そういう姿勢もとても大切だと思います。
 二学期、運動会、遠足、バザー、そしてクリスマス。楽しい行事がいっぱいです。素晴らしい成長の喜び溢れる充実した二学期となるように精一杯、保育に励んでまいります。ご家庭の皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。


 
7月園だより
 
 梅雨の雨が続いています。皆様いかがお過ごしでしょうか?
 新学期が始まって三ヶ月が過ぎようとしています。ということは私がめぐみ幼稚園に参りましてから、三ヶ月が過ぎようとしていることともなります。こどもたちから「園長先生」と声をかけてもらえることがとても嬉しいです。私も新しい幼稚園でこどもたちを受け入れ、少しでも早く慣れていきたいと一生懸命勤めていますが、こどもたちは私に先んじて、もう既に私を園長として受け入れてくれているのだなあと実感することが多く、本当にありがたいことです。
 さて、幼稚園にいる時は、必ずこども達と一緒に給食をいただくことにしています。各クラスを順番に回っていますが、一回りしてまた同じクラスのこどもたちと食事をするまでには結構間が空いてしまいます。そうやって久しぶりに(?)こども達と食事をしていますとずいぶん様子が違うことに驚きます。短い時間の間にこども達は、新しい生活に慣れ、戸惑いを乗り越えて、成長していることを実感し、嬉しく思いました。
 そのようにして新しい生活に慣れ、自分自身が安定してくるとこども達は視野が広くなり、新しい遊び、新しい友達、新しい「世界」を「探し」始めます。そして旺盛な好奇心を持って、いろいろな事柄に挑戦していきます。そのような探求活動が旺盛になってくる時期がちょうどこの頃になるのです。そして新しい発見に驚き、新しい関わりの中で、ますます豊かに成長していきます。7月の聖書の言葉は「探しなさい。そうすれば見つかる」です。こどもたち一人一人が好奇心を持って意欲的に探し求める歩みの中で、神様は素晴らしい発見をプレゼントしてくださいます。そうやって「みつかった」ものを共に喜び、成長の糧としながら歩んでいきたいものです。
 この時期、そんな「探し求める」こども達の動きに寄り添い、共に探し、見つけたものを共に喜ぶ、その営みの中で、こども達の世界がますます豊かに広がっていくように努めたいと思います。
 一学期も残り少なくなりました。安全に留意しつつ、楽しい園生活のために励んでまいります。どうぞよろしくお願いします。
 
6月園だより
 
 先日、親子遠足、とても楽しかったですね。
 青い空に白い雲、緑の芝生に充実した遊具、「今治にはこんな良いところがあるんだ。」と感心した次第です。美しい自然の中で、お母さんと、お父さんと、ご家族と子どもたちが一緒に遊んでいる様子は、本当に幸せそうで、眩しかったです。本物の幸せは、決してお金で買うことはできないのだなと思わされ、ちょっぴりウルウルしてしまいました。どうも最近、歳のせいか、涙もろくなっていけません。
 今回の遠足、家族の幸せの「舞台」となったのは、美しい自然でした。この自然は、神様がお造りになったものです。聖書によれば、神様は、無秩序で混沌とした世界に光をもたらし、海と陸とを分けられ、昼と夜、天体の運行をさだめられました。そして地上に命をもたらされました。青い空、白い雲、輝く太陽、緑の山々、青い海、美しい草花、生き物、全てをお作りなった神様のご感想は「良し」でした。「我ながら良くできた」と満足され、祝福されたのです。
 このように世界は、神様がお造りになられたとても良いもの、「傑作」なのです。神様がお造りなられた故に、この世界は、神様のものです。私たち人間は、この世界を、神様が喜ばれるように大切に管理する責任を委ねられているのです。
 美しい自然の中で、幸せそうに遊ぶご家族の様子を見ていて、この幸せがいつまでもつづいてほしい。そのためにこの美しい自然、そして平和を大切にしなければならないと改めて思わされました。そして自然の美しさ、尊さ、そこで楽しく遊ぶことのできる喜びを子供たちとともにたくさん経験し、神様に感謝し、大切にする心が育って欲しいと願いつつ保育に励んでまいります。
 どうぞ宜しくお願いいたします。
 自然、
 とても良いもの
 
5月園だより
 
 着任して一ヶ月が過ぎようとしています。福井県の敦賀市からまいりまして、四国はもっと暖かいところだと期待していましたけれど、ずいぶんと肌寒い日が続いてとても意外でした。それでも大きな病気もせず、無事に務めさせていただいています。感謝です。
 今年は私も「新入園児」な訳で、少しずつ幼稚園の様子を見て、慣れていこうと務めています。保育の初日、二日目と怪我が続いて、本当に申し訳なく、心配しましたが、その後は大きな怪我もなく過ごしています。こどもたちはのびのびと遊びを楽しんでいます。子供達のありのままの姿を大切に受け止めて、そのこどもこどもに応じた対応を心がけていることがよくわかります。礼拝の時にはしっかりと集中してお話を楽しむことができています。結果として(ここが大切です)とても静かです。賛美歌の音程も正確で、無理して叫ぶように声を出したりしません。自然体で歌っています。とても歌が上手ですね。
 前園長を中心として教職員が、キリスト教保育本来のあり方を大切に実践してきたことがよく伝わってきました。キリスト教保育の本来のあり方とは、どういうことかと申しますと、一言で言えば「愛されて愛する者となる」ということができます。こどもたちがありのままの姿を喜びを持って受け入れられて、それぞれの個性に応じた援助を受け、大切に育まれていく。その中で、愛されている喜びを肌で感じ、喜びのうちに成長していく。そのようにして愛されて、大切にされて、育つ中で、他の人のこともたいせつに、愛する者として歩んでいくことができるようになる保育です。
 そのような「愛」の根本には、イエス・キリストに示された神の愛があります。神様は愛です。神様はこどもたちが大好きです。「わたしは、あなたたちのことが大好きだよ」という神様の愛のメッセージを、幼稚園の教職員全員で、幼稚園生活のあらゆる営みを通して、こどもたちに伝えて参ります。どうぞよろしくお願いします。
 
 
4月園だより 
安心  
園長・木谷 誠(きたに まこと)
 初めまして、今年度から今治めぐみ幼稚園の園長を務めることとなりました。前任地は福井年敦賀市で教会の牧師と幼稚園長でした。園長として務める幼稚園はこれで三つ目、通算で21年を迎えます。どの幼稚園も教会の幼稚園、キリスト教保育の幼稚園だったからでしょうか、今治めぐみ幼稚園の春休みの預かり保育の様子を見ていましても、幼稚園の保育の雰囲気、教師の子どもたちへの接し方に違和感を感じません。キリスト教保育の幼稚園は、少なくとも私の勤める幼稚園においては、子どもたち一人一人を大切に、笑顔で、温かく接し、子どもたちののびのびとした育ちを実現していく様子は変わらないようで、今治めぐみ幼稚園に赴任できたことをとても嬉しく思っております。 
 四月、新入園、進級の時、子どもたちは新しい生活が始まります。喜びいっぱいの子、不安な子、両方入り混じった子、そんな子どもたちが、安心して新しい歩みを始めらえるように、まず笑顔で子どもたちと出会います。
  神様が、子どもたちとの出会いを与えてくださったことを感謝し、喜び、子どもたち、一人一人のありのままを受け入れます。そして適切な援助をなす中で、こどもたちが愛されている喜びに輝きますうに、生きる力を与えられ、豊かな成長の歩みをなしていきますように保育に励みます。そのようなキリスト教保育を通して、そしてこどもたちの幸せな幼児期を実現し、幸せな今が幸せな未来を創り出すことを信じます。どうぞよろしくお願いいたします。
 
 
自己紹介
 木谷誠(きたにまこと)です。1959年12月15日生まれ56歳。宮崎県延岡市に生まれ、京都の同志社大学に学びました。前任の上島園長とは学生時代からの友人です。大学院を経て、岩手、岡山、岩手、福井の教会で働き、岡山では牧師のみ、岩手と福井では教会の牧師と幼稚園長を務めておりました。趣味は歌、チェロ演奏、サッカーです。こどもたちと一緒に歌ったり、チェロを聴いてもらったり、サッカーしたりしたいです。どうぞよろしくお願いします。
3月園だより
何がなくなっていたのか?

 家(牧師館)が耐震改修のため、最低限の家財を運んで堂守室(ガリラヤ館2階)に仮住まいしている。ここは、もうずいぶん前に、幼稚園の主任の野間屋恵子先生、用務・園バス運転手の野間屋大先生が二人で住んでおられた部屋(2DK)だ。幼稚園舎建て替えの際には、臨時の職員室としても用いられたことがある(から、今もその掲示が残っている)。
 建物が古くなって、1階の台所こそ別の水道管で飲用水が引かれているが、水は飲めないし、ガスも使えない。3階にある共同風呂・トイレも利用不可だ。いわば、ないない尽くし。ところが、そんなここ(今、その部屋でタイプしている)が、なんとも居心地が良い。どうしてだろうと考えると、思い当たる節がある。
 まず、そんな場所を、教会・幼稚園の関係者が、掃除をし、ござを敷き、暖房を用意し、TVの配線をしてくださった。そんな心遣いが暖かい。また、広いスペースがあった頃、夫婦が、別の部屋で、それぞれの用を足すことが普通だったのが、一緒にすることが多くなったので、自ずと新婚時を思い出す(住まいは今の駐車場にかつてあった古い平屋)。
 そう、不便な場所に移って、いろいろなものを失ったように思われるのに、かえって、便利な生活の中で、たくさんのものを失っていたことに気づかされる。ふと、思い出す。新潟・妙高の合宿所の狭くて何もない管理別棟で薪ストーブ生活をした時、我が子が見せた生き生きとした顔を。本当に必要なものは、そう多くはないのだ。
 
2月園だより
幼子に直接語りかけよう
 
 
 定期購読している『日経サイエンス』の3月号の特集は「子どもの脳と心」である。その中に、P.K.クール(ワシントン大)による「赤ちゃんの超言語力」という記事があった。それによると、赤ちゃんの脳は生後6カ月で「敏感期」に入り、母国語や他言語の音を最もよく認識できるようになるという。
 ところが、10カ月齢期を境に、例えば、raとlaを識別することが必要でない社会(例えば日本)では、その識別能力が低下する。こう言うと、早期多言語教育を進めているようだが、わたしが注目させられたのは、むしろ、次のことだ。すなわち、「幼児はどうやって言語を習得するか」である。
 クールは、シアトルに住む9カ月齢の幼児に中国語を聞かせる実験結果を紹介する。赤ちゃんを数人ずつ4つのグループに分けた上で、第一グループには中国語のネイティヴと本やおもちゃで一緒に遊ばせた。第二グループには中国語を話すビデオを見せた。第三には音声のみ聞かせた。第四は英語を話す人と本やおもちゃで遊ばせた。さて、その結果は?
 わたしたちは、第一グループは中国語に反応し、第四は無反応であると確信をもって予測する。そして、第一から第四まで、段階的に反応力が低下すると考えるのではないか。ところが、結果は、第二も第三も、第四と同様無反応だったのだ。そこから見えてくるのは何か。少なくとも赤ちゃんの言語習得には人との交流が「不可欠」だということだ。
 今、丹祐月先生がまもなく出産の期を迎える。その後は育休を得られる。育休はほぼ1年だ。この間の、赤ちゃんへの語りかけは大切だ。その際、よく「幼児語」が使われる。クールによれば、言語学習の妨げになると言われることのある「幼児語」も、実は、幼児の学習に役立つのだそうだ。なぜなら、「親子のコミュニケーション」を後押しするからだ。
 
1月園だより
「鈴」の部屋?

うかつなことに、子どもたちが絵本と出会う「鈴の部屋」が、なぜ「鈴」の部屋(正式には、<絵本の部屋「鈴」>)なのか、気になりつつも、知らずに来てしまった。お恥ずかしい限りである。前々任の園長のお連れ合いの榎本璋子(あきこ)さんが、今治を去られる前、新園舎竣工直前、に記された文章を最近読んだので、紹介しておきたい。
鈴という名前は、童話作家、椋鳩十の著書『お母さんの声は金の鈴』からとったものです。幼い時に聴いたお話(言葉)は愛する人の声と共に何かの折にヒョイと思い出し、その子の心の中で金の鈴のごとく鳴る、と述べています。私も子どもたちの心がそのように育ってほしいと心から願っています。……
子どもの心は人の声を抜きにしては作られません。人の声が側で聞ける時は、人と人とが触れ合っている時でもあります。テレビ(機械音)はその代わりは出来ないのです。
今治教会機関紙『まぶね』200号(2008年3月)
 我が家には、お正月に4人の子どもの内2人が帰ってきた。電話やLINEでのやりとりはしていたが、体を運んで来てくれた彼らの「声を側で聞ける時」となった。親の声を聴かせるのではなく、むしろ、子の声を聴かせてもらって、彼らの声が「(わたしたち親の)心の中で金の鈴のごとく鳴(った)」。
 保育士を始めて3年目になる次男の声には、何か保護者が先生から助言を受けるような響きがあり、ついこの間まで童謡をようやく歌っていた高1の四男の歌声は、山形の山奥の歌に満ちた全寮制の生活の中で、すっかり脱皮して、青年の輝きを感じさせた。彼らも戻って、新学期。子どもたちと目と目を合わせ、声を聴き合う毎日が始まろうとしている。
12月園だより
アンサンブルって楽しい
クリスマス・イヴにリコーダー・アンサンブル・グループRICOTTAがやってくる。午前中には幼稚園向け、夜は市民向けのコンサートが予定されている。同グループは、すでに、リハーサルのため何度か今治を訪れている。ちょい役のわたしも練習に加わる。
幼稚園や学校で出会った音階を奏でる楽器は、まずハーモニカで、次にソプラノ・リコーダー、そして、中学生になってアルト・リコーダーだった。リコーダーは、小指の短いわたしには少々苦労なのだが、なぜか気に入ってしまう。
高校時代になると、プラスチック製に飽き足らず、メイプル材や紫檀材のまで買い求めた。また、バッハの『無伴奏バイオリン組曲』のリコーダー用編曲版に挑戦したり、ヘンデルの『水上の音楽』の編曲を吹いて、アンサンブルが奏でる音を想像したりした。
初めてアンサンブルをしたのは大学1年生のとき。グリークラブの4年生の先輩がクラッシック・ギターを弾いて、わたしのリコーダーと合わせてくれた。いつもは、合唱練習をするランキンチャペルの舞台で、うっとり……。「あ、ミス、先輩ごめんなさい。」
今回の練習でも、四分音符を八分音符で吹き急いで「ごめんなさい。」でも、息を合わせ、気配を察して自分のパートを吹き、あるいは一緒に吹くのは、とても楽しい。子どもらのクリスマス・ページェントの中にあるのも、このアンサンブルの喜びなのだと気づく。

 

園だより

 11月園だより
今治「めぐみ」幼稚園
今治めぐみ幼稚園の園章をご存知だろうか。円の中に「恵」の字が図案化されたものだ。「恵み」は、一般によく用いられる言葉であるし、名前にもなっている。ただ、キリスト教では、「神さまからの恵み」という意味で、とても大切にしている言葉だ。
有名なゴスペル「アメイジング・グレイス」の「グレイス」は「恵み」のこと。10月31日は498回目の宗教改革記念日だが、改革者たちは、人間は自分の行いによって救われるのでなく、神の「恩寵(めぐみ)ノミ」によって救われることを告白した。
さて、最近、わたしの出身高校の女子の徽章を手に入れた(男女別)。それは「雪持ち笹」で、緑の五枚の笹の葉の上に真っ白な雪が乗っているもの。女性の清らかさとしなやかさを意味する。男子の方は文武両道を示すペンと矛のデザインで、「雪持ち笹」に敵わない。
ただ、男子(旧制高松中学)の校歌(新制後は校友会の歌)の作曲家の方は、不思議な縁で、島崎藤村詞「椰子の実」の作曲をした大中寅二(霊南坂教会のオルガニスト)だと知る。
その子息の作曲家・大中恩(めぐみ)は、従弟で芥川賞作家・阪田寛夫の詞に曲をつけた童謡「サッちゃん」「おなかのへるうた」で有名だ。同志社小学校校歌も作曲、こちらの作詞は谷川俊太郎だ。♪偉い人になるよりも、良い人間になりたいな、同志社小の私たち。

 
10月園だより

また いしょに あそぼね 

 沖縄の友人家族3人がシルバーウィークに愛媛にやって来た。年中のYちゃんは、電話で何度か話したことはあるし、写真も見ていたが、初お目見え。松山空港から空の旅と同じくらいの時間をかけて自動車で我が家へ。ようやくリュックを下して、さあ、夕食。 
 大人は積もる話をしたい。Yちゃんと折り合いのつかないままに、食事を終えると、妻が隣の部屋でYちゃんと遊び始めた。楽しげな声が聞こえてくる。ボードゲームをやっているらしい。こちらは安心して大人の話、でも隣も気になる。気もそぞろに夜は更けた。 
 翌朝、行き先を決めかねて、とりあえず、しまなみ海道の景色を楽しみながらドライブ。その間、大人中心に尾道か、子ども中心にとべ動物園か悩む。大人は諦めきれずに尾道に行ったものの、大渋滞でとんぼ返り。動物園に滑り込むが、すでに「閉店準備中」。 
 それでも、とにかく動物園に来られたことで、Yちゃんは満足のよう。でも、余りにも待たせすぎて、楽しむところまで行かない。「当然だよな」と反省。それでも、ライオンの母子や背高のっぽのキリンに会えて、よかった。 
 この日は道後泊で、朝にはもう沖縄へ。数日後、黒糖羊羹と共に、Yちゃんの手紙が届く。「かみじ いしょにまたあそぼね おきなわにきてね」 美枝さんの方はこうだ。「みえさん まえ いっしょにあそんで たのしかたよ またいしょにあそぼね Yより」
9月園だより
 
字はおもしろい、人はおもしろい
 

「要らない新聞紙をください」そう言われて、慌てて新聞紙を探す。切り抜きのために取り除けたものでないことを確かめて、手渡した。すると、もともとそのつもりでなかった束の中のある面に「くせ字の味は人柄の味」という文章を見つけた。書き手は多摩美大卒の井原奈津子さん。18歳から500人以上を収集し、まねて理解を深めているとのこと。

個性的なフォント(書体データ)は売り買いされている時代、個人的に創造するのには限界があるが、「くせ字」ならば無尽蔵だ。そういえば、札幌で北星学園の高校教師をしていた頃、書道教師で書家の山田聳宇(しょうう)先生が、三悪筆と呼ばれた同僚教師の「書」を臨書しながら、その個性を抽出するのを見て驚いたことを思い出す。

めぐみ幼稚園は、自律性を引き出す自由保育をしているが、そういう保育であればあるほど、背後に、伸縮自在ながらも、カリキュラムがしっかりしていなければならないことを意識している。それゆえ、音楽・絵画造形・体育・遊びなどについてまとめてきたが、「きく・はなす・よむ・かく」については、学校化をおそれて、家庭に委ねて来た感が強い。

夏の園内研修では、「きく・はなす」について、絵本・歌・わらべ歌等の実践を意識化・共有化し、3年間を見通すことに手をつけた。「よむ」についても、日常的に文字に親ませていることを確認した。一方、「かく」は未開拓。幼稚園らしく、個々の字固有の造形(リズミックなフォルム)を意識させつつ導入したい。将来の個性豊かな書家(?)のために。

 

7月園だより


雨の季節はまだつづくけれど

 

こどもたち全体の集まりの時に、「♪かえるのうたが」を輪唱した。こどもたちが、歌い始めると、先生たちが追いかける。途中、こどもはクヮクヮクヮクヮ、先生はグヮグヮグヮグヮグヮ、こどもケロケロケロケロ、先生ゲロゲロゲロゲロ、クヮクヮクヮ、グヮグヮグヮグヮ。どこまでも追いかけてくるがまがえる、あまがえるたちは逃げる逃げる逃げる。

この題名、実は「かえるのうた」ではなく「かえるの合唱」だ。元歌はドイツ語で、「夏の夜通し、かえるの歌が聞こえる。クヮクヮクヮクヮ、ケケケケケケケケ、クヮクヮクヮ。」わたしは「ケロケロ」と思っていたが日本語でもドイツ語同様「ケケケケ」派が多い。

そんな雨の季節には、6月の賛美歌「♪ぱらぱら落ちる 雨よ雨よ」がぴったりだった。「♪ぱらぱらぱらと なぜ落ちる」。「なぜ?」とふと考える。すると、こう続く。「♪かわいた土をやわらかにして きれいな花を咲かすため」。

雨の季節、きれいな花を咲かすのはあじさい。そして、あじさいにぴったりなのがカタツムリだ。「♪でんでんむしむしカタツムリ お前のあたまはどこにある」。そう! 殻に閉じこもって動かないのが、「角出せ、槍出せ、あたま出せ」に応えて、あたまを出す。

あたまを出しても、まだ見えないものがある。「♪でんでんむしむしカタツムリ お前の目だまはどこにある」。子どもたちが、「角出せ、槍出せ、目だま出せ」と待ちわびていると、じわっと目玉を突き出して、動き出す。そんな姿を子どもたちがクレヨンで写し取る。

 

6月園だより

♪耳をすまして風を聴く


 鯉のぼりの季節が終わろうとしている。風を感じる季節だった。風を受けて気持ちよさそうに泳ぐ鯉のぼりをもう少し観ていたい。子どもの教会では、この季節、凧揚げや紙飛行機飛ばしをする。やはり風を感じるためだ。

風がないと、鯉のぼりも、凧も元気が出ない。実は、人間も同じである。神さまからの風=聖霊(せいれい)を受けて、のびのびとこの世を泳いで行くのだ。その風は強ければいいわけではない。優しく、時には厳しく、愛情のこもった風が人を生かす。

先月も紹介したカトリック神父塩田泉さんの賛美歌集の中に、今時にぴったりの歌「生きる」を見つけて、子どもらと歌っている。余り音程の上下のない楽譜には、「ゆったり委ねて」と指示があって、幼子らにはどうだろうと思っていたが……。

♪耳をすまして風を聴く 神ののぞみを受けとめて

目をこらし風を観る 聖霊のながれ見つめつつ

耳に手を当て「風を聴き」、二本指で向こうを「見つめる」と子どもたちの歌に魂がこもる。

伴奏は、ギターのような沖縄出身の楽器「奏生(カナイ)」だ。以前保護者講演会で来園した「オマチマン」からプレゼントされたもの。小さな指ピックをつけて、一節ごとにCGCG(後半はオクターヴ上)と間奏を入れる。歌とともに子どもたちの心と体も動き出す。

5月園だより


♪キリストの平和が

 
 4月が終わる。こどもたちのあの声も聞けなくなる。「しがつのせいく:しゅイエス・キリストのめぐみとへいわが、あなたがたにあるように。」実は、その聖句に合わせて歌ってきたのが「♪キリストの平和」である。「♪キリストのへいわが、わたしたちのこころのすみずみにまでいきわたりますように」カトリック神父塩田泉さんが学生の頃の作だ。

氏は、その後も、シンプルでやさしい言葉とメロディーの歌を作り続けておられる。昨年以前より在園の方なら、昨年のクリスマス・ページェントの「天使の(マリアへの)お告げ」のところで歌われた賛美歌をご記憶だろうか。あれも、塩田さんのもの。「♪めぐみあふれるマリア、主はあなたとともにおられます 主はあなたをえらび、祝福されました」

さて、「♪キリストの平和」は少々抽象的かなと思い、手話つきで紹介した。「♪キリスト(両掌に釘跡を残す主)の平和(自分の両掌で握手してぐるっと輪を描く)がわたしたちの心の隅々にまで(左手で前を囲んだ内側に右人差し指を上から下へ動かす)ゆきわたります(畳んだ腕を伸ばしながらそろえた指を開いて行く)ように(お祈りの組み手)」

すると、子どもたちは、文字通り、心の隅々にまで行きわたる様に、この歌を自分のものとして行った。ことばを、手の形と表情と共に吸い取るのだ。改めて知る。子どもたちが言葉を獲得して行くのはこんな風であることを。彼らは言葉がどんな気持ちを載せているかを受け取っている。今日も、神々しい顔つきで、あの歌の手話を反芻する子どもたち。

4月園だより
 
はじまり、はじまり
 

 東京町田の「しぜんの国保育園」で保育士3年目の次男・足日(何と読むでしょう?)が、初めて担任となった。3歳児クラスだ。これまで、副担任としてやってきた時とは違って、苦戦している。もっとも、同僚の経験豊かな副担任に助けられているのだが……。

 足日は言う。「やっぱり違うね……」、「どこが」とわたし。結局、ベテランは、子どもたち一人一人の性格や、その日園に来た時の様子を踏まえつつ、クラス全体としての動きを予測して、必要な声掛けや、援助をしているらしい。

 でも、わたしはひとりごつ。「君も、自作の大紙芝居(オリジナルストーリー)等でがんばってるよ。」つい先日は、「(いわさき)ちひろ美術館」で開催中の「聖コージズキンの誘惑展(スズキコージ絵本原画)」に行って、再び創作意欲を燃やしているようだし……。

 「めぐみ幼稚園」も、「ゆうこ先生」「ともこ先生」を送り出し、「ゆづき先生(経験1年)」「ちあき先生(新卒)」「たえ先生(事務室)」を迎える。それぞれ、「めぐみ」の新人だが、個性豊かなスタッフであり、得意を伸ばしつつ成長することを楽しみにしている。

どうか、彼らとベテラン・スタッフで歩み出す、新しい「めぐみ」をよろしくお願いします。これまで通り、子ども・保護者・スタッフが「共に育つ」中で、「やわらかに」「のびやかに」「あわてず」、まだ見ぬストーリーを紡いで行きましょう。はじまり、はじまり。

3月園だより
 

森永ハイクラウン50年に寄せて

 

 「ロダの会」で絵本や物語を紹介し合う中に、『白鳥とくらした子』(原著1938年)があった。作・絵はシシリー・メアリー・バーカー、『花の妖精』シリーズで有名である。わたしがそれを知っているのは、幼い頃食べた「森永ハイクラウンチョコ」に彼女の『花の妖精』カードが1枚ずつ入っていて、いつも楽しみにしていたからだ。

わたしが卒園を迎えた1964年、普通のアイスクリームが10円、病気の時にようやく30円のアイスを買って貰えた時代に、パッケージも美しく登場した「ハイクラウン」は70円もしていた。なぜこんなぜいたくを……と思われるかもしれないが、実は、父がパチンコのおみやげ(景品)に、家族サービスで、このチョコを選んでくれたのだ(と思っている)。

さて、『白鳥とくらした子』では、女の子の父親が金稼ぎに航海に出る。彼女は留守世話役の家政婦に蔑にされながらも、かつて父が助けた白鳥たちに守られて成長する。何年も経って下船した父は、稼いだ金を人助けで服一枚と交換してしまっていた(実は不思議な服)。そして再会。非を詫びた家政婦は娘の父に赦され、三人は支え合って生きて行く。

父親は、先には、娘のためを思って、結局、娘を置き去りにしてしまった。しかし、今度は、娘のことを顧みずに人助けをして、却って、娘に大切な物を得た。思えば、彼がいない間娘を助けてくれたのも、彼がかつて目の前で苦しんでいるのを助けた白鳥であった。ためにすることはためにならず、ためにしないことがためになる。子育てはこういうもの。

 2月園だより
 
ゆめでなわとびをする
 

 今治キリスト教会の元旦礼拝に、恒例の成人祝福式を行った。時間をつくって4人(10日後にもう一人)の卒園児が来てくれた。その際のプレゼントは、ここの所、エリナー・ファージョン作『マローンおばさん』の小型絵本(絵:エドワード・アーディゾーニ)だ。

 ファージョンは、物語の名手、『ムギと王さま』で第1回国際アンデルセン賞を授与されている。そんなファージョンに『エルシー・ドピック、ゆめでなわとびをする』がある。こちらは、シャーロット・ヴォークの水彩画が物語世界を映し出す、大型絵本である。

なわとび上手の少女、エルシーの評判がケーバーン山のフェアリーたちに届く。エルシーは、なわとび師匠アンディ・スパンディから三日月の晩ごとに、なわとびの秘術を教えてもらうことになる。驚くべきエルシー!そして、ケーバーン山はなわとびの聖地に。

やがて、その小さなとびなわが体に合わなくなると、その秘術も出来なくなる。彼女の評判は記憶の底に眠って行く。ここまでが前半。ふと、幼き我が子たちの披露してくれた秘術の数々を思い出す。今は、少々得意だが、普通の青年・少年だ。

物語後半は、ケーバーン山が新しい地主によって開発されようとする危機から始まる。ここで筋を語ってしまうのはNGだろう。ただ、普通のように見える我が子たちの中に、眠っているようだけれどエルシー・ドピックは生きているという読後感のみ記しておこう。

 
1月園だより

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」−1月の聖句より  伝道師 松田直樹

私は説教等でよく幼稚園のネタを使わせてもらっているが、その時、「こども」とか「こどもたち」という言葉を使う。説教で名前を出すわけにもいかず、ある種、便利な代名詞として用いているのだ。しかし、「こども」なるこどもがいるだろうか?
 実のところ、私にとっても「こども」は「こども」でしかなかった。だが、こどもたちと過ごすうちに、とりわけ、給食を共に食べるなど一緒に過ごすことの多いほし組の「こども」の名前は自然と覚えてくる。最初は似たよう顔に思えて見分けがつかなかった「こどもたち」も、気がつけばどう頑張っても見間違えようがなくなってしまう。そうなれば、自然と、漠然とした「こどもたち」ではすまなくなる。
 一月の聖句には共に座っている「兄弟」の姿が描かれている。この「兄弟」になるということは、つまり、そういうことではないだろうか。誰でもいい誰かでも、どうでもいい誰かでもない、その子でなければならないその子として愛する。それも、この「世」に産み落とされて「生きる」と言う同じ運命を背負った兄弟として。
 しかし、私たちは祝福された。兄弟と共に座っている今は、その恵みと喜びを祝し、心行くまで遊ぶための時なのだ。神は「兄弟」を祝し、その時を与えて下さった。「こども」と接する時、「こども」と話すとき、「こども」と遊ぶ時、そのような兄弟として接し、兄弟として話し、兄弟として遊ぶことができたら、それは「なんという恵み、なんという喜び」だろうと思う。


12月園だより
 

クリスマスの香り

 

 クリスマスを待つ季節(待降節=アドヴェント)になると、キリスト教会ではアドヴェントクランツの4本のろうそくに毎週一つずつ点灯して行く。全てのろうそくに灯が点ると、クリスマスは目の前だ。今年も、1130日のアドヴェント第1日曜に向けて、前日29日に点灯式を行う。併せて、イルミネーションに光が踊る。
 わたしが記憶しているアドヴェントクランツは、ヒノキの葉に赤い実の付いたセイヨウヒイラギの葉を加えてドーナツ型に作ったものだ。青い葉が放つ生命の香りが、記憶に残る。今治教会では、クランツと別に、藤田司先生が、毎年、大きなクリスマス・リース作りに工夫を凝らす。時が来ると、先生は香りに包まれつつ、リースを礼拝堂入口に提げる。
 嗅覚は、「過去を呼び起こす桁外れの能力を備えている。」「それが何の匂いか、嗅いだときの情景はどうだったのか、その時にどのような感情を覚えたかなどを次々と喚起させる」(樺山紘一編『歴史学事典第2巻』)。ツーンと鼻を突く冷気の匂い、木の葉の香り、そして、燻るろうそくの香り、その全てがクリスマスの到来を告げる。
 子どもたちに、自然と暮らしの中にある、様々な香りのプレゼントをしてみては? クリスマス・リースを一緒に作ってみるとか……。きっと、子どもたちの嗅覚を通して、消えることのない思い出が刻まれることだろう。そうそう、本当のヒイラギは、同じ葉形ながら、実の方は紫。ただし、アドヴェントに咲く白い花は、素敵な香りを放つ。


11月園だより


キンダーガートゥナーズ

 
 9月の終わりに、ドイツ・ミュンスターから二人の御嬢さんが今治教会・めぐみ幼稚園を訪れた。東京から福岡まで、(さらに韓国の仁川まで)の自転車旅行の途中で立ち寄ってくれたのだ。四国八十八カ所巡りではないが、教会を宿にしての長旅の一期一会である。
 食事を共にしつつ、わたしたち家族は、眼鏡をかけた活発なミリヤと、長い髪の物静かなハンナと会話を楽しんだ。ただ、ミリヤが「何人のキンダーガートゥナーがいるの?」と問うたのに対して、わたしが「110名ほど」と答えると、不可解そうな顔をした。
 話の流れで、教諭の数のことかと思い当たったので訂正した。かの語には「幼稚園児;教諭」双方の意味があった。園児の場合が「幼稚園のメンバー」ほどの意味なのに対して、教諭の場合は、語源に即して「子どもの園の園丁(ガーデナー)」である。
 ガーデナーは、庭園の造作・維持・管理などの関わり、植物学的知識を持つ専門家。であれば、わたしたち「キンダーガートゥナー」の役割を改めて思う。ただ、その庭は、拘束性の高いフレンチガーデンではなく、より自然なイングリッシュガーデンだろう。
 新年度より、国の子ども・子育て支援新制度が始まる。長年目指されていた幼保一元化が、複線(=一体化)の形で実現する。5歳児については、小学校準備教育的側面が強調されるが、むしろキンダーガートゥンならではの教育のひとつの到達点として充実させたい。


 10
月園だより


「キハ」の疾走

 
 「鉄ちゃん(鉄道ファン)」を自認するチャプレンの松田直樹せんせいは、子どもをわきに抱え、あるいは「お姫様抱っこ」して、砂煙を上げながら園庭を疾走する。ああ、これは「キハ」だ、と思わずひとりごちる。「キハ」とは、鉄道の車両についている記号で、「キ」は制御車(運転台)付きディーゼル車、「ハ」は普通車(イロハの一番下)を示す。

 なぜ、「クモロ」、すなわち、制御車付き電車(クモ)のグリーン車(ロ)ではないか。「なおき号」は、どう考えても架線から得た電気でモーター動かし、静かに走る電車ではなく、軽油を飲み込んでガガガーと唸りつつ走るディーゼル車からだ。その乗り心地もグリーン車ではなく普通車だ。でも、子どもたちは、「キハ」を「キイ(特等車)」のように愛す。

 実は、昔から「キハ」という呼び名は知っていた。でも、それが何であるかを積極的に調べようと思ったことはない。ところが、以前、教会&園のバザーで手に入れた古本で、小学生向けの絵本『算数と理科の本8 記号のなぞとき』の中の「機関車・電車の記号」の頁を開いたら、出てきた。列車の記号の分類がわかると、とたんに親しみが湧いてきた。

 ところで、その際購入した、同シリーズの第17巻最終頁に、これらの本の持ち主であった子どもの字で、「○こんどかう本」「□かった本」「△この本の名まえ」とあった。漢字の使い方から、おそらく小学校低学年。ちゃんと分類して、これらの本を愛読しているのが分かる。今42歳頃の彼(女)は、どんな大人になっているのだろう。

9月園長だより


虫眼とアニ眼

 
 めぐみ幼稚園の先輩教師・白石美恵子先生から文庫本をいただいた。養老孟司・宮崎駿著『虫眼とアニ眼』だ。最初の20頁ほどは宮崎駿の文とカラーのイラストで、いきなり宮崎ワールドとなる。「ぼくの知りあいに 虫眼を持つ少年がいる。絶滅危惧種のメダカだってわけなく 見つけてしまうのだ。ぼくだって子供の頃は持っていたはずなんだが……」

 今では子供までも虫眼を失いかけている。そこで宮崎は、「家をかえよう 町をかえよう 子供達に空間と時間を!!」と気炎を上げる。まるで『紅の豚』の主人公「ポルコ」のように。そこで「まず」考えたのは、「町のいちばんいい所に子供達のための保育園(幼稚園もかねる)を!」ということ。園が「まず最初」というのが、何とも、いいではないか。

 「子供達が夢中で遊べる所。地域の子供なら、誰でも入れる所。木や土、水と火、いきものと触れる所。子供達が家へ帰りたがらない保育園をつくる!!」「大人が手と口を出さなければ子供達はすぐ元気になる!!」園の地続きにはホスピス、そこに子供達が侵入する。広場は、ただの原っぱ。なんとなくあいている空地。

周りに拡がる町の名は「イーハトーブ」。宮澤賢治の心の中に在る理想郷の名だ。街並みも、家々も造り込みすぎず、それでいて、不思議な調和がとれている。そこには、自由な成長を保証する「設計図」がある。それは、50年前、小さく塀もない幼稚園で、虫や小さな魚を追いかける僕をそのまま受け留めてくれた先生たちの「心」の中にもあったものだ。

7月園長だより

木々のいのち、木々の心を生かして

 
 先日、出来立てほやほやの本が「謹呈」の栞と共に送られてきた。『木霊 百年生きる木造建築』である。その表表紙には、後ろ手に森の木々を見て歩く白い顎鬚を蓄えた紳士、裏表紙は、両手を添えて立派な木を見上げる働き人が写る。帯にはこう書かれている。「こんな大工が、こんな建築家が、とことん議論を闘わしながら、正直な家づくりを続ける…。」

 「こんな建築家」というのが、この本の著者であり、わたしの前任教会の会員である村尾欣一さんだ。居心地のいいご自宅には多くの人々が集う。多様な樹々により「織り上げ」られた森、「こまくさ保育園」(お連れ合いが園長)には幼子が自由に遊び、新潟市プロテスタント教会公園墓地に建てられた納骨堂の柔らかな光の中には平安な眠りがあった。
 一方、「こんな大工」とは、村尾さんの教え子であり、家づくりのパートナー小川正樹さん。西岡常一の唯一の内弟子で薬師寺西塔の再建に携わった宮大工棟梁・小川三夫から自宅の建築を任されるほどの職人だ。
 本の表紙を見た瞬間、教会納骨堂建築の施主として、二人に誘われ、根曲り杉を切り出したばかりの山に、雪を踏みしめ分け入ったことを思い出した。それは、伐採という死の現場でありながら、新しい生への変成の場でもあった。そうなりえたのは、立ち木が、単なる木材になるのではなく、その個性を生かされて新しいいのちの一部となっていくからだ。
 わたしたちの子育ても、根曲りの個性的な杉を、扱いやすい建材へと均質化してしまうのでなく、厄介だけれどかけがえのない役を担う素晴らしい柱にしていくものでありたい。それが木々(子どもら)のいのち、その心に応えることだ。

6月園長だより

息子たちを訪ねて


 日曜朝礼拝を終えると、東京出張に出かけた。新横浜から横浜線に乗り換え、JR町田駅着、6時間の旅の後、東京在住の3人の息子たちと夕食を共にする。長男が大学生だったころバイトをしていた醤油料理・天忠。味に間違いがないので、安心して会話を楽しんだ。

その夜、次男と三男がシェアするアパート泊。学生の三男は、授業準備が大変だと、奥の部屋へ籠る。保育士の次男も机に着いて、園のバザーに出品するための作品づくりの続きを始めた。小学校の頃手に入れたスズキコージの絵本原画が作業を眺めている。

レースの縁取りが施された段ボール素材の手作りキャンバスには、青空と雲とが配されている。そこに、白い厚紙を立体に組んで、いくつもの雲を浮かばせるらしい。静かに鋏の音が響く。こんなに手間暇かけても、「1,000円くらいで売れたらいいな」とのこと。

月曜は、早朝から満員の小田急電車に揺られ、中央線に乗り換えてお茶の水で降り、夕方まで、キリスト教保育連盟総会と学習会。「子ども・子育て支援新制度」についての講師は新制度の委員とやらで、「まだ公にできないこともある」と歯切れが悪い。

 夕方、日曜に体育主任として運動会を終えたばかりの長男とデート。乞われて、小学校の同僚教師と楽しむための新しいギターを見たてる。買ってくださいと主張していた手ごろな一本を購入し、1DKマンションへ。さっそくいじり始めた。ほっとして眠りに就く。

5月園長だより

子どもの日に寄せて

 
 ある休日、田畑の続く郊外に車を走らせた。ソメイヨシノは八重桜に主役を譲り、道々、藤や桐の紫色が目を引く。そんな中、集落のところどころ、五月の節句のこいのぼりが、薫風に泳いでいる。一軒一軒に、家族の愛情を一杯に受けている子どものいることが想像され、心が温かくなった。

 節句と言えば、わたしたち夫婦は、道後を訪れると一刀彫「南雲」のお店に立ち寄る。そこに置いてある「桃太郎の誕生」を見るたび手が伸びて、でも、値札を見て、手を引っ込める。もっとも、夫婦のマイブームは、もっと一般的な(安価な!)、しかし、伝統的ないわれを持ち、人情のある「民藝」品の方である。

 わたしが一時育った高松には、赤い着衣の「奉公さん」がある。「病を得たお姫様の病を、身に移しうけ、お姫さま全快の祈願をこめて、海のかなたの離れ島に流し人となり、短い一生をおえたおマキ」の記憶を宿す人形だ。以来、奉公人形は子どもの病を身に受けて海に流されつつ、彼らの病を癒してきた。十字架上に人々の罪を引き受けたキリストに似る。

最近、妻が教えてくれたのは、京都・伏見人形の「饅頭喰い」。「両親のどちらが大事かと聞かれた子供が、手に持っていた饅頭をふたつに割り、どちらが美味いかと問い返した」という説話に基づくもので、この人形を飾ると子どもたちが賢く育つらしい。もっとも、飾るのは賢く育てるためでなく、こんな子どもの賢さに目を瞠り、親業を深めていくためなのかも知れない。


 4月園長だより


桜の木とともに子どもたちを迎え、送り出し

 

 桜の花がほころび始めた3月の終わり、歴任幼稚園スタッフも大勢迎えて、めぐみ幼稚園の60年をお祝いする会を持った。卒園したばかりの子どもたちの歌に、ここで育った数えきれない子どもたちの面影を追う。98歳となられた第二代園長・上野光隆牧師も、京都から駆けつけて、祝福の祈りをささげてくださった。

 集まった人々の中に、一輪、あでやかな、桜色の和服姿があった。30年程前まで主任をつとめてくださった川添先生だ。昨年怪我をされながら、『記念誌(未発行)』のために、園庭で春を彩っていた桜の古木に寄せる一文を届けてくださった。漸く癒えられたら、今度は病で倒れられた。集いへの出席も危ぶまれた。……そして、春。桜は咲いた。

あれは風の冷たい二月ごろの事だったと思います。年長組の子どもたちが桜の太い幹の周りにイーゼルを立ててこの木を描くことになったのです。子どもたちはめいめいその幹にさわって、「固いな」、「どこに花が入っているのかな」などといいながら、鉛筆で描き始めたのでした。春には新しい芽が吹き、やがて蕾が出来てきて花が咲くのだよ、などと口々にいいながら、寒さも忘れて描いていました。……あのころ、桜の古木は画材としては幼児たちには難しいと思ったのですが、出来上がった作品はそれぞれ見事なものでした。子どもたちの真剣なまなざしや、鋭い表現力に圧倒されたことをいまもあざやかに思い出します。そして、あの門の桜が、成長した幼児一人一人の胸の奥にいつまでも残っていると信じています。

川添綾子「刻の宴」より

月 園長だより

ド、

 先日、神谷徹さんがストロー笛で、多彩な演奏をしてくださった。長さの違うストロー、形の違うストロー、それは虫になり、動物になり、ボールになり、ロケットとなり飛んで行った。リコーダーのように指孔を開けて音の高さを変えるものもあれば、トロンボーンのように管の長さを変えて音程を変えるものもある。
 先が完全には読めないのがわくわくするリトミックと似て、創り出される音の意外性、時には失敗する(けれどそれを工夫で成功へと導く)手作り感に、聴き手は、聴いているというより、演奏者と一緒になって音を楽しんだ。にんじんトロンボーン作りの実演でも、「ほんとうにうまくいくのかな」……はらはらしながら見守ると……「鳴った!」
 どの一つも同じ音色はない。昔読んだ武満徹の言葉を思い出した。「音というのは生命と同じように多様で、たとえばド・レ・ミ・ファ・ソのドの音にしてもフルートの吹く音とオーボエが吹く音とでは性格がぜんぜん違う。……一つの音には測り知れないほどの夾雑物があると考えている。そうじゃないとその音を具体的な音として支えることができない。」
 「測り知れないほどの夾雑物」とは、わたしたち人間の「ひみつ」「ふしぎ」だ。兄弟姉妹で、似た遺伝子、似た生活環境を持ちながらも、誰一人同じ子がいないように、それぞれが異なった潜在的可能性を持ち、その子ならではの経験をして成長している。「その子にしか出せない音」を支える「夾雑物」を、美しくも不完全に結晶させながら。


2月 園長だより


鬼はそと!

 

 たまたま新月で始まった新しい年も、満ち欠けする月に導かれながら、新月に戻った。今日は、太陰太陽暦の元旦である。そして、まもなく節分がやってくる。鬼がやってくる……わけではなく、やってくる鬼を払うのだが……。
 この季節が巡って来るたびに思い出すのは、息子たちの保育園での節分行事である。時には、「バリン!」、ガラス戸を壊して鬼が侵入してくる(あまりに迫真の演技で、勢いの余り割ってしまったのであるが、観ている方にすれば、ただごとでない)。
ある年の「豆まき」、元気のいい響(長男・ひびき)が、代表して鬼に立ちはだかる。鬼は、「俺たちの国へ行くか?」と問う。響は「いいよ」と答える。するとと、ぐいぐいぐいと本当につれて行かれそうになった。響の顔がこわばる。
 やりとりを「ひとごと」として観ていた他の子どもたちも固まる。それを観ていた足日(次男・たるひ)は、固まる域を超えた。不安と怖ろしさにくしゃくしゃとなった顔の奥から、怒りの形相で鬼を睨む。後ずさりしながらも、兄を救おうと、懸命に豆を投げた。
 そんな弟を、兄は今も(精神的に)頼りにしている。鬼に勝つだけの力があるからではなく、そんな鬼にでも我を忘れて立ち向かってくれる奴だから。足日は、勤め始めた「しぜんの国保育園(町田市)」で、鬼の役をやると言う。今、その準備に余念がない。


月 園長だより

かぐや姫の物語


 我が家では、子どもたちへのクリスマス・プレゼントに本を一冊買うことにしている。ファッションの世界を目指す三男のために選んだのは『デッサン・ド・モード 美しい人を描く』で、長沢節の書いた本の新装版だった。1917年に生まれ、1999年に既に亡くなっている長沢の、古びることのないデッサンは、彼のことを何も知らないわたしの目を止めた。
 ところで、子どものための買い物なのだが、自分の本も一冊買った。和風の装丁が美しい『月のこよみ2014』で、天文関係の出版社から出ているものだ。そこで2014年が月齢0.0から始まる珍しい年であることを発見。この本、毎月の星空も載っていて、天空を黄色い月が満ち欠けしながら、空色の天の川を横切り、赤い軌道を巡っている。
 正月4日、上の二人の息子が仕事のため帰京した夜、「月」を題材にした映画『かぐや姫の物語』を家族4人で観た。テーマもさることながら、監督の高畑勲が、極力余計な線を排し、日本の絵巻物の手法を活かして作っているのが、実際どう映るのか気になっていた。果たして、スクリーン上には、まるで紙の手ざわりの画が、生き生きと動いていた。
 はっとさせられた。長沢節の服飾デッサンも、『月のこよみ』のデザインも、高畑勲の映像も、こまごまと書き込んだり、べったり塗り込んだりしていない。色も最小限のものに抑えられている。その分、わたしたち見る側の想像力を引き出してくれる。わたしたちの子育ても、そんなものでありたい。8日の今宵は、完全な半月である。虚心に見上げよう。


12月 園長だより
 

伝えたい・聴き取りたい・感じたい……それだけで

子どもの教会では、1124日の日曜日、礼拝の後、いつもガリラヤ館の2階で礼拝をしている東洋ローア・キリスト伝道教会と交流した。「手の言葉」を使われる方々とコミュニケーションするということで、予め、指文字での自己紹介や手話賛美の練習をして備えた。
 その日、どきどきしながら、会場である牧師室に集まった。しかし、相手方は積極的に手話で話しかけてくださり、こちらもおそるおそる、合っているか合っていないか、自身のない身振り手振りで応じると、気持ちが通い始めた。
 そのうち、筆談をも交えながら、とにかく、伝えたい、聴き取りたい、感じたい、ただそれだけだったのだが、気まずい間が生まれる余地もなく、会話が続いていった。そのうち、互いに立ち上がったり、目を大きく見開いたり……ちょっとした祝宴となった。
 子どもたちは手話賛美を披露した。その後、何名かが覚えたての指文字自己紹介をしたら、ローアの方々が「こうも表現できる」と、○月ちゃんの「月」は三日月の形とか、藤○ちゃんの「藤」は藤棚から下がる藤の花の形とか教えてくれた。
 すると、不思議、ふしぎ、その子の名前が、生き生きと立ち上がった。「手の言葉」が、こうして、存在感豊かに、ぼくたちの目の前に現れた。今度、お会いする時には、習いたての「こんにちは」で、「可愛く」挨拶できると思うと、今からわくわくする。


11月 園長だより

ことばが生まれる朝

 わたしは、「あさ」をテーマとした絵本を二冊持っている。一冊目は、ずっと昔に購入したユリー・シュルヴィッツのDAWN(第5刷1986、初版1974)だ。頁をめくると、山間の湖の、静かなしずかな夜明けに、いつ間にか、入り込む。息子たちにも読み聞かせた。その後、『よあけ』として、瀬田貞二訳(1977)で福音館書店からも出ていることを知る。
この度手に入れたもう一冊は、絵・井沢洋二/文・舟越カンナ『あさ One morning』(1985)である。たまたま、新潟教会時代の知人の眼科医で、夫をガンで亡くしてから京都に戻り、日本バプテスト病院ホスピス・ボランティアをしている橘俟子さんが、母上の1年を記念してくださった末盛千枝子(父上は彫刻家・舟越保武)の本を通して出会った。
この本は、末盛千枝子が夫を亡くした後、小さい子どもを育てながら取り組んだ絵本プロデュースの仕事から生まれた一冊だ。街中のありふれた日常の朝。しかし、ここにも、色、音、香り、うごき、静寂があって、その全てが愛おしい。絵には、千枝子の20歳離れた妹によって、過不足ない短い言葉が添えられた。そのセンスの秘密は次の通りだ。
「末の妹によく絵本をよんでやることがあったんです。父の所に出入りしていた出版社の方が見せて下さった外国の絵本が、絵も言葉もとても美しくて、この世にこんなに美しいものがあったのかと驚きました。……末の妹は話し始めるのがとても遅かったのですが、ある日突然、私が読んでやっていた絵本の言葉をしゃべりだしたんです。カイコが糸を吐き出すみたいに。それは『ある日お庭に小鳥が来てね、つっぴん、つっぴん鳴いてたよ』というとても綺麗な歌でした。」


10月 園長だより

 

子どもたちと「お月見」をしましたか?


  「919日は何の日?」「仲秋の名月」、「お月見をした人?」「見たよ」「……」、「お団子を食べた人」「お団子?」「……」、「ススキを取ってきた人」「……」「……」。実際に子どもに質問したわけではない。でも何人かのお母さんから聞いたところでは、こんな感じだ。
我が家は、その夜、突如思いついて、久しぶりに「お月見」をした。怜の大好きな松田直樹先生も呼んで。妻は有り合わせのうるち米の粉で団子を茹で(餡子も添え)、近くのススキを刈って花瓶に活けた。庭に木のベンチを出して、木の折りたたみ椅子を拡げた。
空は前日ほどクリアでなかったが、満月はそこそこの位置まで上がっている。それを、電線が邪魔をする。街中での月見は無粋だ……としばらく月を眺めていると、やがて、白いまん丸の月は、電線にかかる。今度は、次の電線との間に入る。「ミだ!」「ファだ!」
そうなると、一句ひねり出したくなった。というのも、札幌時代、まだ小さかった息子(2人!)と、住んでいたマンションの中庭から満月を見上げながら、句会でもないが、共に一句をひねり出そうとして、互いの陳腐な句に笑い合ったことを思い出したからだ。
今年の作は、「満月や 空の五線譜かけあがり」。あの日の満月を見上げた次男(保育士)に電話で「どういう光景を詠んだ句かわかる?」と聞いたら、苦笑しながら、一応分かってくれたが、やっぱり陳腐だ。「満月符(=全音符)」に替えると……くどいか……
   風流とはとても言えない「お月見」だったが、何かゆっくりした時間が過ごせた。怜と松田先生は、砕石の庭(駐車場)に仲よく這いつくばって、石の間からたくましく生え出たドクダミを臭っている。いつの間にか、満月符は、五線を抜け出て輝いていた。

 
9月 園長だより

飛ぶ蚊、走るゴキブリ、歩く人間、一番速いのは?

2学期に向けて、二日にわたって園内研修をした。『実践記録集』のための発表、運動会のイメージ作り、一学期の振り返り、二学期の当面の予定。子どもたちを育てるための課題は山積、難しい顔も、時には涙も。しかし、互いのユーモアの中で笑顔がこぼれる。
だから、というわけでもないが、二日目の最初に、わたしが出したクイズは、蚊とゴキブリと人間、一番速いのは?というものだ。何人かに答えてもらったが正答者はいなかった。ここで、先を読むのをやめて、どれが一番か考えてほしい。答えは最後に記しておく。
ネタ本は、京都の恵文社一乗寺店の書棚で出会った、松田行正編『1000億分の1の太陽系+400万分の1の光速』。太陽系の半径、50天文単位(太陽と地球の距離の50倍=75億?)を1000億分の1のスケール(600頁=7500?=75m)に縮めて表現したものだ。
これを繰っていると、改めて地球と太陽の近さを感じる。また、太陽系で最も遠い海王星でも全太陽系の6割の位置でしかなく、その先4割をなお太陽の作用圏にあることが分かる。ふと、幼いころの子どもとの関わりが、その子の生涯を支える光となることを思う。
編者は、光が1秒間に進む距離30万?を400万分の1にして、同じ頁数の中に表現した。水星を少し過ぎたところに、蚊の飛行速度69?/秒が出てくる。その後、金星さらに地球を過ぎたところに、人間の歩行速度とゴキブリの速度が1.5m/秒で、仲よく登場する。
   皆さんは正しく答えられただろうか。わたしたちの想像と、実際とは一致しない。だから、わたしたちの基準で子どもを測るのでなく、子どもが何を思い、どうふるまっているかを注意深く観察して、彼らに寄り添いたい。そこから新たな出会いが始まる。

7月 園長だより

青い鳥を探して歩くと……
 
3月のこの欄に、「ふぞろいな石ころたち」という一文を書いた。小説『二十四の瞳』の「岬の分教場」を訪ねたときに拾ったペンギンの風体の石のことを紹介したのだ。それがきっかけで、ロダの会6月例会では、「石ころ探し」に行こうということになった。
わたしはロダの会参加者(幼稚園のお母さんや同OB)の期待を背負って、事前に蒼社川沿い、桜井海岸等、近場のあちらこちら探索したが、「いい」場所がなく、結局、集会の拠点として都合の良いサンライズ糸山の海岸で石拾いをすることにした。
そこは、あのペンギン石のような「いい」石ころがふんだんにある場所ではなかったが、それゆえかえって、部屋に戻ってのプレゼンでは、各々、ありふれた石一個の美しさを知らせたり、人間や動物に「見立て」たり、組み合わせの妙を紹介したりしたのだった。
特に興味深かったのは、石ころを数個集めて家族に「見立て」た人が複数いたことだ。わたしは椅子のような形のこぶし大の石を見つけ、その上に何かを座らせようと思いついた。そこに顔のように見える石を載せると、不思議な味わいが出てきた。
メーテルリンクの『青い鳥』ではないが、幸福の象徴である青い鳥は、結局のところ自分達に最も手近なところにあるのである。それは、既に「在る」ものを見直すことにより、また、周りとのつながりの中に、「いい」を超えて見出される。子どもたちも同じだ。

6月 園長だより

雨は高いところから「ぱらぱら落ちる」

♪ぱらぱら落ちる雨よ、雨よ〜。小さいころから数えきれないほど歌ってきた賛美歌だ。「ぱらぱら」の「ぱ」は「上のド」。「落ちる」の「る」は「下のド」、印象的な下降音階が、1節では雨、2節では雪が天(そら)から落ちてくるのを表現する。
雨は、「乾いた土を柔らかにして、きれいな花を咲かすため」。雪は、「葉のない枝に暖かそうな、真綿の服を着せるため」。3節の星は、「旅する人が暗い夜にも、迷わず道を行けるため」。4節の鳥は、「きれいな歌で世界の人に、み神の愛を知らすため」。
賛美歌で必出と言える「神」の語は、この歌では、最後の最後に出てくるだけだ。これだって、種明かしのように「神」を使わず、1〜3節に倣って、「生きる喜び知らすため」でもいい。それでも、その背後に、わたしたちが表現しきれない存在を感じ取れる。
全節、前半は「なぜ落ちる?」「なぜ光る?」「なぜ歌う?」と問いかけ、後半は「〜(する)ため」と答える掛け合いになっている。わたしたちも童心に帰って、わたしたちが生きている世界に心を開いてみよう。問いかけてみよう。彼らはきっと応えてくれる。
最後に、この歌を伴奏なしで口ずさむなら、最初の「上のド」を高くとろう。天から落ちてくるのだから。そうしないと、「落ちる」雨や雪は地下に潜ってしまい、「る」に点々をつけたように泥まみれに――それもいいが(笑)。子どもと一緒に是非歌ってみてほしい。

5月 園長だより
 
朝の見守り役
 
めぐみの朝は早い。バスの運転手は6時半にはもう来ている。7時15分には早番の先生を乗せた1便バスが出発する。わたしは遅番の先生と共に、7時50分から朝のお祈りの時間を持つ。その日の司会が、「さんびか」をリードし、「大きな声で、ハレルヤ!」。聖句を暗誦し、その日の保育とバスの安全を祈る。簡単な打ち合わせをして、8時には終わる。
子どもたちもぼつぼつ集まり始める。大型バスの1便が帰ってくると、幼稚園は少しずつにぎやかに。今年は、先生たちがバスに添乗して、教室が手薄になる時間帯の見守りにわたしも加わらせてもらっている。時には、教会の方の打ち合わせが始まる9時半(バスの最終便が到着する直前)ぎりぎりまで見守って(遊んでもらって?)いる時もある。
シール帳にシールを貼り、連絡ノート類を出し、タオルをかけ、コップと歯ブラシと水筒を置き、リュックと手提げと帽子を掛け……上靴も忘れず履いて、漸く、最初の作業が終わる。そこからは、一人で、また、友だちと、さまざまな遊びに興じ始める。積み木で大架橋を作ってみせる子ども、10以上の手順でハートを折り紙してくれる子ども。
こちらも動く遊具として子どもたちと戯れる。両手をつないででんぐり返し、ハイジャンプ、回転……ちょっと息切れして、「休憩!」。ぽつぽつと話をしてくれる子、聞いて聞いてと情熱的に語る子、「座って」と言っておぶさってくる子、「お鍋の所に来て」と誘いに来る子……。全員がそろう前のちょっと自由な、幸せな時間。

2013年度4月 園長だより

さくら、さくら

  28年前、今治めぐみ幼稚園でチャプレン=幼稚園付き牧師(の卵)を3年間務めました。その頃、園の正門には大きな桜の木がありました。始園・入園式のころともなると、桜は、幹から広がる枝々を薄桃色の花衣で装って、子どもたちを迎えてくれたものです。
札幌、新潟と転勤をして、3年前に帰ってきたら、その桜はいなくなっていました。その喪失感は相当なものでした。今は、それに替わって、小ぶりの桜木と、幼木が植えられています。あと何十年たったら、あの木ほどに大きくなるのでしょうか。
4月初め、休みをとって、家族でドライブを楽しみました。今治から丹原を抜け、桜三里を通って松山へ。名前通り、三里の道は、桜、桜、また桜です。道沿いの桜に、谷を隔てた山に点在する桜、密集する桜に、存在感あふれる一本桜。野も山も和んでいました。
その1か月ほど前、太い木の幹の一部が園庭に運ばれてきて、藤田司先生ののこぎりの音が響きました。永遠に喪われたと思っていたあの桜でした。春分の日には、桜の花枝が挿されてよみがえりました。わたしは、ドキドキしながら、卒園児を見送りました。


3月 園長だより
 
ふぞろいな石ころたち
 
 また、石の話から……。先日、「ロダの会」に集ったお母さんたちに、石ころを見せた。研修で小豆島を訪ねた際、足を伸ばして小説『二十四の瞳』ゆかりの「岬の分教場」に行き、その堤防下の浜辺にゴロゴロと打ち寄せられている中から、捜し出したものだ。
さぞあきれられると思いきや、意外と反応がいい。均整のとれない円錐形のそれは、首を少し突き出したペンギンの風体に似る。頭の辺りには石英の細い筋が巡っていて、ちょっと猫背の後ろ姿には哀愁が漂う。底は完全な平らでない分、テーブルに置くと前後に体を揺らす。
発表会が終わった。不揃いな石ころたちが、思わぬ造形を生み出し、絶妙のハーモニーを奏でた。完全な円錐や、完全な立方体を、きちんと並べても生まれない美があった。演ずる喜びを爆発させている子の隣で、煉瓦のお家が倒れないように見守り続ける子がいる美しさ。
太鼓のバチの出遅れを、懸命に取り戻した石ころと鼓動を合わせて音楽を創って行った石ころたちの場合、その美が、発表用の楽器に習熟するだけにとどまらず、練習で様々な楽器と戯れ、奏する楽しみを味わっていたところから来ていると聞いて、納得。
 わたしは、先に、石ひとつの持つ絶妙なバランスに美を認めた。しかし、この発表を見ているうちに、自己完結的な石ではなく、他の石と組み合わされることによって生まれる、その都度新しい美の誕生にこそ注目せねばと思えてきた。うちのペンギンにも仲間を見つけなきゃ。


2月園長だより
 
探しなさい。そうすれば、見つかる。

 お年玉で新しいテニス・ラケット(前衛用)を買った怜が、向かいの教会駐車場で「壁打ち」をするようになってしばらくしたある夜、戻ってきて、「お父さん星がきれいだよ」と、玄関先から声。わたしは腰を上げ、一枚羽織って裸足のまま靴をつっかけ、外に出た。妻も後ろから付いてくる。見上げれば月齢10の月が煌々と照る隣に木星が「負けじ」と光っていた。
息子が聞く、「冬の大三角形ってどれ」。「ええっと、オリオン座の赤い星ベテルギウスと、その左下にある一番明るい恒星シリウスと、……それから何だっけな。あの辺りの星なんだけどな」、とわたし。分からないままでは残念なので、急いで部屋に戻り、PC持参で探す。「ああ、そうか、プロキオンだ。こいぬ座のα星。そして、シリウスはおおいぬ座のα星、忘れてたなぁ。ほらほらあれだよ」、一通り聞くと、息子は天球から手元の球の方へ戻っていった。
わたしは、なお、空を見上げて、冬の大三角形をピースのひとつとする「冬のダイヤモンド(六角形)」探しに熱中。天を指差しながら、「プロキオンの左上にあるふたご座のポルックス、そして、天頂近くのカペラ、右下に降りてアルデバラン、最後に、オリオン座のリゲル」と独りごつ。でも、「ふたご座って本当に双子だよね」には妻が素早く反応。「『ベルサイユのばら』のオスカルとアンドレは、カストルとポルックスに例えられてたわ」。「へー」とわたし。
さらに調べると、冬の南天の明るい星たちには、「シリウスの大円弧」「ビッグG」「ウィンターW」というような「見立て」もあることを知る。「冬の大三角形」という「見立て」しか知らなかったところから、「もうひとつの見立て(冬のダイヤモンド)」を教えてもらっただけで、もう夜空が友だちになった。きっと、子どもたちの世界が広がるのもこんな風なのだ。

1月 園長だより
 
ほめてあげてください

 昨年秋より、出会いがあって、子どもたちの発達支援のため、スクールカウンセラーの大石早苗先生のご協力を得ている。月一度の「芽ぐみの会」の日には、個別相談やクラスの巡回をしてくださると共に、集まってこられた保護者たちと自由に懇談して、その声に耳を傾け、子育てのヒントを与えてくださっている。
 そんな中で、先生がよく言われるのは「子どもたちをほめてあげてください(傷つけるのでなく)」ということだ。「そうすれば、子どもたちは育っていくのです」。ハッとして、思い出した。前の所属教会のメンバーで保育者でもある横坂幸子さんが、成長が遅く、しばしば的はずれな、今は中一の我が子の、良いところを見つけては、キラキラした目で伝えてくれたことを。
その時、本人も、ほめられて、小鼻をうごめかしていたし、親は親で、我が子もまんざらではないと思って嬉しくなったものだ。幸子さんからは、時々、そんな報告があって、わたしたち親子は育てていただいた。同じように、聴覚障がいを持つ親子も、その絵心(絵や写真の芸術性)や軽妙な手話を見出されて、年々、存在感を増して行った。
わたしたちのうちで育ったのは、「自尊感情」だ。自分は大切な存在だと思えるとき、わたしたちの表情は豊かになった。その言葉も、行動も生気を帯びた。こうして、わたしたちは、ちょっと自信を持ち、その狭いカラを破って外の――厳しいところもあるけれど、自分の可能性を拓いていける――世界へ出て行けた。「めぐみ」の子どもたちも、きっとそうなって行く。

12月 園長だより
 
人生の春の中の四季めぐり

 落葉樹が好きだ。めぐみ幼稚園前のケヤキ通りの樹々は、今年の秋も紅葉を楽しませてくれたが、今は、木枯らしに枯れ葉をふるい落とされて行く。毎日、子どもたちを見送った後、先生たちがそれを掃き集める。もうしばらくすると枝ばかりとなろう。
 落葉集めを手伝っているわけではないので、言えたことではないが、これは晩秋の風物詩である。紅葉で終わればいいとは思わない。落ちるところに風情がある。黄色いイチョウの落葉の絨毯などには、新雪のような神々しさを感じる。
落葉樹の美しさは、落葉で終わらない。札幌にいた時、葉を落とした樹木のシルエットがなまめかしいのに感動したことを思い出す。雪に映えるのはクリスマス・ツリーとなる常緑樹だけではないのだ。これは住んだからこそ知り得たことだ。
落葉樹の裸木は、冬は日差しを集める。血の通っている樹の根本はいち早く雪を融かし、そこに福寿草の黄色い花を咲かせて、歩くスキーや「かんじき」で森に入る者の頬を緩ませる。やがて、芽吹きが紅色に山を笑わせると、透明な新緑が恥ずかしそうに葉を広げていく。
人生の春と言える子どもたちの一年の中にも四季がある。一年成長して、次の学年になると、やはりその学年の中の春を過ごし、夏に力強く緑を濃くし、力をつけて秋を迎える。古い葉を落とすのも成長のため。ほら、裸の心身が去年より大きくなっている。

11月 園長だより
 
今治で一番はじめにバザーをやったのは?

 今年も、「はや」バザーの季節がやってきた。もっとも、春から「めぐみセール」などの準備にあたられている保護者の方々にとっては「いよいよ」ということになる。あちこちでバザーをやっている今日、めずらしくもないが、この町で、かつてバザーと言えば、今治基督教会(わたしたちの教会の旧称)のバザーであった。
最初のバザーは1927年(昭和2)のこと。教会有志が1922年(大正11)に町の(タオルなどの)工場で働く家庭のために立ち上げた今治託児愛育園を支えるためであった。同園は今治で最も古い保育園である。当初、同じキリスト教会の救世軍(社会鍋など社会奉仕で有名)が運営を担ったが、ほどなく当教会婦人会が引継ぎ、今治空襲で焼失するまで続けられた。
開かれたのは6月10日の「時の記念日」。この収益によって、10月5日には「託児所の新館定礎式を行」い、「12月20日には大正通りに之れが竣成を見るに至り」、明けて1928年(昭和3)2月1日に、式典の日を迎えている。その後も、お寿司だけで2,500食という毎年のバザー収益(園経常費の1/3ほどにもなった)で、子どもたちとその家庭を支援した。
戦後、保育園事業は今治市の行うところとなり、教会は新たに今治めぐみ幼稚園を生み出して、幼児教育の業に仕えてきた。いつからかバザーも11月3日となる。開催日は変わっても、また、幼稚園が学校法人に替わっても、収益の用途の比重は変わっても、最初のバザー同様、町の人々と共に幼児教育を支えている。今年は、被災地の子どもたちをも憶えつつ働きたい。

10月園長だより
 
子どもたちの「石ころ探し」に気づいていますか?

 牧師室(園長先生のへや)には、最近、こどもたちが入り浸っている。お目当ては、わたしの持っている『こびとづかん』(前回紹介)のシリーズだ。その脇で、最近注目されることもなく、寂しそうにしているのが、ガラス容器に水を張った中に住まっている石ころたちである。
 部屋を訪ねる人々は、メダカか金魚がいなくなった水槽だとでも思うのか、こう言う。「これはいったい何ですか」。「石ですよ」。するとたいてい、こうだ。「なんで石を水の中に入れるんですか」。「きれいだからですよ」。そう、乾いた石を濡らすと、石本来の輝きが戻って来るのだ。
 皆が不思議そうに聞くので、ちょっと孤独感もあったのだが、同じ感覚の人がいることを知って、ほっとした。NHKの番組「ココロとカラダ満つる時間(とき) おふっ、」に登場した、石大好き女優・とよた真帆さんだ。彼女は、オフになると、渓流等に石探しに入る。
 探されているのを待っていた石を拾いあげると、地球活動の悠久の歴史の中で石が石となるまでを想像する。石ころというアイコンをクリックして、何枚ものウィンドウを開き、タイムトラベルするわけだ。そして、こう言う。「石は、地球のドラマが詰まったプレゼントなんです」。
 子どもたちは、由来を知らずとも「地球からのプレゼント」が好きだ。「すてきな石ころを探してみよう」と声をかけると、目の色を変え、気に入った石を拾ってきて講評を仰ぎ、好評を博すともう一個を求めて駆け出す。子どもたちの世界には、石以外にも「石ころ」が一杯ある。

9月園長だより

げいじゅつざんまい?のなつやすみ

 お盆休みに、家族で高知に墓参りをした。宿泊のチェックインまで間があるということで、近くにある高知県立美術館に向かった。周囲に広く水を張った美術館へは、水の中の通路を進んで入場。開催中だったのはミロ展とトリックアート展。下の二人は後者を中心に両方を鑑賞。
 抽象芸術の好きなわたしが、ミロの作品をやっと半分を観終えたところで迎えが来て、終了。ここで、ホテルに帰る組と、もう一館行こうという組に分かれる。わたしたち夫婦と怜が目指したのは、高知城脇の高知県立文学館で開かれている「なばたとしたか絵本原画展」。
『こびとづかん』と言えば、「ああ、あれね」と言われる方もいよう。こども芸術学科で学んでいる次男が食い入るように見るのは当然として、あの怜までが、一枚一枚興味深く眺め、絵本原画が連続ページで並べられている所では、声に出して読み聞かせてくれた。
 夏休みの終わり、母校・同志社で2年に一度行われる協議会のため、京都に出かける。夜は次男のアパートに一泊。わたしの目当ては、二か月ほどの間に書いたという彼の鉛筆画(65×50cm)50枚だ。ノートや教科書に書き散らかした「落書き」をもとに描いた習作には秀作も。
居室にあったスズキ・コージの原画はトイレ壁面へ移動され存在感を回復。その上方にトイレットペーパーの芯を何百本と積み重ねているのはちょっとしたオブジェ。何かが動くと、心が動く。心が動くと人が輝き、世界が輝く。「生活は芸術、芸術は生活」とは、誰かの名言。
こびとづかんの画像(プリ画像)


8月 園長だより

なつやすみだからできること

  夏休みに入った最初の月・火、今治教会の子どもの教会では、休暇村・瀬戸内東予キャンプ場にでかけた(卒園児も多数)。自然の中のキャンプサイトには珍客も現れる。日頃、草や木の枝にくっついて擬態(カモフラージュ)しているナナフシは、テントに張り付いてバレバレ。
擬態と言えば、浜では、同じくカモフラージュの名人のハマトビムシとハマダンゴムシ(わたしたちがよく知っているのはリクダンゴムシ)も、風化花崗岩を母岩とした砂粒に紛れていたが、子どもたちの来訪に大慌てであった。
日が暮れると、本来、木立の中に紛れているミヤマカミキリ、ゴマダラカミキリ、コクワガタ、カブトムシなどが、光に誘われてやってくる。虫好きの子どもたちは、すかさず捕らえて、我がものとし、飽かず眺めている。
子どもたちが寝静まった夜中、不寝番のわたしは、はくちょう(座)がゆっくり飛んでいくのを眺める。やがて、夜の底が白んでくると、明けの明星のみが輝く。それも消えると、雲に遮られながら、朝日が神々しく光を増していく。嵐(子どもたちの目覚め)の前の静けさ。
たった一泊だが、わたしの幼き日の「センス・オブ・ワンダー」が甦った時間であった。なつやすみだからできることは、思いがけない所に満ちている。最後になるが、天文年とも言える今年、大人のためにもう一つのワンダーがある。8月14日未明の金星食をお見逃しなく。


7月 園長だより

        
それならできそうです

 先日、歯科検診が行われた。田中丈博(若)先生の前で、大きく口を開けて、歯を見てもらう子どもたち。百人あまりの小さな歯を点検した先生を牧師室に迎えて、印象を聞かせていただいた。
 どう評価されるかと待ち受けるわたしに、先生は、口を開くや、「おおむね、良い」と言われ、ほっとした。おうちで、「♪しあげはおかあさん/おとうさん」をよくやってくださっていること、園でもお昼ごはんのあと、よく口がすすげていることがうかがえた。
 続いて、歯を守るためのあれこれを聞かせていただいた。ここでは、わたしが先生にぶつけた一つの問いを巡るやりとりだけを紹介しよう。「先生、完全に磨くのはたいへんですよね。何分も磨くなんて、自分のことでも、できません」。
「毎回完全に磨けなくてもいいんですよ。今回はここを中心に、次はここ、そして、その日のうちに、全部に行き届けばいいのです。」「ああ、そんなことでいいんですか。それならできそうです。毎回完全にはできないので、どうせできないと諦めてしまっていましたから。」
もっとも、先生はこうも付け加えられた。「それでも、磨き残しは出てきます。定期的には専門家に見てもらって、きれいにしてもらうといいですよ。わたし自身もそうしてもらっています。(歯)医者の不養生ではだめですからね。」気負いのない先生の言葉に癒された。

6月 園長だより
 
いのちの息が吹き入れられると

  めぐみ幼稚園のシンボルは「こひつじ」だ。今治教会員だった倉永由美子さんのデザインで、園バスにも登場する。これは、神さまとわたしたちを羊飼いと羊の関係にたとえている聖書による。だから、描かれてはいないけれど、「こひつじ」には、見えない神さまが共にいる。
いのちのはじめは誕生日。神さまが備えてくださった力が、母羊の出産を助ける。母羊が分娩を終えて起き上がると、臍帯は自然に切れ、子羊は産声をあげる。母羊が子羊の体についている粘液や粘膜をきれいに舐め取ると子羊の体は乾き、刺激で血がよく巡るようになる。
しかし、母羊が難産などで疲労し起き上がれない場合には、羊飼いが臍帯を切ってやる。仮死状態で生まれれば、羊飼いは、母羊に代わって、子羊の体、特に、鼻周辺に付着して呼吸を妨げる粘液や粘膜を拭い去る。鼻から息を吹き込んで自発呼吸を促し、胸をなでて刺激する。
 とりわけ、「いのちの息」によって子羊が危機を乗り越える場面は、遠い昔から人々に鮮烈な印象を与えてきた。こうして生き始めた「こひつじ」のいのちがよどまないように、羊飼いである神さまは、その後も、「いのちの息」を吹き込んでくださる。
あまり知られていないが、クリスマス、イースターにならぶキリスト教の三大祭の一つをペンテコステ(今年は5月27日)と呼ぶ。この日、イエスと別れを告げた弟子たちに、神さまの息が吹き込まれた。すると、彼らは力強くイエスさまの愛を生き・伝え始めたと言う。

 

5月 園長だより
 
「天地創造物語」と『色の女王』

  子どもたちと共にする毎週の礼拝で見る、子どもたちの表情が、いつも楽しみだ。先週の聖書は、混沌とした世界に、神さまが「光あれ」と言われると、光が生まれて闇と分けられ(1日目)、そこから、美しい世界が誕生していく物語。
 次いで、上の水(空)と下の水(海)が分けられ(2日目)、海と陸が分けられる(3日目)。光と闇には太陽と月・星が(4日目)、空に鳥、海には魚が(5日目)、陸には草や木、動物、人間が創造される。混沌から光によってコスモス(調和した宇宙)が現れる。そんな話。
 ふと、ユッタ・バウアー『色の女王』が浮かぶ。女王が、ある朝、城から出て、家来を呼ぶ。青、次いで赤、最後に黄を。しかし、皆でけんかとなり、全ては、灰色の世界に。女王の涙が止まらない。でも、こぼれ落ちた涙で、灰色がうすれていき、色たちが戻って来る。
「似ている、天地創造物語に!」そう思ったわたしは、子どもたちの前で、画用紙にいろんな色のクレヨンを走らせながら物語る。やがて、色たちが自己主張し出して、でたらめに混ざり合うと、なんとも嫌な色に変わって行く。子どもたちの顔も曇る。
そこに「光あれ」と神の声。光によって自分の居場所をみつけて輝きだした色たちは、やがて、仲よく色のダンスを始める。世界全体が輝き始める。子どもたちの顔もパッと明るくなる。神さまの声が聞こえる、「いつでも仲直りできるよ(やり直せるよ)」。
 
 

2012年4月 園長だより
       
もうしばらく見てみよう 

 わが家の小さな庭で、スノーポール(キク科の白い花)が二か所、丸い花束のようにふくらんでいます。春の庭の主役にと期待し、今、花盛りのチューリップを、引き立てるどころか、「しばらく見ているうちに」自ら庭の主役になっているのです。
 門に近い方のスノーポールの脇には、矢車草が背丈を伸ばしており、主役をうかがっています。一方、寒い冬を生き延びたマツバボタンが、夏の主役はわたしたちだと、密かにエネルギーをため込んでいます。実際、昨夏も狭い庭を、いつのまにか、覆い尽くしました。
 問題は、チューリップの周りに生えている草です。わたしはタンポポ科(キク科タンポポ属)の雑草だから抜こうと主張しましたが、妻は、矢車草だと主張して譲らず、「もうしばらく見てみよう」ということになりました。結局、最後まで見届けることになるのかもしれません。
 雑草(ゴメンナサイ)も、よくよく見ると、かわいらしい花ない庭の彩りとなっています。つくづく、それぞれがちがった出番を持ち、ちがった役割を持っているものだと思わされます。
めぐみの子どもたちの新しい庭は、どうなるでしょう。めぐみの園丁(せんせい)たちは、さりげなく並べ方や組み合わせの工夫をしながらも、それに頼るよりは、ひとりひとりの子どもの成長による絵柄の変貌を楽しみながら、子らと共に、季節を旅して行くことでしょう。

3月 園長だより

神さま、みーつけ

 年少さんとひよこさんの礼拝でお話をしました。その日の聖書の言葉は、ヨハネの手紙一4章16節で、「神は愛です」でした。とっても簡単なことばですが、わかったようでわからない。そこで、子どもたちに聞いてみました。「神さまを見たことがありますか?」「神さまはどこにいるでしょう?」すると、みんな「上の方」とか、「あっち」とか言ってくれました。くびをひねっている子もいました。そこで、わたしは、「神さまをさがしてみよう」とよびかけたのです。
 そして、前にいた「カナちゃん」を膝に乗せて、「ここに神さまはおられます」と言いました。キョトンとしたり、「えー?」という表情をしたりする子どもたち。でも、隣の子、また隣の子、「ここにも、ここにも神さまはおられます」というと、だんだんニコニコしてきました。
 こんどは、あかちゃんの真似をして、「みんなも赤ちゃんになってください」と呼びかけました。「ここにも、ここにも神さまはおられます」、こんどはおじいちゃん・おばあちゃんになってみてください。ちょっと腰を曲げてみるみんな。「ここにも神さまはおられます」と、わたし。
 「それでは仲よくハグしましょう」、子どもたちがニコニコ、ハグを始めると。神さまの愛がいっぱいに広がります。でも、わたしが若葉せんせいと喧嘩を始めると、なんだか神さまが見えなくなります。でも仲直り……。愛が戻ると、神さまが近くに感じられるようになりました。「愛のあるところに、神さま、みーつけた!」。だから、ほんとうに、「神は愛です」。
 

2月 園長だより
 
ふじたせんせい、ありがとうございました!

 ピンクバスが園に到着すると、「ふじたせんせい、ありがとうございました!」、子どもたちの声が響く。そして、ちょっと緊張気味に、子どもたちがステップを降りて玄関に上がる。その顔には、新しい一日への健気な決意がみなぎっている。
 一方、「ふじたせんせい」は、添乗の教師が交代すると、第二便を発車させる。教師からは、休む子が誰で、親が送ることになった子が誰なのかが伝えられる。慎重にアクセルを踏んで出発。信号では、青になってもすぐに動かない。赤で突っ込んでくる車もあるからだ。
道々、アンテナを一杯に広げ、あらゆる情報をキャッチして安全に努める。他園のバスが通ると、にこやかに挨拶を交わす。無理な運転をする車に対しては、こちらの権利を主張してもいいのに、ぐっと飲み込む。子どもたちを、安全、快適に、園へと運ぶ。都合で道を変えることもない。家を離れ、気が張っている子どもに、余計な負担をかけないための心遣いだ。
細心の注意を払っても、相手のあること。「ひやり」「はっと」もないわけではない。だから、毎朝、掃除、点検をしながら、冷静な運転を自分に言い聞かせる。そして、出発。一人一人子どもを乗せて走る。正門をくぐって、幼稚園の玄関に着く。バスのドアが開くと、子どもたちの声が響く。「ふじたせんせい、ありがとうございました!」 にこやかに笑顔を返す。
 

1月 園長だより
かけがえのない記憶

冬休み、我が家に、怜(6年生)が待ちかねたお兄ちゃんたちが帰省してきた。社会人1年生、大学3年生、全寮制高校1年生である彼らの願いは、久しぶりの巣でダラダラしたいとのこと。といっても、小学校教師である長男は、さっそく怜の縄跳び特訓に精を出した。絵本作りをしている次男は、ペンを片手に机に向かっている。三男は大好きなオシャレに余念がない。
歳も押し詰まると、だんだん、念願のダラダラ生活へ。それでも、元旦礼拝後の牧師館(我が家)のオープン・ハウスに向けて、大掃除と会場設営。ふすまを外して広間に変え、卓を運んで宴会場に。当日は、礼拝後一足早く家に戻り、お客様を迎える最終準備。そして、料理や飲み物を運ぶ。
一大行事も終わって正月二日は母方の実家(松山)へ、三日は父方の実家(高松)へ。彼処では祖父とカラオケ、此処では祖父とボーリング。おもしろいのは、隠しきれない、飾り切れない素の彼らが見られるところ。定点観測でもないが、同じことをする中で、身体能力、がまんづよさ、周りへのいたわり等、成長の度合いが分かる。
 高松では、恒例で、その夜のメニューが孫たちに託される。長男曰く「やっぱり、メインは、おじいちゃんの焼き鳥(鶏もも肉のタレ焼き)。伝授してもらわなきゃ」。祖父「じゃあ、響、火を熾してくれよ」。「もちろん」。父親の実家では、これを食べないでは済まされないというわけである。焼き鳥を含め、何気なく繰り返される毎年の営みが、かけがえのない記憶となって行く。それが心を育てる。めぐみ幼稚園では、いつもの餅つきで、新学期が明ける。


12月 園長だより
えんちょうせんせい、なんしよん

わたしたちの園に、日本基督教団の雑誌の取材が来たことがある。雑誌の表紙を今治教会の絵で飾るために、画家の金斗鉉さんがやってきたのだ。斗鉉さんは、その時のことをこう振り返る。「幼稚園児に囲まれてのスケッチは楽しい。いつのまにか僕のまわりに小さい画家たちの輪が出来た。……『わたしは……じゃけん』と話しかけてくる子どもたちといつまでも一緒にいたかった。」
「たしかに、たしかに」、とわたしは思った。「どこの子どもたちも好奇心旺盛で、人懐っこいが、今治の子どもたちは他所にもましてそうだ。」時には、彼らがしばしば、「えんちょうせんせい、なんしよん」と聞いて来るのを、「今は、お仕事しよんよ」とか、「もうすぐおでかけせないかんのよ」とか、分かるように説明するのに手こずっていた。
先日、伊予三島の教会を訪ねたとき、着任2年目のわたしに、教会の方々が問うた。「今治はどうですか。」その際、上に述べたような子どもたちのようすのことを話すと。皆口々に言われるには、「『なんしよん』というのは、三島でも使うんやけど、『いまなにしてるの』という意味ではなく、『せんせい、あそぼ』『せんせい、あそべない?』という意味なんよ。」「目からうろこ」とはこのこと。とたんに、子どもたちのその時の表情と言葉とがつながった。
もっとも、口調によっては別の意味にもなる。「そんな子どもの気持ちも分からんと、園長先生、なんしよん!」
 

11月 園長だより
このリンゴを見て、描いてください

園のチャプレン・大澤香先生から、今月のテーマについて学んだ。11月は「目を凝らす」である。いつもと違うのは、その日に限って、香先生が、教師たちに白い紙を一枚ずつ配ったこと。皆、内心これは何だろう?といぶかしがった。すると、先生はリンゴを取り出して、テーブルの上に置き、「このリンゴを30秒で描いてください」と指示する。
「静物画のデッサン?」と、少々身構えながら、「恥をかかないように」、懸命に取り組む面々。暫し響く鉛筆の音……。わたしは「もう一筋引きたい」と悪あがきするも、あっという間にタイム・アップ。香先生の次の言葉に耳を澄ます。
「皆さん、『このリンゴを描いてください』、と聞いて、『この』リンゴをよーく……見られたのではないですか。もし、『リンゴを描いてください』であったならどうですか。きっと、一般的なリンゴのイメージで描いたことでしょう。」とたんに、教師たちの顔に納得の笑顔が拡がった。
確かにそうだった。わたしは、リンゴの下の方に、少しくすんだ部分を見つける一方、上部には光を照り返して輝く赤い色に目を留めていた。『この』リンゴに「目を凝らし」ていたのだ。香先生は、こうして、難しい説明を加えずに、子どもたち一般ではなく、その一人一人に「目を注ぐ」ことの大切さを納得させてくれたのだった。

10月 園長だより                
天は神の栄光を物語り、大空は……

秋めく日々の中、牧師たちの研修に出かけてきた。行き先は琴平。2日目のフリータイムには、共にソフトボールを楽しんだ後、6名だけで「こんぴらさん」の奥社まで登った。行きは、涼しの杜と名付けられた山道を、誰ともすれ違うことなく進む。
多くの人が使う長い階段の道と途中で合流し、さらに肩で息をしながら歩くと、やっと到着である。それまで木々の隙間からかろうじてみえていた眺望が、一気に開ける。眼下には飯山(讃岐富士)が遠慮がちに頭を突き出した讃岐平野には、稲刈りを控えた充実の実りが広がる。 
遠くには、瀬戸大橋が、目を右手に向けるとうっすら屋島や五剣山まで見える。恵みの神さまが見ておられる風景に、ほんの少し近づいたような気がした。
帰りの道はひたすら石段を降りる。やがて本社の威容と、これに詣でる人々の祈りの姿を目に入れながら、また降りる。もうここまでしか登れないと諦めながら、遠くに思いを馳せて手を合わす人がいる。心打たれながらまた降りる。左右に土産物店が続くようになった。
ふと気づくと、登りの若いカップルが、道の真ん中で携帯電話の写真撮影機能を使って、上を見上げている。何を見ているのだろう。電線しかないのにと通り過ぎる。でも気になってまた振り返る。足を止めて、彼らと同じ方向を見上げると、そこには、天高く、秋の絹雲が泳いでいた。この大空の下で、こんどは子どもたちが神さまから与えられた手足で駆ける。駆ける。


9月 園長だより
塩ニモマケズ 夏ノアツサニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ

1学期が終わった直後、台風6号の影響で、元々予定していた日程の夕涼み会は中止になった。もっとも、北上していた台風は東に大きく旋回し、やがて大風も止んだ。「ああ、よかった」と胸をなでおろした。ところが台風は思わぬ副産物を残して行った。塩である。
その日、窓には白く、ねっとりしたものが付着した。日が経つと、街路樹や庭木の葉が枯れ始めた。台風が海水を巻き上げ、樹という樹に吹き付けたのだ。塩を必要量摂取出来る動物に対して、摂取した塩分をコントロールできない多くの植物は、本質的に「塩嫌い」だから、まともに塩を受けると枯死する。東日本大震災での塩害を思い起こしてほしい。
8月に入ると、園庭の桜樹も、ケヤキ通りのケヤキたちも、その葉をすっかり茶色に変えてしまった。数えきれない掌で太陽の光を受けていた樹は、一体どうなるのだろうと気を揉んだ。しかし、8月も半ばにさしかかると、淡い新緑が枯れたように見える枝先からこぼれ出始めた。元気よくとは言えないが、少しずつ、仲間を増やしながら……。ほっとした。
25日から30日まで、ボランティアで、仙台、石巻を訪れた。そこで長くボランティアのお世話をしている人が言った。「これでも、ずいぶん緑が増えてきたんですよ」。再生した緑を見ながら、被災した人々の「いのち」も再生し始めている。さあ、新学期。自園式給食も始まる。子どもたちの中にある「いのち」がますます輝きを増すよう、仕えて行きたい。
 



 8月園長だより
♪神さまください……遊ぶ力を

7月、ほし組に教育実習生のKせんせいが来てくれた。事前の実習は終え、今回は仕上げの実習である。ご本人は、テーマを定めながら、保育計画を練っておられた。そのテーマは、音感・リズム感等、子どもの応答する力を呼び起こすことだと、聞かされていて、それがどのような具体的プログラムの中で実践されるのか、楽しみであった。
2週間の実習の最後は、一日実習。設定保育の始め、「むすんでひらいて」の手遊びの変形で、うさぎ、カエルなど「動きながらいろいろなものに変身することを(Kせんせいと)楽しむ」子どもたち。次いでウッドブロックの音に合わせて、歩く・走る・スキップ。日頃の様々な動きの中にリズムがあったことを発見する喜びが、子どもを笑顔にする。
せなけいこのロングセラー絵本「ねないこだれだ」の読みきかせでは、Kせんせいのピアノで、フクロウ・くろねこ・ネズミ・どろぼうの「気配」が立ち上がると、子どもたちもその空気に同調する。双方向的な絵本の時間は、教室をミニ劇場に変えた。
午後のフルーツバスケットでは、子どもたちのルール把握の度合いの違いで、Kせんせいの想定外の事態も見られた。しかし、子どもたちは、クラスの中で培ってきた「遊ぶ力」で、アクシデントを乗り越えながら、ゲームを成立させていた。
 こうして、Kせんせいのすてきな一日プログラムは、子どもたちの力によって見事に完結させられたのだった。
7月園長だより
子どもと共に神さまに向かう

前任の新潟教会に横坂幸子さんという方がいた。北海道等で牧師を務めた父親を持ち、ご自身は、キリスト教保育の伝統校・聖和を出て、同附属幼稚園でも働かれたことがあった。新潟では地域の子育て支援に尽くされると共に、教会では教会学校の子どもたちを愛された。
そのまなざしはいつも保育者のもので、うちの子どもたちについても、親としては「やれやれ」とため息をついているところを、「響ちゃんは、こんないいところがあるんですよ」と、我が子の可能性に目を開かせてくれたりした。
そんな、幸子さんが、あるキリスト教雑誌に「祈り」について寄せた文章は忘れられない。
付属幼稚園に勤め始めたころ、私は大きな失敗をしました。……教えることに捕らわれていた私は、子どもたちと共に神さまに向かうのではなく、「お祈りはこうするものなの」とばかりに、子どもたちに対して祈っていたのです。……しかしある日、礼拝のなかで自分の両側に立った二人の子どもたちの肩を抱いて、「みんなと一緒にあなたに祈れることを感謝します」と祈り始めた時、子どもたちは生き生きと自分の言葉で祈り出したのです。私の祈りの途中から、自分の祈りを加えていく子どももいました。私が風邪をひいて、かすれた声で「神さま……」と祈り始めた途端、隣にいたJ君は、「先生はいま声が出ないんです。大変なんです。良くなるように守ってください」と祈ってくれました。
子どもを見おろして何かを伝えるのでなく、共に見上げて何かを受け取って行きたい。



6月園長だより
「きみがすきだって」って だれかぼくに いってくれたら

26年前、20代の僕は、牧師の卵として今治教会に来た。めぐみ幼稚園ではチャプレンの役割。「あたらしい先生」をまっさきに歓迎してくれたのは、当時の年長「ほしぐみ」「ひかりぐみ」のこどもたち。さっそくなかまにいれて遊んでくれ、僕はめぐみ幼稚園の一員になれた。
受け入れてもらった記憶は古びない。心がそれを憶えている。去年の春、23年ぶりに、今度は牧師として今治に帰って来て、あの時の年長さんの数名と再会した時、蛹の殻を破って、眠っていた記憶が、じわじわと広がって行った。
その一人が、今週末、結婚する。その司式を僕がする。パートナーとなる彼とも会った。リハーサルもやった。彼女手作りの式次第はもう手元にある。今、あの頼もしくも愛おしい幼子が、喜びと不安と緊張の中にいるのに同調している自分がいる。
当日の式は、彼女の希望通り、子どもの教会のこどもたちも見守る中で行われる。結婚の誓約の後には、みんなでこんな風に賛美歌を歌う。
♪「きみがすきだ」って だれかぼくに いってくれたら ソラ 元気になる
♪「きみはだいじ」って だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく
 
 

5月園長だより
さいごのひとつぶのなかに

4月の誕生会の後に、みんなで食卓を囲んだ給食の時間、ほしぐみさんの一テーブルに招かれ、隣の給食室でつくられたメニューに箸を進めた。メインディッシュは「スズキのムニエル」。テーブルでは、「これはサケとはちがうんよ。サケのみはあかいんよ」と講釈してくれる子に、「そうなんよ」、「そうなんよ」と合いの手が入る。白身の、身も心も文字通り「すすが」れるような味わいに、会話がうまみを添える。
食べ終えて、床にこぼれたご飯粒や、野菜片を拾い上げていると、Yちゃんが、声をかけてきた。「さいごのひとつぶのなかに、かみさまがおるんよ。」不意を突かれた。どきっとした。そして、すごいなと思った。おかあさん、あるいは、おばあちゃんから聞いたのかもしれない。でも、彼女の心の中にちゃんとキャッチされた言葉である。本当だ、「神さまは、最後の一粒の中に、本当におるよね」と返すのがやっとだった。
園は、今、自園式の給食をめざして「おためし給食」に取り組んでいる。「食」を通して、「いのち」を実感し、「いのち」に感謝することができるように、と。子どもにもそれを伝えよう、と。でも、もう子どもからそれを教えられている。

2011年4月園長だより
ようこそ、めぐみ幼稚園へ

春休みの園庭は、さぞ静かだろうと思いきや、「預かり」の幼稚園児、卒園児、小学生らで賑わった。エネルギーに満ち溢れるこどもたちが、お手伝いの先生たちに見守られながら思い思いに遊ぶ。お昼にはピクニックに行く日も。
その一方で、新しい年度の準備が進む。担任の先生たちは、新しい子どもたちの名簿を手に、新しい巣づくりに意匠を凝らす。少し前には、名残惜しそうにクラスの後片付けをしていたけれど、今は、心を前に向け、いそいそと手足を動かして、キラキラ眼(まなこ)を迎える準備だ。
一日の預かりを終えた夕刻、幼稚園のスタッフが、山形の高校に進学する我が子のために壮行パーティーを開いてくれた。「こどもの教会」の同級生たちも集って一緒に飲み食いし、順に園庭に繰り出してはミニ・テニスに興じる。そういえば、中学3年生で転校となった彼を、一年前の春休み、誰よりも早く歓迎してくれたのが「めぐみ幼稚園」だった。
入園する子どもたち、新しいクラスになる子どもたち、ここが、君たちの舞台です。心から歓迎します。ようこそ、めぐみ幼稚園へ。

今治めぐみ幼稚園
〒794-0043
愛媛県今治市南宝来町1-1-6
TEL.0898-23-0717
FAX.0898-35-0515
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通常保育
延長保育
預かり保育
途中入園可!
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