学校法人 今治キリスト教学園 今治めぐみ幼稚園|愛媛県今治市|通常保育|延長保育|預かり保育|

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今治めぐみ幼稚園
〒794-0043
愛媛県今治市南宝来町1-1-6
TEL.0898-23-0717
FAX.0898-35-0515
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通常保育
延長保育
預かり保育
途中入園可!
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055617
 

     園長室

 

園長だより  

園長だより  
 
 
『2017年7月に寄せて』 
 毎週、金曜日は幼稚園の礼拝です。賛美歌を歌い、お祈りし、聖書のお話を聞きます。ひよこ組さんからほし組さんまでみんなとても立派にお話を聞くことができます。昨年、初めて礼拝した時、子どもたちが良いお話によって育てられているなあと思いました。先生方が良いお話をなさっていたから、子どもたちはお話が大好きで喜んで聞いてくれるのでしょう。
 さて、先日、研修会で「命は与えられたものである」と習いました。確かに命は「いただきもの」です。私たちがいただいている最高の「贈り物」、「プレゼント」です。前任の幼稚園で子どもたちに「プレゼントをもらったらどうする?」と尋ねますと、こどもたちは、「ありがとうと言う」と答えてくれました。「もらったプレゼントはどうするのかな?」と更に尋ねましたら、「大事にする」という答えてくれました。私たちは自分の命が与えられていることに感謝し、大切にしなければなりません。もちろん他人の命も同様に大切にしなければなりません。このことは幼児期にしっかり伝えたい人生の知恵の根本です。
 実は命ばかりではなく、この世界も神様からの「贈り物」です。神様は愛を込めて、心込めてこの世界を造られました。自然、そして全ての命を造られ、この世界を祝福されました。そしてこの世界を私たち命あるものすべてに贈り物としてくださったのです。世界は、神様の愛の贈り物です。この世界で、神様の愛をいただき、生きる喜びにあふれてみんなで神様に感謝し、この世界を大切にするのです。この世界は、そんな神様への感謝を表す「ステージ」なのです。
 特に自然の中で、共に遊び、共に過ごす時、私たちは神様の愛を共に喜び、感謝することができます。これから夏、神様の造ってくださった世界に生きる喜びを遊びの中で子どもたちが存分に感じ、感謝し、喜びに輝いて過ごしてくれるように励んでまいります。
 残り少ない一学期となりましたが、どうぞ宜しくお願いします。
『7月の聖句』 天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ。(詩編96編 11節)
 
『2017年度6月に寄せて』
 私たちは、子どもと出会うことで、子どもからたくさんの幸せをいただきます。子育て、教育は楽なことばかりではありませんが、子どもから頂く幸せは何にもまさる喜びです。
 少し前、今年度初めてほし組の子供達と給食をいただきました。その翌日、園庭に出てみましたら、ほし組の子どもたち何人かが集まって来て、ニコニコしながら「園長先生、今日の給食、どうするん?」と声をかけてくれました。その心は「園長先生、昨日一緒に給食食べて楽しかった。今日も一緒に給食食べよう。でした。残念ながらその日は別の予定が入っていたのですが、とてもとても嬉しかったです。関西弁で言えば、自分に向かって「おまえ、どんだけ幸せやねん」となります。本当に子どもたちは、私たちに幸せを与えてくれます。そういえば、自分の子どものことを振り返っても、子どもが生まれてくれて、たくさんの幸せをもらったことが思い出されました。
 さて、私たちの幼稚園では「キリスト教保育」という雑誌の「聖書にきく」というコラムを参考にして聖書を学んでいます。毎年、執筆者が変わります。以前は、当幼稚園の元園長榎本栄次先生も書いておられました。今年度の執筆者は、石川県の先生です。私は前任地がお隣の福井県でしたから、この先生はとてもよく存じています。私が心から尊敬する方です。「やるべきことをやる。愛にあふれた方」です。私の前任の教会の信徒さんが、石川県におられた頃、生まれた子どもさんに重い病気があったのです。その時、この先生が慰め、励ましてくださいました。それを聞いてから、私はずっとこの先生を尊敬しています。またお話や執筆を通して、沢山のことを学ばせていただきました。「目から鱗」の経験をたくさんさせてくださいました。
 今回の目から鱗は「奇跡」ということについてでした。普通「奇跡」といえば、通常では起こり得ない出来事を指して「奇跡」と呼びます。ところが、この先生は、「奇跡は神のなさることである」と言われたのです。これは本当に「目から鱗」でした。私たちの日常のなんの変哲もない出来事の中でも「神様がなされた」と思えることがあれば、それが「奇跡」なのだというのです。子育てにおける子どもの成長の姿。そこにはご家庭の皆様、教師の関わり、努力によるところも大きいでしょう。でもそれだけでは言い尽くせない不思議があるのではないでしょうか?自分も子育てに努めた。でもそれだけで子どもがここまで成長したとは思えない。そんな「プラスα」がありはしないでしょうか?自分の子育てを振り返ってみてもそうです。もちろん親として妻と共に一生懸命に努めました。でもそれだけで子どもが育ったとはどうしても思えません。沢山の方に支えられた。そして何よりも神様に守っていただいたとしか思えないのです。そもそも子どもを与えられるということ自体が、人の力だけではどうしようもない「奇跡」です。子どもは「作る」のではありません。与えられるのです。授かるのです。それは神様のなさること、奇跡ではないでしょうか?そう思って、幼稚園の子ども達の様子を見ていますと本当に日々、成長していきます。もちろんそこには保護者の皆様、教師の努力もありますが、神様が子どもたちを愛してくださって、素晴らしい祝福を与え、成長させてくださっているという「奇跡」が満ち満ちているように思え、感謝と喜びが溢れてきます。そしてますます保育に一生懸命に励もうという意欲を新たにさせられます。
 今月の聖書の言葉は
 「これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと」詩編118編23節
 日々成長していく子どもたち、神様のなされる素晴らしい「奇跡」を驚き、喜び、励まされながら、今月も保育してまいります。どうぞよろしくお願いします。
 
 
5月園だより
『2017年度5月に寄せて』
幼稚園が始まりました。泣く子が少ないようで、外遊びも始まり、幼稚園は順調なスタートを切ることができました。
ところで、先日、礼拝後のことです。ある女の子がやってきてある子から
「園長先生、小公子好きなんやろ 私も読んどる」と言われました。すごい。この子、親御さんから私が園のお便りに書いた巻頭言を読んでもらったのでしょう。とてもとても嬉しかったです。
さて、時々こういう質問をいただきます。「おたくの幼稚園はキリスト教の幼稚園らしいが、信者の子どもしか入れないのですか?」
私は「いいえ。そんなことはありません。私たちの幼稚園の根本にあるキリスト教の精神を理解してくださる方なら宗教に関係なく、お受け入れしています。」とお答えしています。キリスト教の精神とは「人間を超えた大いなる存在である神に守られ、愛されていることを喜び、神を敬って、神に喜ばれるように生きる」ことです。神は目に見えません。でも確かにおられて、自分たちを守っていてくださる。そのように目に見えない神を敬い、その方に喜ばれる者として生きる。悲しまれることはしない。それがキリスト教教育、宗教教育の大切なポイントです。
そのようにして、目に見えない神を敬うことは、目に見えないものを大切にすることへとつながります。大人の世界は目に見える結果を求めます。子ども達もいずれはそういう社会に出ていかなければなりません。でも目に見えるもの 目に見えないもの、本当はどちらが大切でしょうか?
たとえば、贈り物。贈り物は目に見えます。でも贈り物に込められた心は目に見えません。贈り物は、物ですから、いつか古びていきます。でも贈り物に込められた愛情は、古びることはありません。昔、父から時計をもらいました。もう動きません。でもその時計に込められた父の愛は決して古びません。その時「大事にしてください」との父の言葉、父の眼差しも私の心に焼き付いています。贈り物を本当に喜ばしい「贈り物」にしてくれるのは、愛だったり、感謝だったり、思いやりだったり、贈る人の心です。
サン・テクジュベリの「星の王子さま」で狐が王子に言います。「本当に大切な者は目に見えないんだよ。」。目に見えるものは、目に見えないものによって支えられています。目に見えるものを意味あるものとするのは、目に見えない心です。愛 思いやり 感謝 大切な心は目に見えません。でも、それがあって、愛、感謝、思いやりが目に見える行動として現れてくるのです。
私たちは幼稚園において、常に目に見えないものを大切にしています。目に見えるものがどうでも良いのではありません。作品一つにしても、結果としての作品よりもそれに至るまで子どもたちがどれだけ感動したか、楽しんだか、どんな思いを込めて作ったのか。そういう目に見えないものとのつながりの中で目に見えるものを理解し、意味づけていきます。
五月の聖書の言葉は、 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」です。私たちの保育において、一番伝えたい大切なものも、目に見えません。それは神様の愛です。イエス・キリストにおいて、子どもたちを愛し抜かれる神様の愛を幼稚園の活動、施設設備、なによりも教師の働きかけを通して伝えます。そして子どもたちに愛される喜び、生きる喜び、生きる力、感謝と思いやりの心を育んでいきます。これも目に見えません。でも、それら目に見えないものをしっかりと大切に育てていく営みが、いずれは目に見えるものへと繋がっていきます。生み出していきます。
5月もどうぞよろしくお願いします。

 
 
 
『2017年度4月に寄せて』
 四月、新入園、進級、新しい生活が始まりました。
 期待と共に不安もあることでしょう。新入園児にとっては、家庭から離れて集団生活に入ります。初めての経験でしょう。進級するこども達も一つ大きくなった喜びと共に新しい生活には不安もあることでしょう。
 そんな四月、新しい生活の始まりの時、私たちはすべてのこども達がそのありのままの姿で受け入れられ、歓迎されていることを実感してもらうことから保育を始めます。まずは教師の笑顔、やさしい言葉かけから始めます。「よく来てくれたね。ありがとう。うれしいよ。大好きだよ。安心して、一緒に遊ぼうね。」そんなメッセージを幼稚園の保育全体でこども達に伝えます。
 四月の聖書の言葉は「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書第20章19節)です。
 この言葉はイエス・キリストの復活の物語の中に出てきます。イエス・キリストは十字架にかけられて三日後に復活されました。そして弟子達に出会われました。弟子達の心は真っ暗でした。イエス・キリストが捕らえられる時に、逃げてしまい、イエスを守ることも、イエスについていくこともできませんでした。大きな挫折感、自己嫌悪、悲しみ、不安で弟子達の心は冷え切り、固く閉ざされていました。そんな弟子達に対して、復活されたイエス・キリストは「あなたがたに平和があるように」と呼びかけたのです。「安心しなさい。わたしだよ」という意味です。もっと言えば、「安心しなさい。わたしは今もあなたがたのありのままを愛しているよ。」というメッセージです。このイエス・キリストの愛の挨拶によって、弟子達は安心し、固く閉ざされた心は開かれていったのでした。
 この弟子達ほど、深刻ではないでしょうが、この時期のこども達の心の不安は弟子たちと似ているところがあるように思います。新しい生活への不安です。そのようなこども達に対しても、イエス・キリストは「あなたがたに平和があるように」、「安心しなさい。あなたのありのままが大好きだよ。」と呼びかけておられます。このイエス・キリストの心にならって、わたしたちもこども達のありのままを受け入れ、安心して幼稚園生活を始めることができるように努めてまいります。
 こどもたちばかりではなく、ご家族の皆様も不安やご心配があるかもしれません。そのような折にはどうぞいつでもお声をお掛け下さい。
 そのようにして、四月、安心して「であう」月としたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 
 
4月園だより
『2017年度の始まりに寄せて』
                                                                                                                                                                                               
 四月になりました。私が今治の地にまいりまして一年が過ぎました。四国の第一印象は桜がとても綺麗でした。今年も楽しみです。でも何よりも楽しみなことは、こどもたちと共に新しい年度の歩みを始めることです。
 さて、私たちの今治めぐみ幼稚園はキリスト教保育の幼稚園です。保育の根本にキリスト教精神を置いて、そこを出発点として保育を行います。聖書の言葉を大切にし、年間聖句、毎月の聖書の言葉に学びながら保育を行っています。日々こども達と分かち合っています。
 今年度の年間聖句は
 「あなたがたは神に愛されている子供です。」 エフェソの信徒への手紙5章1節
です。
 すべての人は、神様から愛されている尊いかけがえのない存在です。その愛されている喜びを実感して、その愛に応えて互いに愛し合う者として歩む。それがこの聖書の言葉のメッセージです。そしてこの聖書の言葉のメッセージを幼稚園の生活を通して、こども達に伝えていきたいと思います。神様から愛され、家族から、教師から愛され、喜び、その愛に応えて、愛する者として歩むことを目指します。
 私がこどもの頃大好きだった本の一つが「小公子」です。その中で忘れられない一節があります。「父親は母親にやさしい言葉で話しかけた。すると生まれたこどももやさしい言葉で母親に話すようになった」。
 何もないところからは何も生まれません。ない袖は振れません。人は受けたことを出していくのです。幼い日に愛されて、やさしい言葉をたくさんもらったら、やさしい心に育てられて、やさしい言葉をたくさん話すようになるのです。たくさん愛をいただいて、愛される喜びに輝いて、愛する者として歩んでいってほしい。そう願っています。
 その愛の根本にすべての人を愛する神様の愛があります。今の日本社会、そのような愛が見失われているとしか思えないような出来事がたくさん起きています。心が痛みます。だからこそ、私たちはすべての人が愛されている。すべてのこども達が愛されているその喜びを実感していただける保育をこの年も行ってまいります。
 皆様のご理解とご協力をよろしくお願いします。
 
4月の聖句「あなたがたに平和があるように。」 ヨハネによる福音書第20章19節
 
 
 
3月園だより
 
   先日、発表会が行われました。皆様のご理解とご協力、ありがとうございました。
 室内行事ではありますが、天気が気になりました。私が会場に歩いて到着した午前9時ごろは曇り。ああよかった。発表会が終わって、歩いて幼稚園に着いたその時も雨はなし。でも発表会の間はザアザアと雨が降っていたとのこと・・・・
 そんな発表会。主催者の私が申し上げるのはおかしいかもしれませんが、こどもたちの成長の輝き、生きる喜びの輝きに圧倒されてしまいました。それから子どもたちと教師の心の結びつき、さらに子どもたちを温かく見守るご家族の眼差し、一番大好きな人たちに見てもらえる、拍手してもらえる喜びが満ち溢れていて、結局、私の目はやっぱり「雨」でした。目だけで済んだらよかったのですが・・・
 誤解を恐れず申します。私は発表会当日の「結果」よりも当日に至るまでの歩み、「過程」の方が大切だと考えています。この発表会で子どもたちとともに何を実現したいのか、どんな成長を願うのか、そのために当日に向けて、どう歩んでいくのか?当日に向けてどれくらい楽しめたか、どれくらい成長できたか?どれくらい生きる喜びを感じていたか?さらにそれがこども同士で、また教師とこどもで、励ましあい、支え合って歩んでくることができたか。そのような過程が当日の結果へとつながっていきます。そのような過程こそが子どもたちにとって最も大切だなのです。
 そのようにして培った幸せな経験が子どもたちの人間性の深いところに根付いて、子どもたちの一生の基礎となっていくことでしょう。
主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。詩編27編1節
 子ども達のこれからの歩みも神様が光を照らして導いてくださる。そんなおおらかな人生への信頼をもってそれぞれに新しい歩みへと踏み出して欲しいと思います。
 「一月は急ぐ、二月は逃げる、三月は去る」。とうとう三月です。でも、子どもたちの時間はまだまだあります。最後まで、子ども達の幸せと成長のために精一杯努めてまいります。どうぞよろしくお願いします。
 
3月の聖句 主はわたしの光、わたしを救い わたしは誰を恐れよう (詩編 27編1節)
 
2月 園だより
   
 寒中、お見舞い申し上げます。
 一年で一番寒い時期を過ごしています。皆様いかがお過ごしでしょうか?幼稚園では少しずつインフルエンザによるお休みが出てきて心配しています。
 私は、福井県の敦賀市からまいりました。その前は岩手県におりました。そういう身からしますと今年は随分暖かい冬を過ごさせていただいています。朝夕は少し冷え込むようですが、日中お天気が良いと暖かくて、ひよこ組のこども達は、園庭の人工芝の上で裸足で遊んでいました。ちょっとびっくり。まさしく「温暖」な地域なのですね。
 こども達は若干お休みの子もいますが、元気に登園してきています。休みが明けて、スムーズ三学期の生活に入っていけたようです。残り少ない三学期、良いスタートを切ることができたようでホッとしています。
 さて、2月の聖書の言葉は、
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」(コリントの信徒への手紙二第4章18節)です。
 目に見える結果が求められる世の中です。でも目に見えるものは目に見えないものに支えられていることを忘れてはいけません。「目に見えないもの」とは、何でしょうか?いろいろありますが、まず第一には「心」と言えるしょう。こども達の保育に当たる時、目に見える姿だけではなく、こども達の心の動きを常に大切にしていかなければなりません。今、こども達は何を感じているか、何を喜んでいるか、何に困っているか、何に興味があるのか、常にこども達の心を大切に、寄り添って保育してくことが大切です。「目に見えないもの」として、次に手がかりになるのは「過程」です。もうすぐ生活発表も行われます。そこでの本番当日の目に見える結果も大切ですが、特に幼児期はその日に至るまでの過程、こども達がどれだけ楽しんだか、どれだけ努力したか、どれだけ成長したかを大切にして行きたいと思います。そしてそのように当日は見えない過程を大切にしていく中で、こども達に豊かな成長の喜び、生きる喜び、生きる力というもっと深い意味での「目に見えない」大切なものが育っていくことでしょう。
 一月は行く、二月は逃げる、三月は去ると申しました。でも目に見えない子供達の心に寄り添い、一時日時を大切に歩む時、短く、早く流れていく時間にあっても素晴らし三学期となることでしょう。
 今月もどうぞ宜しくお願いします。
 寒中ですが、皆様のご健康をお祈りいたします。
       
 
1月 園だより
               三学期、保育の総仕上げ、こども達の成長を楽しみに
 
 新年明けまして、おめでとうございます。
 旧年中はありがとうございました。本年もどうぞ宜しくお願いします。
 皆様、それぞれに楽しいお正月を過ごされたことと思います。冬休みが明け、新しい年、こどもたちと再会できて、とても嬉しく思います。
 遅まきながら、12月には今治めぐみ幼稚園でも初めてのクリスマスを皆様とご一緒できて本当に感謝でした。イルミネーション点灯式には「びっくり本(もう古い?)」。度肝を抜かれて始まり、アドヴェントクランツにロウソクの明かりを一つまた一つと灯しながら、礼拝を重ねて準備し、クリスマス当日を迎えることができました。聖誕劇(ページェント)では、こども達一人一人が、クリスマス物語の登場人物そのものに見えてきて、深い感動を覚えました。クリスマス物語そのものが持っている力を感じました。。こども達も劇に参加し、演じることで、クリスマス物語をより深く、より豊かに味わい、楽しみ、経験し、神様の愛を心の深いところに受け止めたことでしょう。またご家庭の皆様の温かい眼差し。こどもたちが一番観て欲しいのは、大好きなご家族です。そのご家族に愛情のこもった眼差しで観ていただき、心温まる幸せなクリスマスとなったことだと思います。幼稚園の営みがそんなご家族の幸せな思い出とこどもたちの豊かな成長のためにお役に立てたのであれば幸いです。私はと言いますと皆様の歌の指揮をさせていただくということで、とても緊張しました。歌は好きですが、指揮は苦手で果たしてお役に立てたものか?それはともかく、こどもたちは、クリスマスという夜の物語に光り輝く姿で明かりを灯してくれました。
 さて、1月の聖書の言葉は、「光の子として歩みなさい。」(エフェソの信徒への手紙第5章8節)です。実はこの言葉、前任の幼稚園では毎年三月の聖書の言葉、卒園式に暗唱する言葉としておりました。そして私が下手な字で卒園生に送る聖書にこの言葉を書かせていただいていたのでした。個人的にも大好きですし、キリスト教保育の大切な要点を示してくれている言葉です。
 「光の子」とは、愛されている喜び、成長する喜びに輝くこどものことです。その実現のために必要なことは、たくさんたくさん愛されることです。ご家族から、教師から、お友達から豊かな愛を受け、愛される喜びに輝いて、互いに愛し合う経験を重ねることです。その愛をいただき、その愛を反映して、こども達は光り輝くのです。光の源は、自分の内にあるのではなく、他から受けるのです。また、より根本的には、イエス・キリストに示された神様が、こども達を豊かに愛してくださっている、その神様の愛を幼児教育を通してこども達に伝えることがキリスト教主義幼稚園のつとめです。この聖書の言葉から、そのことの大切さを改めて思わされました。
 さあ、三学期。年度末、保育の総仕上げの時期です。「一月は急ぐ、二月は逃げる、三月は去る」とも申します。焦ることなく、今を大切に、こども達と共に歩むことができる日々に感謝し、こども達が愛される喜び、成長する喜びに光り輝けるように精一杯保育に励んで参りたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
 皆様の新しい年に神様の祝福を心よりお祈りいたします。
 
1月の聖句  『光の子として歩みなさい』
           エフェソの信徒への手紙5章8節
 
12月園だより
                               クリスマス、ぬくもり、愛
私「ねえ、お名前〇〇ちゃんでよかったかな?」
園児「うん。そうだよ。」
私「やったー、だんだん覚えてきたでしょ」
園児「じゃあ、僕のお母さんのお名前知ってる?」
私「うーん。知らないなあ」
園児「じゃあ、教えてあげる僕のお母さんの名前はねえ〇〇っていうんだよ。」
私「そうか、そうなんだあ」
給食の時間、一生懸命子どもたちの名前を覚えています。こども達に名前を聞いたら、家族の名前まで教えてくれました。なんて幸せな子どもたちなんでしょう。名前を教えてもらった私は、それこそ「おすそわけ」をしてもらって、とても幸せな時間になりました。ご家族の愛のぬくもりに包まれているのだなと改めて思わされました。
 クリスマスがやってきます。寒いけれども暖かい、なんだか嬉しいクリスマスです。なんだかぬくもりが感じられます。誰かに優しくしてあげたくなるクリスマスの魅力は、その根っこに神様の愛があるからです。この世界を愛して、独り子イエス・キリストをお与え下さった神様の愛が私たちの心を温めてくれる、ぬくもりの源です。
 今治めぐみ幼稚園で迎える初めてのクリスマス、とても楽しみです。そしてみなさまのご家庭に、ぬくもり溢れる愛の溢れるクリスマスが来ますように心よりお祈りしています。
 
12月の聖句  『神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
        独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』
          ヨハネによる福音書 3章16節
 
 
11月園だより
 
                       共感力、思いやりの心
 私、実は体育会系です。運動が大好きです。年齢による体力の衰えは鍛え方が足りないんだと自分だけ(あくまでも自分だけ)には言い聞かせています。それでもどうしようもなく「歳のせいかなあ」と年齢を感じさせられることがあります。それは何かと言うと「涙もろく」なりました。この前の運動会、雨の中、年長組親子がダンスを踊っていらっしゃる様子を見ていた時のことです。ダンスの中、少し離れたところからお母さんに向かって「抱っこ」に走る寄るこども達の嬉しそうな顔、それを抱き上げるお母さん方の嬉しそうな顔。空は雨なのにそこだけは眩しく輝いていました。そして私の目はもう「どしゃ降り」、涙が止まりませんでした。幸せの風景とはこういうものなのだと教えられました。ありがとうございました。
 今月の聖書の言葉、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」は、人の心に寄り添い、感情を共にすることの大切さを伝えています。嬉しい時には共に笑い、悲しい時には共に涙する。そんな「共感力」、「思いやりの心」が大切です。ではその心はどうすれば育つのでしょうか?先ずは愛される喜びの経験をたくさんすることだと思います。自分自身が愛され、喜びを共にしてもらえる人、悲しみを共にしてくれる人と出会う経験、自分の心に寄り添って、ぬくもりを伝えてくれる経験、そんな経験の積み重ねの中で、「共感力」「思いやりの心」が育ちます。そしてこどもたちはもう既にそのような「共感力」、「思いやりの心」を自らの内に持っているんだなと思わされることが多々あります。そのことを喜びながら、こどもたちが幼稚園の生活の中で愛される経験をたくさんしてほしい。なによりも教職員一同、こどもたち一人一人の心に寄り添い、愛を伝える保育の歩みを続けてまいります。今月もどうぞ宜しくお願いします。
 
 
10月園だより
 
 相次ぐ台風のため、日本全国で大きな被害が出ています。今治は、幸いあまり被害はないようですが、皆様の大切な方々は大丈夫でしたのでしょうか?さて、ここ最近、降り続く雨の間を縫うようにして、子どもたちは運動会の練習に励んでいます。この前、日吉公園に練習を見に行きまして、感心したことがあります。それは星組の子どもたちが、ダンスの並び方が上手だったことです。私も幼稚園長として長年運動会に携わってまいりましたが、私が運動会で一番難しいと感じることは、いろいろな踊りの動きを覚えたり、早く走ったりすることではありません。その前の段階、等間隔で並ぶこと、これが一番難しいことだと思います。子どもたちは、踊りや体操の動きなどは上手にできるようになります。それでいながら、等間隔で並ぶことは、なかなかできないのです。どんなに上手に踊れても、動けても、並び方がうまくいかず、スペースがないと、力を発揮できないのです。そのことでは、今までもずいぶん苦労してきました。そういうわけで、めぐみ幼稚園のほし組さんには感心しています。運動会が楽しみです。
 さて、子どもたちが、運動会を目指して、楽しく体を動かしている姿、当たり前の姿です。でも、この当たり前の姿の尊さを思います。世界中には、戦争や様々な不正の中で子どもたちが脅かされています。子どもが毎日楽しく遊んでいる風景が当たり前になっていない現実がたくさんあるのです。残念なことです。子どもたちが、生き生きと楽しく遊んで、日々成長の喜びに輝いている。これを尊く思う心、これを決して忘れてはなりません。世の中は、経済優先、力関係が優先されます。しかし、こども達の幸せを尊ぶ心を失ってしまったらいけません。あたかもそれは、塩味を失ってしまった料理のように味わいのない、つまらない社会となってしまいます。そしてこども達の姿を光、希望として常に尊ぶ姿勢が、社会の真の幸せを実現します。
 そのような意味からも運動会は、とても大切な行事です。生き生きとした、成長の喜び溢れるこども達の姿を、ご家族の皆様と共に喜び、幸せを実感するひと時とし、実りの秋の素晴らしい思い出としたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 
 
9月園だより
 
 猛暑の夏でした。皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか?海に、山に、また旅行、楽しい思い出がたくさんできたことでしょう。こども達のお話が楽しみです。私は、宮崎県の生まれで、夏が大好きです。今治めぐみ幼稚園創立60周年記念誌をようやく完成させることができ、近々皆様にもお配りする予定となりました。教会関係の音楽講習会に参加して、礼拝について学んできました。個人的には、高校サッカー部のOB戦に出場して1ゴールして嬉しかったですね。実は私、草サッカーの現役(?)選手なのです。仕事の関係上、試合に出たことはありませんが・・・
 さて、夏、8月を過ごしていますと、平和のことを思わずにはいられません。かつての悲惨な戦争の記憶がどんどん風化しているようで心配です。今、憲法改正問題等も話題となっています。ご家庭の皆様におかれましても、政治的には、色々な立場があろうことかも思います。でも、私が幼稚園長として、切に願うことは、幼稚園に通っているこども達が、戦場に行かされたり、戦火に怯えるようなことだけは絶対にあってはならないということです。憎しみ合い、争い合うよりも、愛し合い、支え合う方が良いに決まっています。とてもシンプルなことです。それなのに、世界中で争いが絶えません。痛み、傷つき、飢え、命を奪われている人々が、こどもたちが沢山います。なぜ、それができないのか。本当に悲しいことです。
 今月の聖書に、「無垢でまっすぐに見る」姿は、幼稚園のこどもたちにぴったり当てはまる姿です。その姿、その生き方が、平和な人、未来につながるというのです。私たちが素晴らしい未来、平和な未来を創ろうとする時、大切なことは、「無垢でまっすぐな」存在であるこどもたちを常に見ることではないでしょうか。そこから私たちは、平和な未来を創り出す手がかり、エネルギーを与えられるのです。こどものあり方に学ぶこと、とても大切だと思います。こどもは、自ら学び、成長していく存在です。でも私たち大人はが、こどもから学ぶ。そういう姿勢もとても大切だと思います。
 二学期、運動会、遠足、バザー、そしてクリスマス。楽しい行事がいっぱいです。素晴らしい成長の喜び溢れる充実した二学期となるように精一杯、保育に励んでまいります。ご家庭の皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。


 
 
7月園だより
 
 梅雨の雨が続いています。皆様いかがお過ごしでしょうか?
 新学期が始まって三ヶ月が過ぎようとしています。ということは私がめぐみ幼稚園に参りましてから、三ヶ月が過ぎようとしていることともなります。こどもたちから「園長先生」と声をかけてもらえることがとても嬉しいです。私も新しい幼稚園でこどもたちを受け入れ、少しでも早く慣れていきたいと一生懸命勤めていますが、こどもたちは私に先んじて、もう既に私を園長として受け入れてくれているのだなあと実感することが多く、本当にありがたいことです。
 さて、幼稚園にいる時は、必ずこども達と一緒に給食をいただくことにしています。各クラスを順番に回っていますが、一回りしてまた同じクラスのこどもたちと食事をするまでには結構間が空いてしまいます。そうやって久しぶりに(?)こども達と食事をしていますとずいぶん様子が違うことに驚きます。短い時間の間にこども達は、新しい生活に慣れ、戸惑いを乗り越えて、成長していることを実感し、嬉しく思いました。
 そのようにして新しい生活に慣れ、自分自身が安定してくるとこども達は視野が広くなり、新しい遊び、新しい友達、新しい「世界」を「探し」始めます。そして旺盛な好奇心を持って、いろいろな事柄に挑戦していきます。そのような探求活動が旺盛になってくる時期がちょうどこの頃になるのです。そして新しい発見に驚き、新しい関わりの中で、ますます豊かに成長していきます。7月の聖書の言葉は「探しなさい。そうすれば見つかる」です。こどもたち一人一人が好奇心を持って意欲的に探し求める歩みの中で、神様は素晴らしい発見をプレゼントしてくださいます。そうやって「みつかった」ものを共に喜び、成長の糧としながら歩んでいきたいものです。
 この時期、そんな「探し求める」こども達の動きに寄り添い、共に探し、見つけたものを共に喜ぶ、その営みの中で、こども達の世界がますます豊かに広がっていくように努めたいと思います。
 一学期も残り少なくなりました。安全に留意しつつ、楽しい園生活のために励んでまいります。どうぞよろしくお願いします。
 
 
6月園だより
 
 先日、親子遠足、とても楽しかったですね。
 青い空に白い雲、緑の芝生に充実した遊具、「今治にはこんな良いところがあるんだ。」と感心した次第です。美しい自然の中で、お母さんと、お父さんと、ご家族と子どもたちが一緒に遊んでいる様子は、本当に幸せそうで、眩しかったです。本物の幸せは、決してお金で買うことはできないのだなと思わされ、ちょっぴりウルウルしてしまいました。どうも最近、歳のせいか、涙もろくなっていけません。
 今回の遠足、家族の幸せの「舞台」となったのは、美しい自然でした。この自然は、神様がお造りになったものです。聖書によれば、神様は、無秩序で混沌とした世界に光をもたらし、海と陸とを分けられ、昼と夜、天体の運行をさだめられました。そして地上に命をもたらされました。青い空、白い雲、輝く太陽、緑の山々、青い海、美しい草花、生き物、全てをお作りなった神様のご感想は「良し」でした。「我ながら良くできた」と満足され、祝福されたのです。
 このように世界は、神様がお造りになられたとても良いもの、「傑作」なのです。神様がお造りなられた故に、この世界は、神様のものです。私たち人間は、この世界を、神様が喜ばれるように大切に管理する責任を委ねられているのです。
 美しい自然の中で、幸せそうに遊ぶご家族の様子を見ていて、この幸せがいつまでもつづいてほしい。そのためにこの美しい自然、そして平和を大切にしなければならないと改めて思わされました。そして自然の美しさ、尊さ、そこで楽しく遊ぶことのできる喜びを子供たちとともにたくさん経験し、神様に感謝し、大切にする心が育って欲しいと願いつつ保育に励んでまいります。
 どうぞ宜しくお願いいたします。
 自然、
 とても良いもの
 
 
5月園だより
 
 着任して一ヶ月が過ぎようとしています。福井県の敦賀市からまいりまして、四国はもっと暖かいところだと期待していましたけれど、ずいぶんと肌寒い日が続いてとても意外でした。それでも大きな病気もせず、無事に務めさせていただいています。感謝です。
 今年は私も「新入園児」な訳で、少しずつ幼稚園の様子を見て、慣れていこうと務めています。保育の初日、二日目と怪我が続いて、本当に申し訳なく、心配しましたが、その後は大きな怪我もなく過ごしています。こどもたちはのびのびと遊びを楽しんでいます。子供達のありのままの姿を大切に受け止めて、そのこどもこどもに応じた対応を心がけていることがよくわかります。礼拝の時にはしっかりと集中してお話を楽しむことができています。結果として(ここが大切です)とても静かです。賛美歌の音程も正確で、無理して叫ぶように声を出したりしません。自然体で歌っています。とても歌が上手ですね。
 前園長を中心として教職員が、キリスト教保育本来のあり方を大切に実践してきたことがよく伝わってきました。キリスト教保育の本来のあり方とは、どういうことかと申しますと、一言で言えば「愛されて愛する者となる」ということができます。こどもたちがありのままの姿を喜びを持って受け入れられて、それぞれの個性に応じた援助を受け、大切に育まれていく。その中で、愛されている喜びを肌で感じ、喜びのうちに成長していく。そのようにして愛されて、大切にされて、育つ中で、他の人のこともたいせつに、愛する者として歩んでいくことができるようになる保育です。
 そのような「愛」の根本には、イエス・キリストに示された神の愛があります。神様は愛です。神様はこどもたちが大好きです。「わたしは、あなたたちのことが大好きだよ」という神様の愛のメッセージを、幼稚園の教職員全員で、幼稚園生活のあらゆる営みを通して、こどもたちに伝えて参ります。どうぞよろしくお願いします。
 
 
 

4月園だより

               安心

 園長・木谷 誠(きたに まこと)

 初めまして、今年度から今治めぐみ幼稚園の園長を務めることとなりました。前任地は福井年敦賀市で教会の牧師と幼稚園長でした。園長として務める幼稚園はこれで三つ目、通算で21年を迎えます。どの幼稚園も教会の幼稚園、キリスト教保育の幼稚園だったからでしょうか、今治めぐみ幼稚園の春休みの預かり保育の様子を見ていましても、幼稚園の保育の雰囲気、教師の子どもたちへの接し方に違和感を感じません。キリスト教保育の幼稚園は、少なくとも私の勤める幼稚園においては、子どもたち一人一人を大切に、笑顔で、温かく接し、子どもたちののびのびとした育ちを実現していく様子は変わらないようで、今治めぐみ幼稚園に赴任できたことをとても嬉しく思っております。

 四月、新入園、進級の時、子どもたちは新しい生活が始まります。喜びいっぱいの子、不安な子、両方入り混じった子、そんな子どもたちが、安心して新しい歩みを始めらえるように、まず笑顔で子どもたちと出会います。

 神様が、子どもたちとの出会いを与えてくださったことを感謝し、喜び、子どもたち、一人一人のありのままを受け入れます。そして適切な援助をなす中で、こどもたちが愛されている喜びに輝きますうに、生きる力を与えられ、豊かな成長の歩みをなしていきますように保育に励みます。そのようなキリスト教保育を通して、そしてこどもたちの幸せな幼児期を実現し、幸せな今が幸せな未来を創り出すことを信じます。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 
 
 
                        自己紹介
 木谷誠(きたにまこと)です。1959年12月15日生まれ56歳。宮崎県延岡市に生まれ、京都の同志社大学に学びました。前任の上島園長とは学生時代からの友人です。大学院を経て、岩手、岡山、岩手、福井の教会で働き、岡山では牧師のみ、岩手と福井では教会の牧師と幼稚園長を務めておりました。趣味は歌、チェロ演奏、サッカーです。こどもたちと一緒に歌ったり、チェロを聴いてもらったり、サッカーしたりしたいです。どうぞよろしくお願いします。
 
3月園だより
             何がなくなっていたのか?

 家(牧師館)が耐震改修のため、最低限の家財を運んで堂守室(ガリラヤ館2階)に仮住まいしている。ここは、もうずいぶん前に、幼稚園の主任の野間屋恵子先生、用務・園バス運転手の野間屋大先生が二人で住んでおられた部屋(2DK)だ。幼稚園舎建て替えの際には、臨時の職員室としても用いられたことがある(から、今もその掲示が残っている)。
 建物が古くなって、1階の台所こそ別の水道管で飲用水が引かれているが、水は飲めないし、ガスも使えない。3階にある共同風呂・トイレも利用不可だ。いわば、ないない尽くし。ところが、そんなここ(今、その部屋でタイプしている)が、なんとも居心地が良い。どうしてだろうと考えると、思い当たる節がある。
 まず、そんな場所を、教会・幼稚園の関係者が、掃除をし、ござを敷き、暖房を用意し、TVの配線をしてくださった。そんな心遣いが暖かい。また、広いスペースがあった頃、夫婦が、別の部屋で、それぞれの用を足すことが普通だったのが、一緒にすることが多くなったので、自ずと新婚時を思い出す(住まいは今の駐車場にかつてあった古い平屋)。
 そう、不便な場所に移って、いろいろなものを失ったように思われるのに、かえって、便利な生活の中で、たくさんのものを失っていたことに気づかされる。ふと、思い出す。新潟・妙高の合宿所の狭くて何もない管理別棟で薪ストーブ生活をした時、我が子が見せた生き生きとした顔を。本当に必要なものは、そう多くはないのだ。
 
 
2月園だより
           幼子に直接語りかけよう
 
 
 定期購読している『日経サイエンス』の3月号の特集は「子どもの脳と心」である。その中に、P.K.クール(ワシントン大)による「赤ちゃんの超言語力」という記事があった。それによると、赤ちゃんの脳は生後6カ月で「敏感期」に入り、母国語や他言語の音を最もよく認識できるようになるという。
 ところが、10カ月齢期を境に、例えば、raとlaを識別することが必要でない社会(例えば日本)では、その識別能力が低下する。こう言うと、早期多言語教育を進めているようだが、わたしが注目させられたのは、むしろ、次のことだ。すなわち、「幼児はどうやって言語を習得するか」である。
 クールは、シアトルに住む9カ月齢の幼児に中国語を聞かせる実験結果を紹介する。赤ちゃんを数人ずつ4つのグループに分けた上で、第一グループには中国語のネイティヴと本やおもちゃで一緒に遊ばせた。第二グループには中国語を話すビデオを見せた。第三には音声のみ聞かせた。第四は英語を話す人と本やおもちゃで遊ばせた。さて、その結果は?
 わたしたちは、第一グループは中国語に反応し、第四は無反応であると確信をもって予測する。そして、第一から第四まで、段階的に反応力が低下すると考えるのではないか。ところが、結果は、第二も第三も、第四と同様無反応だったのだ。そこから見えてくるのは何か。少なくとも赤ちゃんの言語習得には人との交流が「不可欠」だということだ。
 今、丹祐月先生がまもなく出産の期を迎える。その後は育休を得られる。育休はほぼ1年だ。この間の、赤ちゃんへの語りかけは大切だ。その際、よく「幼児語」が使われる。クールによれば、言語学習の妨げになると言われることのある「幼児語」も、実は、幼児の学習に役立つのだそうだ。なぜなら、「親子のコミュニケーション」を後押しするからだ。
 
 
1月園だより
                                     「鈴」の部屋?

 うかつなことに、子どもたちが絵本と出会う「鈴の部屋」が、なぜ「鈴」の部屋(正式には、<絵本の部屋「鈴」>)なのか、気になりつつも、知らずに来てしまった。お恥ずかしい限りである。前々任の園長のお連れ合いの榎本璋子(あきこ)さんが、今治を去られる前、新園舎竣工直前、に記された文章を最近読んだので、紹介しておきたい。
       鈴という名前は、童話作家、椋鳩十の著書『お母さんの声は金の鈴』からとったものです。幼い時に聴 
       いたお話(言葉)は愛する人の声と共に何かの折にヒョイと思い出し、その子の心の中で金の鈴のごと
       く鳴る、と述べています。私も子どもたちの心がそのように育ってほしいと心から願っています。……
        子どもの心は人の声を抜きにしては作られません。人の声が側で聞ける時は、人と人とが触れ合ってい
       る時でもあります。テレビ(機械音)はその代わりは出来ないのです。
                                                                           今治教会機関紙『まぶね』200号(2008年3月)
 我が家には、お正月に4人の子どもの内2人が帰ってきた。電話やLINEでのやりとりはしていたが、体を運んで来てくれた彼らの「声を側で聞ける時」となった。親の声を聴かせるのではなく、むしろ、子の声を聴かせてもらって、彼らの声が「(わたしたち親の)心の中で金の鈴のごとく鳴(った)」。
 保育士を始めて3年目になる次男の声には、何か保護者が先生から助言を受けるような響きがあり、ついこの間まで童謡をようやく歌っていた高1の四男の歌声は、山形の山奥の歌に満ちた全寮制の生活の中で、すっかり脱皮して、青年の輝きを感じさせた。彼らも戻って、新学期。子どもたちと目と目を合わせ、声を聴き合う毎日が始まろうとしている。
 
 
12月園だより
                                        アンサンブルって楽しい
クリスマス・イヴにリコーダー・アンサンブル・グループRICOTTAがやってくる。午前中には幼稚園向け、夜は市民向けのコンサートが予定されている。同グループは、すでに、リハーサルのため何度か今治を訪れている。ちょい役のわたしも練習に加わる。
幼稚園や学校で出会った音階を奏でる楽器は、まずハーモニカで、次にソプラノ・リコーダー、そして、中学生になってアルト・リコーダーだった。リコーダーは、小指の短いわたしには少々苦労なのだが、なぜか気に入ってしまう。
高校時代になると、プラスチック製に飽き足らず、メイプル材や紫檀材のまで買い求めた。また、バッハの『無伴奏バイオリン組曲』のリコーダー用編曲版に挑戦したり、ヘンデルの『水上の音楽』の編曲を吹いて、アンサンブルが奏でる音を想像したりした。
初めてアンサンブルをしたのは大学1年生のとき。グリークラブの4年生の先輩がクラッシック・ギターを弾いて、わたしのリコーダーと合わせてくれた。いつもは、合唱練習をするランキンチャペルの舞台で、うっとり……。「あ、ミス、先輩ごめんなさい。」
今回の練習でも、四分音符を八分音符で吹き急いで「ごめんなさい。」でも、息を合わせ、気配を察して自分のパートを吹き、あるいは一緒に吹くのは、とても楽しい。子どもらのクリスマス・ページェントの中にあるのも、このアンサンブルの喜びなのだと気づく。

 
 
園だより
 11月園だより
今治「めぐみ」幼稚園
今治めぐみ幼稚園の園章をご存知だろうか。円の中に「恵」の字が図案化されたものだ。「恵み」は、一般によく用いられる言葉であるし、名前にもなっている。ただ、キリスト教では、「神さまからの恵み」という意味で、とても大切にしている言葉だ。
有名なゴスペル「アメイジング・グレイス」の「グレイス」は「恵み」のこと。10月31日は498回目の宗教改革記念日だが、改革者たちは、人間は自分の行いによって救われるのでなく、神の「恩寵(めぐみ)ノミ」によって救われることを告白した。
さて、最近、わたしの出身高校の女子の徽章を手に入れた(男女別)。それは「雪持ち笹」で、緑の五枚の笹の葉の上に真っ白な雪が乗っているもの。女性の清らかさとしなやかさを意味する。男子の方は文武両道を示すペンと矛のデザインで、「雪持ち笹」に敵わない。
ただ、男子(旧制高松中学)の校歌(新制後は校友会の歌)の作曲家の方は、不思議な縁で、島崎藤村詞「椰子の実」の作曲をした大中寅二(霊南坂教会のオルガニスト)だと知る。
その子息の作曲家・大中恩(めぐみ)は、従弟で芥川賞作家・阪田寛夫の詞に曲をつけた童謡「サッちゃん」「おなかのへるうた」で有名だ。同志社小学校校歌も作曲、こちらの作詞は谷川俊太郎だ。♪偉い人になるよりも、良い人間になりたいな、同志社小の私たち。

 
 
10月園だより
 

       また いしょに あそぼね

 

沖縄の友人家族3人がシルバーウィークに愛媛にやって来た。年中のYちゃんは、電話で何度か話したことはあるし、写真も見ていたが、初お目見え。松山空港から空の旅と同じくらいの時間をかけて自動車で我が家へ。ようやくリュックを下して、さあ、夕食。

大人は積もる話をしたい。Yちゃんと折り合いのつかないままに、食事を終えると、妻が隣の部屋でYちゃんと遊び始めた。楽しげな声が聞こえてくる。ボードゲームをやっているらしい。こちらは安心して大人の話、でも隣も気になる。気もそぞろに夜は更けた。

翌朝、行き先を決めかねて、とりあえず、しまなみ海道の景色を楽しみながらドライブ。その間、大人中心に尾道か、子ども中心にとべ動物園か悩む。大人は諦めきれずに尾道に行ったものの、大渋滞でとんぼ返り。動物園に滑り込むが、すでに「閉店準備中」。

それでも、とにかく動物園に来られたことで、Yちゃんは満足のよう。でも、余りにも待たせすぎて、楽しむところまで行かない。「当然だよな」と反省。それでも、ライオンの母子や背高のっぽのキリンに会えて、よかった。

この日は道後泊で、朝にはもう沖縄へ。数日後、黒糖羊羹と共に、Yちゃんの手紙が届く。「かみじ いしょにまたあそぼね おきなわにきてね」 美枝さんの方はこうだ。「みえさん まえ いっしょにあそんで たのしかたよ またいしょにあそぼね Yより」

 

 
9月園だより
 
       字はおもしろい、人はおもしろい
 

「要らない新聞紙をください」そう言われて、慌てて新聞紙を探す。切り抜きのために取り除けたものでないことを確かめて、手渡した。すると、もともとそのつもりでなかった束の中のある面に「くせ字の味は人柄の味」という文章を見つけた。書き手は多摩美大卒の井原奈津子さん。18歳から500人以上を収集し、まねて理解を深めているとのこと。

個性的なフォント(書体データ)は売り買いされている時代、個人的に創造するのには限界があるが、「くせ字」ならば無尽蔵だ。そういえば、札幌で北星学園の高校教師をしていた頃、書道教師で書家の山田聳宇(しょうう)先生が、三悪筆と呼ばれた同僚教師の「書」を臨書しながら、その個性を抽出するのを見て驚いたことを思い出す。

めぐみ幼稚園は、自律性を引き出す自由保育をしているが、そういう保育であればあるほど、背後に、伸縮自在ながらも、カリキュラムがしっかりしていなければならないことを意識している。それゆえ、音楽・絵画造形・体育・遊びなどについてまとめてきたが、「きく・はなす・よむ・かく」については、学校化をおそれて、家庭に委ねて来た感が強い。

夏の園内研修では、「きく・はなす」について、絵本・歌・わらべ歌等の実践を意識化・共有化し、3年間を見通すことに手をつけた。「よむ」についても、日常的に文字に親ませていることを確認した。一方、「かく」は未開拓。幼稚園らしく、個々の字固有の造形(リズミックなフォルム)を意識させつつ導入したい。将来の個性豊かな書家(?)のために。

 

 

7月園だより

 

      雨の季節はまだつづくけれど

 

こどもたち全体の集まりの時に、「♪かえるのうたが」を輪唱した。こどもたちが、歌い始めると、先生たちが追いかける。途中、こどもはクヮクヮクヮクヮ、先生はグヮグヮグヮグヮグヮ、こどもケロケロケロケロ、先生ゲロゲロゲロゲロ、クヮクヮクヮ、グヮグヮグヮグヮ。どこまでも追いかけてくるがまがえる、あまがえるたちは逃げる逃げる逃げる。

この題名、実は「かえるのうた」ではなく「かえるの合唱」だ。元歌はドイツ語で、「夏の夜通し、かえるの歌が聞こえる。クヮクヮクヮクヮ、ケケケケケケケケ、クヮクヮクヮ。」わたしは「ケロケロ」と思っていたが日本語でもドイツ語同様「ケケケケ」派が多い。

そんな雨の季節には、6月の賛美歌「♪ぱらぱら落ちる 雨よ雨よ」がぴったりだった。「♪ぱらぱらぱらと なぜ落ちる」。「なぜ?」とふと考える。すると、こう続く。「♪かわいた土をやわらかにして きれいな花を咲かすため」。

雨の季節、きれいな花を咲かすのはあじさい。そして、あじさいにぴったりなのがカタツムリだ。「♪でんでんむしむしカタツムリ お前のあたまはどこにある」。そう! 殻に閉じこもって動かないのが、「角出せ、槍出せ、あたま出せ」に応えて、あたまを出す。

あたまを出しても、まだ見えないものがある。「♪でんでんむしむしカタツムリ お前の目だまはどこにある」。子どもたちが、「角出せ、槍出せ、目だま出せ」と待ちわびていると、じわっと目玉を突き出して、動き出す。そんな姿を子どもたちがクレヨンで写し取る。

 

 

6月園だより

       ♪耳をすまして風を聴く

 鯉のぼりの季節が終わろうとしている。風を感じる季節だった。風を受けて気持ちよさそうに泳ぐ鯉のぼりをもう少し観ていたい。子どもの教会では、この季節、凧揚げや紙飛行機飛ばしをする。やはり風を感じるためだ。

風がないと、鯉のぼりも、凧も元気が出ない。実は、人間も同じである。神さまからの風=聖霊(せいれい)を受けて、のびのびとこの世を泳いで行くのだ。その風は強ければいいわけではない。優しく、時には厳しく、愛情のこもった風が人を生かす。

先月も紹介したカトリック神父塩田泉さんの賛美歌集の中に、今時にぴったりの歌「生きる」を見つけて、子どもらと歌っている。余り音程の上下のない楽譜には、「ゆったり委ねて」と指示があって、幼子らにはどうだろうと思っていたが……。

♪耳をすまして風を聴く 神ののぞみを受けとめて

目をこらし風を観る 聖霊のながれ見つめつつ

耳に手を当て「風を聴き」、二本指で向こうを「見つめる」と子どもたちの歌に魂がこもる。

伴奏は、ギターのような沖縄出身の楽器「奏生(カナイ)」だ。以前保護者講演会で来園した「オマチマン」からプレゼントされたもの。小さな指ピックをつけて、一節ごとにCGCG(後半はオクターヴ上)と間奏を入れる。歌とともに子どもたちの心と体も動き出す。

 

5月園だより

        ♪キリストの平和が

 4月が終わる。こどもたちのあの声も聞けなくなる。「しがつのせいく:しゅイエス・キリストのめぐみとへいわが、あなたがたにあるように。」実は、その聖句に合わせて歌ってきたのが「♪キリストの平和」である。「♪キリストのへいわが、わたしたちのこころのすみずみにまでいきわたりますように」カトリック神父塩田泉さんが学生の頃の作だ。

氏は、その後も、シンプルでやさしい言葉とメロディーの歌を作り続けておられる。昨年以前より在園の方なら、昨年のクリスマス・ページェントの「天使の(マリアへの)お告げ」のところで歌われた賛美歌をご記憶だろうか。あれも、塩田さんのもの。「♪めぐみあふれるマリア、主はあなたとともにおられます 主はあなたをえらび、祝福されました」

さて、「♪キリストの平和」は少々抽象的かなと思い、手話つきで紹介した。「♪キリスト(両掌に釘跡を残す主)の平和(自分の両掌で握手してぐるっと輪を描く)がわたしたちの心の隅々にまで(左手で前を囲んだ内側に右人差し指を上から下へ動かす)ゆきわたります(畳んだ腕を伸ばしながらそろえた指を開いて行く)ように(お祈りの組み手)」

すると、子どもたちは、文字通り、心の隅々にまで行きわたる様に、この歌を自分のものとして行った。ことばを、手の形と表情と共に吸い取るのだ。改めて知る。子どもたちが言葉を獲得して行くのはこんな風であることを。彼らは言葉がどんな気持ちを載せているかを受け取っている。今日も、神々しい顔つきで、あの歌の手話を反芻する子どもたち。

 
4月園だより

               はじまり、はじまり

 東京町田の「しぜんの国保育園」で保育士3年目の次男・足日(何と読むでしょう?)が、初めて担任となった。3歳児クラスだ。これまで、副担任としてやってきた時とは違って、苦戦している。もっとも、同僚の経験豊かな副担任に助けられているのだが……。

 足日は言う。「やっぱり違うね……」、「どこが」とわたし。結局、ベテランは、子どもたち一人一人の性格や、その日園に来た時の様子を踏まえつつ、クラス全体としての動きを予測して、必要な声掛けや、援助をしているらしい。

 でも、わたしはひとりごつ。「君も、自作の大紙芝居(オリジナルストーリー)等でがんばってるよ。」つい先日は、「(いわさき)ちひろ美術館」で開催中の「聖コージズキンの誘惑展(スズキコージ絵本原画)」に行って、再び創作意欲を燃やしているようだし……。

 「めぐみ幼稚園」も、「ゆうこ先生」「ともこ先生」を送り出し、「ゆづき先生(経験1年)」「ちあき先生(新卒)」「たえ先生(事務室)」を迎える。それぞれ、「めぐみ」の新人だが、個性豊かなスタッフであり、得意を伸ばしつつ成長することを楽しみにしている。

どうか、彼らとベテラン・スタッフで歩み出す、新しい「めぐみ」をよろしくお願いします。これまで通り、子ども・保護者・スタッフが「共に育つ」中で、「やわらかに」「のびやかに」「あわてず」、まだ見ぬストーリーを紡いで行きましょう。はじまり、はじまり。

 

3月園だより

     森永ハイクラウン50年に寄せて
 

 「ロダの会」で絵本や物語を紹介し合う中に、『白鳥とくらした子』(原著1938年)があった。作・絵はシシリー・メアリー・バーカー、『花の妖精』シリーズで有名である。わたしがそれを知っているのは、幼い頃食べた「森永ハイクラウンチョコ」に彼女の『花の妖精』カードが1枚ずつ入っていて、いつも楽しみにしていたからだ。

わたしが卒園を迎えた1964年、普通のアイスクリームが10円、病気の時にようやく30円のアイスを買って貰えた時代に、パッケージも美しく登場した「ハイクラウン」は70円もしていた。なぜこんなぜいたくを……と思われるかもしれないが、実は、父がパチンコのおみやげ(景品)に、家族サービスで、このチョコを選んでくれたのだ(と思っている)。

さて、『白鳥とくらした子』では、女の子の父親が金稼ぎに航海に出る。彼女は留守世話役の家政婦に蔑にされながらも、かつて父が助けた白鳥たちに守られて成長する。何年も経って下船した父は、稼いだ金を人助けで服一枚と交換してしまっていた(実は不思議な服)。そして再会。非を詫びた家政婦は娘の父に赦され、三人は支え合って生きて行く。

父親は、先には、娘のためを思って、結局、娘を置き去りにしてしまった。しかし、今度は、娘のことを顧みずに人助けをして、却って、娘に大切な物を得た。思えば、彼がいない間娘を助けてくれたのも、彼がかつて目の前で苦しんでいるのを助けた白鳥であった。ためにすることはためにならず、ためにしないことがためになる。子育てはこういうもの。

 
 2月園だより

        ゆめでなわとびをする

 今治キリスト教会の元旦礼拝に、恒例の成人祝福式を行った。時間をつくって4人(10日後にもう一人)の卒園児が来てくれた。その際のプレゼントは、ここの所、エリナー・ファージョン作『マローンおばさん』の小型絵本(絵:エドワード・アーディゾーニ)だ。

 ファージョンは、物語の名手、『ムギと王さま』で第1回国際アンデルセン賞を授与されている。そんなファージョンに『エルシー・ドピック、ゆめでなわとびをする』がある。こちらは、シャーロット・ヴォークの水彩画が物語世界を映し出す、大型絵本である。

なわとび上手の少女、エルシーの評判がケーバーン山のフェアリーたちに届く。エルシーは、なわとび師匠アンディ・スパンディから三日月の晩ごとに、なわとびの秘術を教えてもらうことになる。驚くべきエルシー!そして、ケーバーン山はなわとびの聖地に。

やがて、その小さなとびなわが体に合わなくなると、その秘術も出来なくなる。彼女の評判は記憶の底に眠って行く。ここまでが前半。ふと、幼き我が子たちの披露してくれた秘術の数々を思い出す。今は、少々得意だが、普通の青年・少年だ。

物語後半は、ケーバーン山が新しい地主によって開発されようとする危機から始まる。ここで筋を語ってしまうのはNGだろう。ただ、普通のように見える我が子たちの中に、眠っているようだけれどエルシー・ドピックは生きているという読後感のみ記しておこう。

 
 
1月園だより

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」−1月の聖句より  伝道師 松田直樹

私は説教等でよく幼稚園のネタを使わせてもらっているが、その時、「こども」とか「こどもたち」という言葉を使う。説教で名前を出すわけにもいかず、ある種、便利な代名詞として用いているのだ。しかし、「こども」なるこどもがいるだろうか?
 実のところ、私にとっても「こども」は「こども」でしかなかった。だが、こどもたちと過ごすうちに、とりわけ、給食を共に食べるなど一緒に過ごすことの多いほし組の「こども」の名前は自然と覚えてくる。最初は似たよう顔に思えて見分けがつかなかった「こどもたち」も、気がつけばどう頑張っても見間違えようがなくなってしまう。そうなれば、自然と、漠然とした「こどもたち」ではすまなくなる。
 一月の聖句には共に座っている「兄弟」の姿が描かれている。この「兄弟」になるということは、つまり、そういうことではないだろうか。誰でもいい誰かでも、どうでもいい誰かでもない、その子でなければならないその子として愛する。それも、この「世」に産み落とされて「生きる」と言う同じ運命を背負った兄弟として。
 しかし、私たちは祝福された。兄弟と共に座っている今は、その恵みと喜びを祝し、心行くまで遊ぶための時なのだ。神は「兄弟」を祝し、その時を与えて下さった。「こども」と接する時、「こども」と話すとき、「こども」と遊ぶ時、そのような兄弟として接し、兄弟として話し、兄弟として遊ぶことができたら、それは「なんという恵み、なんという喜び」だろうと思う。

 


12月園だより

        クリスマスの香り

 クリスマスを待つ季節(待降節=アドヴェント)になると、キリスト教会ではアドヴェントクランツの4本のろうそくに毎週一つずつ点灯して行く。全てのろうそくに灯が点ると、クリスマスは目の前だ。今年も、1130日のアドヴェント第1日曜に向けて、前日29日に点灯式を行う。併せて、イルミネーションに光が踊る。
 わたしが記憶しているアドヴェントクランツは、ヒノキの葉に赤い実の付いたセイヨウヒイラギの葉を加えてドーナツ型に作ったものだ。青い葉が放つ生命の香りが、記憶に残る。今治教会では、クランツと別に、藤田司先生が、毎年、大きなクリスマス・リース作りに工夫を凝らす。時が来ると、先生は香りに包まれつつ、リースを礼拝堂入口に提げる。
 嗅覚は、「過去を呼び起こす桁外れの能力を備えている。」「それが何の匂いか、嗅いだときの情景はどうだったのか、その時にどのような感情を覚えたかなどを次々と喚起させる」(樺山紘一編『歴史学事典第2巻』)。ツーンと鼻を突く冷気の匂い、木の葉の香り、そして、燻るろうそくの香り、その全てがクリスマスの到来を告げる。
 子どもたちに、自然と暮らしの中にある、様々な香りのプレゼントをしてみては? クリスマス・リースを一緒に作ってみるとか……。きっと、子どもたちの嗅覚を通して、消えることのない思い出が刻まれることだろう。そうそう、本当のヒイラギは、同じ葉形ながら、実の方は紫。ただし、アドヴェントに咲く白い花は、素敵な香りを放つ。

 


11月園だより

       キンダーガートゥナーズ

 9月の終わりに、ドイツ・ミュンスターから二人の御嬢さんが今治教会・めぐみ幼稚園を訪れた。東京から福岡まで、(さらに韓国の仁川まで)の自転車旅行の途中で立ち寄ってくれたのだ。四国八十八カ所巡りではないが、教会を宿にしての長旅の一期一会である。
 食事を共にしつつ、わたしたち家族は、眼鏡をかけた活発なミリヤと、長い髪の物静かなハンナと会話を楽しんだ。ただ、ミリヤが「何人のキンダーガートゥナーがいるの?」と問うたのに対して、わたしが「110名ほど」と答えると、不可解そうな顔をした。
 話の流れで、教諭の数のことかと思い当たったので訂正した。かの語には「幼稚園児;教諭」双方の意味があった。園児の場合が「幼稚園のメンバー」ほどの意味なのに対して、教諭の場合は、語源に即して「子どもの園の園丁(ガーデナー)」である。
 ガーデナーは、庭園の造作・維持・管理などの関わり、植物学的知識を持つ専門家。であれば、わたしたち「キンダーガートゥナー」の役割を改めて思う。ただ、その庭は、拘束性の高いフレンチガーデンではなく、より自然なイングリッシュガーデンだろう。
 新年度より、国の子ども・子育て支援新制度が始まる。長年目指されていた幼保一元化が、複線(=一体化)の形で実現する。5歳児については、小学校準備教育的側面が強調されるが、むしろキンダーガートゥンならではの教育のひとつの到達点として充実させたい。

 


10
月園だより

                「キハ」の疾走

 「鉄ちゃん(鉄道ファン)」を自認するチャプレンの松田直樹せんせいは、子どもをわきに抱え、あるいは「お姫様抱っこ」して、砂煙を上げながら園庭を疾走する。ああ、これは「キハ」だ、と思わずひとりごちる。「キハ」とは、鉄道の車両についている記号で、「キ」は制御車(運転台)付きディーゼル車、「ハ」は普通車(イロハの一番下)を示す。

 なぜ、「クモロ」、すなわち、制御車付き電車(クモ)のグリーン車(ロ)ではないか。「なおき号」は、どう考えても架線から得た電気でモーター動かし、静かに走る電車ではなく、軽油を飲み込んでガガガーと唸りつつ走るディーゼル車からだ。その乗り心地もグリーン車ではなく普通車だ。でも、子どもたちは、「キハ」を「キイ(特等車)」のように愛す。

 実は、昔から「キハ」という呼び名は知っていた。でも、それが何であるかを積極的に調べようと思ったことはない。ところが、以前、教会&園のバザーで手に入れた古本で、小学生向けの絵本『算数と理科の本8 記号のなぞとき』の中の「機関車・電車の記号」の頁を開いたら、出てきた。列車の記号の分類がわかると、とたんに親しみが湧いてきた。

 ところで、その際購入した、同シリーズの第17巻最終頁に、これらの本の持ち主であった子どもの字で、「○こんどかう本」「□かった本」「△この本の名まえ」とあった。漢字の使い方から、おそらく小学校低学年。ちゃんと分類して、これらの本を愛読しているのが分かる。今42歳頃の彼(女)は、どんな大人になっているのだろう。

 


9
月園長だより

         虫眼とアニ眼

 めぐみ幼稚園の先輩教師・白石美恵子先生から文庫本をいただいた。養老孟司・宮崎駿著『虫眼とアニ眼』だ。最初の20頁ほどは宮崎駿の文とカラーのイラストで、いきなり宮崎ワールドとなる。「ぼくの知りあいに 虫眼を持つ少年がいる。絶滅危惧種のメダカだってわけなく 見つけてしまうのだ。ぼくだって子供の頃は持っていたはずなんだが……」

 今では子供までも虫眼を失いかけている。そこで宮崎は、「家をかえよう 町をかえよう 子供達に空間と時間を!!」と気炎を上げる。まるで『紅の豚』の主人公「ポルコ」のように。そこで「まず」考えたのは、「町のいちばんいい所に子供達のための保育園(幼稚園もかねる)を!」ということ。園が「まず最初」というのが、何とも、いいではないか。

 「子供達が夢中で遊べる所。地域の子供なら、誰でも入れる所。木や土、水と火、いきものと触れる所。子供達が家へ帰りたがらない保育園をつくる!!」「大人が手と口を出さなければ子供達はすぐ元気になる!!」園の地続きにはホスピス、そこに子供達が侵入する。広場は、ただの原っぱ。なんとなくあいている空地。

周りに拡がる町の名は「イーハトーブ」。宮澤賢治の心の中に在る理想郷の名だ。街並みも、家々も造り込みすぎず、それでいて、不思議な調和がとれている。そこには、自由な成長を保証する「設計図」がある。それは、50年前、小さく塀もない幼稚園で、虫や小さな魚を追いかける僕をそのまま受け留めてくれた先生たちの「心」の中にもあったものだ。

 


7月園長だより

    木々のいのち、木々の心を生かして

 先日、出来立てほやほやの本が「謹呈」の栞と共に送られてきた。『木霊 百年生きる木造建築』である。その表表紙には、後ろ手に森の木々を見て歩く白い顎鬚を蓄えた紳士、裏表紙は、両手を添えて立派な木を見上げる働き人が写る。帯にはこう書かれている。「こんな大工が、こんな建築家が、とことん議論を闘わしながら、正直な家づくりを続ける…。」

 「こんな建築家」というのが、この本の著者であり、わたしの前任教会の会員である村尾欣一さんだ。居心地のいいご自宅には多くの人々が集う。多様な樹々により「織り上げ」られた森、「こまくさ保育園」(お連れ合いが園長)には幼子が自由に遊び、新潟市プロテスタント教会公園墓地に建てられた納骨堂の柔らかな光の中には平安な眠りがあった。
 一方、「こんな大工」とは、村尾さんの教え子であり、家づくりのパートナー小川正樹さん。西岡常一の唯一の内弟子で薬師寺西塔の再建に携わった宮大工棟梁・小川三夫から自宅の建築を任されるほどの職人だ。
 本の表紙を見た瞬間、教会納骨堂建築の施主として、二人に誘われ、根曲り杉を切り出したばかりの山に、雪を踏みしめ分け入ったことを思い出した。それは、伐採という死の現場でありながら、新しい生への変成の場でもあった。そうなりえたのは、立ち木が、単なる木材になるのではなく、その個性を生かされて新しいいのちの一部となっていくからだ。
 わたしたちの子育ても、根曲りの個性的な杉を、扱いやすい建材へと均質化してしまうのでなく、厄介だけれどかけがえのない役を担う素晴らしい柱にしていくものでありたい。それが木々(子どもら)のいのち、その心に応えることだ。
 


6
月園長だより

        息子たちを訪ねて

 日曜朝礼拝を終えると、東京出張に出かけた。新横浜から横浜線に乗り換え、JR町田駅着、6時間の旅の後、東京在住の3人の息子たちと夕食を共にする。長男が大学生だったころバイトをしていた醤油料理・天忠。味に間違いがないので、安心して会話を楽しんだ。

その夜、次男と三男がシェアするアパート泊。学生の三男は、授業準備が大変だと、奥の部屋へ籠る。保育士の次男も机に着いて、園のバザーに出品するための作品づくりの続きを始めた。小学校の頃手に入れたスズキコージの絵本原画が作業を眺めている。

レースの縁取りが施された段ボール素材の手作りキャンバスには、青空と雲とが配されている。そこに、白い厚紙を立体に組んで、いくつもの雲を浮かばせるらしい。静かに鋏の音が響く。こんなに手間暇かけても、「1,000円くらいで売れたらいいな」とのこと。

月曜は、早朝から満員の小田急電車に揺られ、中央線に乗り換えてお茶の水で降り、夕方まで、キリスト教保育連盟総会と学習会。「子ども・子育て支援新制度」についての講師は新制度の委員とやらで、「まだ公にできないこともある」と歯切れが悪い。

 夕方、日曜に体育主任として運動会を終えたばかりの長男とデート。乞われて、小学校の同僚教師と楽しむための新しいギターを見たてる。買ってくださいと主張していた手ごろな一本を購入し、1DKマンションへ。さっそくいじり始めた。ほっとして眠りに就く。
 


5月園長だより

        子どもの日に寄せて

 ある休日、田畑の続く郊外に車を走らせた。ソメイヨシノは八重桜に主役を譲り、道々、藤や桐の紫色が目を引く。そんな中、集落のところどころ、五月の節句のこいのぼりが、薫風に泳いでいる。一軒一軒に、家族の愛情を一杯に受けている子どものいることが想像され、心が温かくなった。

 節句と言えば、わたしたち夫婦は、道後を訪れると一刀彫「南雲」のお店に立ち寄る。そこに置いてある「桃太郎の誕生」を見るたび手が伸びて、でも、値札を見て、手を引っ込める。もっとも、夫婦のマイブームは、もっと一般的な(安価な!)、しかし、伝統的ないわれを持ち、人情のある「民藝」品の方である。

 わたしが一時育った高松には、赤い着衣の「奉公さん」がある。「病を得たお姫様の病を、身に移しうけ、お姫さま全快の祈願をこめて、海のかなたの離れ島に流し人となり、短い一生をおえたおマキ」の記憶を宿す人形だ。以来、奉公人形は子どもの病を身に受けて海に流されつつ、彼らの病を癒してきた。十字架上に人々の罪を引き受けたキリストに似る。

最近、妻が教えてくれたのは、京都・伏見人形の「饅頭喰い」。「両親のどちらが大事かと聞かれた子供が、手に持っていた饅頭をふたつに割り、どちらが美味いかと問い返した」という説話に基づくもので、この人形を飾ると子どもたちが賢く育つらしい。もっとも、飾るのは賢く育てるためでなく、こんな子どもの賢さに目を瞠り、親業を深めていくためなのかも知れない。

 


4月園長だより


      桜の木とともに子どもたちを迎え、送り出し

 

 桜の花がほころび始めた3月の終わり、歴任幼稚園スタッフも大勢迎えて、めぐみ幼稚園の60年をお祝いする会を持った。卒園したばかりの子どもたちの歌に、ここで育った数えきれない子どもたちの面影を追う。98歳となられた第二代園長・上野光隆牧師も、京都から駆けつけて、祝福の祈りをささげてくださった。

 集まった人々の中に、一輪、あでやかな、桜色の和服姿があった。30年程前まで主任をつとめてくださった川添先生だ。昨年怪我をされながら、『記念誌(未発行)』のために、園庭で春を彩っていた桜の古木に寄せる一文を届けてくださった。漸く癒えられたら、今度は病で倒れられた。集いへの出席も危ぶまれた。……そして、春。桜は咲いた。

   あれは風の冷たい二月ごろの事だったと思います。年長組の子どもたちが桜の太い幹の周りにイーゼルを立ててこの木を描くことになったのです。子どもたちはめいめいその幹にさわって、「固いな」、「どこに花が入っているのかな」などといいながら、鉛筆で描き始めたのでした。春には新しい芽が吹き、やがて蕾が出来てきて花が咲くのだよ、などと口々にいいながら、寒さも忘れて描いていました。……あのころ、桜の古木は画材としては幼児たちには難しいと思ったのですが、出来上がった作品はそれぞれ見事なものでした。子どもたちの真剣なまなざしや、鋭い表現力に圧倒されたことをいまもあざやかに思い出します。そして、あの門の桜が、成長した幼児一人一人の胸の奥にいつまでも残っていると信じています。      川添綾子「刻の宴」より

 

月 園長だより

             
ド、

 先日、神谷徹さんがストロー笛で、多彩な演奏をしてくださった。長さの違うストロー、形の違うストロー、それは虫になり、動物になり、ボールになり、ロケットとなり飛んで行った。リコーダーのように指孔を開けて音の高さを変えるものもあれば、トロンボーンのように管の長さを変えて音程を変えるものもある。
 先が完全には読めないのがわくわくするリトミックと似て、創り出される音の意外性、時には失敗する(けれどそれを工夫で成功へと導く)手作り感に、聴き手は、聴いているというより、演奏者と一緒になって音を楽しんだ。にんじんトロンボーン作りの実演でも、「ほんとうにうまくいくのかな」……はらはらしながら見守ると……「鳴った!」
 どの一つも同じ音色はない。昔読んだ武満徹の言葉を思い出した。「音というのは生命と同じように多様で、たとえばド・レ・ミ・ファ・ソのドの音にしてもフルートの吹く音とオーボエが吹く音とでは性格がぜんぜん違う。……一つの音には測り知れないほどの夾雑物があると考えている。そうじゃないとその音を具体的な音として支えることができない。」
 「測り知れないほどの夾雑物」とは、わたしたち人間の「ひみつ」「ふしぎ」だ。兄弟姉妹で、似た遺伝子、似た生活環境を持ちながらも、誰一人同じ子がいないように、それぞれが異なった潜在的可能性を持ち、その子ならではの経験をして成長している。「その子にしか出せない音」を支える「夾雑物」を、美しくも不完全に結晶させながら。
 


月 園長だより

                  鬼はそと!

 たまたま新月で始まった新しい年も、満ち欠けする月に導かれながら、新月に戻った。今日は、太陰太陽暦の元旦である。そして、まもなく節分がやってくる。鬼がやってくる……わけではなく、やってくる鬼を払うのだが……。
 この季節が巡って来るたびに思い出すのは、息子たちの保育園での節分行事である。時には、「バリン!」、ガラス戸を壊して鬼が侵入してくる(あまりに迫真の演技で、勢いの余り割ってしまったのであるが、観ている方にすれば、ただごとでない)。
ある年の「豆まき」、元気のいい響(長男・ひびき)が、代表して鬼に立ちはだかる。鬼は、「俺たちの国へ行くか?」と問う。響は「いいよ」と答える。するとと、ぐいぐいぐいと本当につれて行かれそうになった。響の顔がこわばる。
 やりとりを「ひとごと」として観ていた他の子どもたちも固まる。それを観ていた足日(次男・たるひ)は、固まる域を超えた。不安と怖ろしさにくしゃくしゃとなった顔の奥から、怒りの形相で鬼を睨む。後ずさりしながらも、兄を救おうと、懸命に豆を投げた。
 そんな弟を、兄は今も(精神的に)頼りにしている。鬼に勝つだけの力があるからではなく、そんな鬼にでも我を忘れて立ち向かってくれる奴だから。足日は、勤め始めた「しぜんの国保育園(町田市)」で、鬼の役をやると言う。今、その準備に余念がない。

 

月 園長だより

                 かぐや姫の物語  

 我が家では、子どもたちへのクリスマス・プレゼントに本を一冊買うことにしている。ファッションの世界を目指す三男のために選んだのは『デッサン・ド・モード 美しい人を描く』で、長沢節の書いた本の新装版だった。1917年に生まれ、1999年に既に亡くなっている長沢の、古びることのないデッサンは、彼のことを何も知らないわたしの目を止めた。
 ところで、子どものための買い物なのだが、自分の本も一冊買った。和風の装丁が美しい『月のこよみ2014』で、天文関係の出版社から出ているものだ。そこで2014年が月齢0.0から始まる珍しい年であることを発見。この本、毎月の星空も載っていて、天空を黄色い月が満ち欠けしながら、空色の天の川を横切り、赤い軌道を巡っている。
 正月4日、上の二人の息子が仕事のため帰京した夜、「月」を題材にした映画『かぐや姫の物語』を家族4人で観た。テーマもさることながら、監督の高畑勲が、極力余計な線を排し、日本の絵巻物の手法を活かして作っているのが、実際どう映るのか気になっていた。果たして、スクリーン上には、まるで紙の手ざわりの画が、生き生きと動いていた。
 はっとさせられた。長沢節の服飾デッサンも、『月のこよみ』のデザインも、高畑勲の映像も、こまごまと書き込んだり、べったり塗り込んだりしていない。色も最小限のものに抑えられている。その分、わたしたち見る側の想像力を引き出してくれる。わたしたちの子育ても、そんなものでありたい。8日の今宵は、完全な半月である。虚心に見上げよう。

 


12月 園長だより

 伝えたい・聴き取りたい・感じたい……それだけで

子どもの教会では、1124日の日曜日、礼拝の後、いつもガリラヤ館の2階で礼拝をしている東洋ローア・キリスト伝道教会と交流した。「手の言葉」を使われる方々とコミュニケーションするということで、予め、指文字での自己紹介や手話賛美の練習をして備えた。
 その日、どきどきしながら、会場である牧師室に集まった。しかし、相手方は積極的に手話で話しかけてくださり、こちらもおそるおそる、合っているか合っていないか、自身のない身振り手振りで応じると、気持ちが通い始めた。
 そのうち、筆談をも交えながら、とにかく、伝えたい、聴き取りたい、感じたい、ただそれだけだったのだが、気まずい間が生まれる余地もなく、会話が続いていった。そのうち、互いに立ち上がったり、目を大きく見開いたり……ちょっとした祝宴となった。
 子どもたちは手話賛美を披露した。その後、何名かが覚えたての指文字自己紹介をしたら、ローアの方々が「こうも表現できる」と、○月ちゃんの「月」は三日月の形とか、藤○ちゃんの「藤」は藤棚から下がる藤の花の形とか教えてくれた。
 すると、不思議、ふしぎ、その子の名前が、生き生きと立ち上がった。「手の言葉」が、こうして、存在感豊かに、ぼくたちの目の前に現れた。今度、お会いする時には、習いたての「こんにちは」で、「可愛く」挨拶できると思うと、今からわくわくする。

 

11月 園長だより

        ことばが生まれる朝

 わたしは、「あさ」をテーマとした絵本を二冊持っている。一冊目は、ずっと昔に購入したユリー・シュルヴィッツのDAWN(第5刷1986、初版1974)だ。頁をめくると、山間の湖の、静かなしずかな夜明けに、いつ間にか、入り込む。息子たちにも読み聞かせた。その後、『よあけ』として、瀬田貞二訳(1977)で福音館書店からも出ていることを知る。
この度手に入れたもう一冊は、絵・井沢洋二/文・舟越カンナ『あさ One morning』(1985)である。たまたま、新潟教会時代の知人の眼科医で、夫をガンで亡くしてから京都に戻り、日本バプテスト病院ホスピス・ボランティアをしている橘俟子さんが、母上の1年を記念してくださった末盛千枝子(父上は彫刻家・舟越保武)の本を通して出会った。
この本は、末盛千枝子が夫を亡くした後、小さい子どもを育てながら取り組んだ絵本プロデュースの仕事から生まれた一冊だ。街中のありふれた日常の朝。しかし、ここにも、色、音、香り、うごき、静寂があって、その全てが愛おしい。絵には、千枝子の20歳離れた妹によって、過不足ない短い言葉が添えられた。そのセンスの秘密は次の通りだ。
「末の妹によく絵本をよんでやることがあったんです。父の所に出入りしていた出版社の方が見せて下さった外国の絵本が、絵も言葉もとても美しくて、この世にこんなに美しいものがあったのかと驚きました。……末の妹は話し始めるのがとても遅かったのですが、ある日突然、私が読んでやっていた絵本の言葉をしゃべりだしたんです。カイコが糸を吐き出すみたいに。それは『ある日お庭に小鳥が来てね、つっぴん、つっぴん鳴いてたよ』というとても綺麗な歌でした。」
 


10月 園長だより


         子どもたちと「お月見」をしましたか?

  「919日は何の日?」「仲秋の名月」、「お月見をした人?」「見たよ」「……」、「お団子を食べた人」「お団子?」「……」、「ススキを取ってきた人」「……」「……」。実際に子どもに質問したわけではない。でも何人かのお母さんから聞いたところでは、こんな感じだ。
  我が家は、その夜、突如思いついて、久しぶりに「お月見」をした。怜の大好きな松田直樹先生も呼んで。妻は有り合わせのうるち米の粉で団子を茹で(餡子も添え)、近くのススキを刈って花瓶に活けた。庭に木のベンチを出して、木の折りたたみ椅子を拡げた。
  空は前日ほどクリアでなかったが、満月はそこそこの位置まで上がっている。それを、電線が邪魔をする。街中での月見は無粋だ……としばらく月を眺めていると、やがて、白いまん丸の月は、電線にかかる。今度は、次の電線との間に入る。「ミだ!」「ファだ!」
  そうなると、一句ひねり出したくなった。というのも、札幌時代、まだ小さかった息子(2人!)と、住んでいたマンションの中庭から満月を見上げながら、句会でもないが、共に一句をひねり出そうとして、互いの陳腐な句に笑い合ったことを思い出したからだ。
  今年の作は、「満月や 空の五線譜かけあがり」。あの日の満月を見上げた次男(保育士)に電話で「どういう光景を詠んだ句かわかる?」と聞いたら、苦笑しながら、一応分かってくれたが、やっぱり陳腐だ。「満月符(=全音符)」に替えると……くどいか……
  風流とはとても言えない「お月見」だったが、何かゆっくりした時間が過ごせた。怜と松田先生は、砕石の庭(駐車場)に仲よく這いつくばって、石の間からたくましく生え出たドクダミを臭っている。いつの間にか、満月符は、五線を抜け出て輝いていた。

 
 
9月 園長だより

  飛ぶ蚊、走るゴキブリ、歩く人間、一番速いのは?
 
  2学期に向けて、二日にわたって園内研修をした。『実践記録集』のための発表、運動会のイメージ作り、一学期の振り返り、二学期の当面の予定。子どもたちを育てるための課題は山積、難しい顔も、時には涙も。しかし、互いのユーモアの中で笑顔がこぼれる。
  だから、というわけでもないが、二日目の最初に、わたしが出したクイズは、蚊とゴキブリと人間、一番速いのは?というものだ。何人かに答えてもらったが正答者はいなかった。ここで、先を読むのをやめて、どれが一番か考えてほしい。答えは最後に記しておく。
  ネタ本は、京都の恵文社一乗寺店の書棚で出会った、松田行正編『1000億分の1の太陽系+400万分の1の光速』。太陽系の半径、50天文単位(太陽と地球の距離の50倍=75億?)を1000億分の1のスケール(600頁=7500?=75m)に縮めて表現したものだ。
  これを繰っていると、改めて地球と太陽の近さを感じる。また、太陽系で最も遠い海王星でも全太陽系の6割の位置でしかなく、その先4割をなお太陽の作用圏にあることが分かる。ふと、幼いころの子どもとの関わりが、その子の生涯を支える光となることを思う。
   編者は、光が1秒間に進む距離30万?を400万分の1にして、同じ頁数の中に表現した。水星を少し過ぎたところに、蚊の飛行速度69?/秒が出てくる。その後、金星さらに地球を過ぎたところに、人間の歩行速度とゴキブリの速度が1.5m/秒で、仲よく登場する。
   皆さんは正しく答えられただろうか。わたしたちの想像と、実際とは一致しない。だから、わたしたちの基準で子どもを測るのでなく、子どもが何を思い、どうふるまっているかを注意深く観察して、彼らに寄り添いたい。そこから新たな出会いが始まる。
 

7月 園長だより

                       青い鳥を探して歩くと……
 
3月のこの欄に、「ふぞろいな石ころたち」という一文を書いた。小説『二十四の瞳』の「岬の分教場」を訪ねたときに拾ったペンギンの風体の石のことを紹介したのだ。それがきっかけで、ロダの会6月例会では、「石ころ探し」に行こうということになった。
わたしはロダの会参加者(幼稚園のお母さんや同OB)の期待を背負って、事前に蒼社川沿い、桜井海岸等、近場のあちらこちら探索したが、「いい」場所がなく、結局、集会の拠点として都合の良いサンライズ糸山の海岸で石拾いをすることにした。
そこは、あのペンギン石のような「いい」石ころがふんだんにある場所ではなかったが、それゆえかえって、部屋に戻ってのプレゼンでは、各々、ありふれた石一個の美しさを知らせたり、人間や動物に「見立て」たり、組み合わせの妙を紹介したりしたのだった。
特に興味深かったのは、石ころを数個集めて家族に「見立て」た人が複数いたことだ。わたしは椅子のような形のこぶし大の石を見つけ、その上に何かを座らせようと思いついた。そこに顔のように見える石を載せると、不思議な味わいが出てきた。
メーテルリンクの『青い鳥』ではないが、幸福の象徴である青い鳥は、結局のところ自分達に最も手近なところにあるのである。それは、既に「在る」ものを見直すことにより、また、周りとのつながりの中に、「いい」を超えて見出される。子どもたちも同じだ。
 

6月 園長だより

      雨は高いところから「ぱらぱら落ちる」

♪ぱらぱら落ちる雨よ、雨よ〜。小さいころから数えきれないほど歌ってきた賛美歌だ。「ぱらぱら」の「ぱ」は「上のド」。「落ちる」の「る」は「下のド」、印象的な下降音階が、1節では雨、2節では雪が天(そら)から落ちてくるのを表現する。
雨は、「乾いた土を柔らかにして、きれいな花を咲かすため」。雪は、「葉のない枝に暖かそうな、真綿の服を着せるため」。3節の星は、「旅する人が暗い夜にも、迷わず道を行けるため」。4節の鳥は、「きれいな歌で世界の人に、み神の愛を知らすため」。
賛美歌で必出と言える「神」の語は、この歌では、最後の最後に出てくるだけだ。これだって、種明かしのように「神」を使わず、1〜3節に倣って、「生きる喜び知らすため」でもいい。それでも、その背後に、わたしたちが表現しきれない存在を感じ取れる。
全節、前半は「なぜ落ちる?」「なぜ光る?」「なぜ歌う?」と問いかけ、後半は「〜(する)ため」と答える掛け合いになっている。わたしたちも童心に帰って、わたしたちが生きている世界に心を開いてみよう。問いかけてみよう。彼らはきっと応えてくれる。
最後に、この歌を伴奏なしで口ずさむなら、最初の「上のド」を高くとろう。天から落ちてくるのだから。そうしないと、「落ちる」雨や雪は地下に潜ってしまい、「る」に点々をつけたように泥まみれに――それもいいが(笑)。子どもと一緒に是非歌ってみてほしい。
 

5月 園長だより

          朝の見守り役
 
めぐみの朝は早い。バスの運転手は6時半にはもう来ている。7時15分には早番の先生を乗せた1便バスが出発する。わたしは遅番の先生と共に、7時50分から朝のお祈りの時間を持つ。その日の司会が、「さんびか」をリードし、「大きな声で、ハレルヤ!」。聖句を暗誦し、その日の保育とバスの安全を祈る。簡単な打ち合わせをして、8時には終わる。
子どもたちもぼつぼつ集まり始める。大型バスの1便が帰ってくると、幼稚園は少しずつにぎやかに。今年は、先生たちがバスに添乗して、教室が手薄になる時間帯の見守りにわたしも加わらせてもらっている。時には、教会の方の打ち合わせが始まる9時半(バスの最終便が到着する直前)ぎりぎりまで見守って(遊んでもらって?)いる時もある。
シール帳にシールを貼り、連絡ノート類を出し、タオルをかけ、コップと歯ブラシと水筒を置き、リュックと手提げと帽子を掛け……上靴も忘れず履いて、漸く、最初の作業が終わる。そこからは、一人で、また、友だちと、さまざまな遊びに興じ始める。積み木で大架橋を作ってみせる子ども、10以上の手順でハートを折り紙してくれる子ども。
こちらも動く遊具として子どもたちと戯れる。両手をつないででんぐり返し、ハイジャンプ、回転……ちょっと息切れして、「休憩!」。ぽつぽつと話をしてくれる子、聞いて聞いてと情熱的に語る子、「座って」と言っておぶさってくる子、「お鍋の所に来て」と誘いに来る子……。全員がそろう前のちょっと自由な、幸せな時間。
 

2013年度4月 園長だより

         さくら、さくら

  28年前、今治めぐみ幼稚園でチャプレン=幼稚園付き牧師(の卵)を3年間務めました。その頃、園の正門には大きな桜の木がありました。始園・入園式のころともなると、桜は、幹から広がる枝々を薄桃色の花衣で装って、子どもたちを迎えてくれたものです。
札幌、新潟と転勤をして、3年前に帰ってきたら、その桜はいなくなっていました。その喪失感は相当なものでした。今は、それに替わって、小ぶりの桜木と、幼木が植えられています。あと何十年たったら、あの木ほどに大きくなるのでしょうか。
4月初め、休みをとって、家族でドライブを楽しみました。今治から丹原を抜け、桜三里を通って松山へ。名前通り、三里の道は、桜、桜、また桜です。道沿いの桜に、谷を隔てた山に点在する桜、密集する桜に、存在感あふれる一本桜。野も山も和んでいました。
その1か月ほど前、太い木の幹の一部が園庭に運ばれてきて、藤田司先生ののこぎりの音が響きました。永遠に喪われたと思っていたあの桜でした。春分の日には、桜の花枝が挿されてよみがえりました。わたしは、ドキドキしながら、卒園児を見送りました。
 


3月 園長だより

       ふぞろいな石ころたち
 
 また、石の話から……。先日、「ロダの会」に集ったお母さんたちに、石ころを見せた。研修で小豆島を訪ねた際、足を伸ばして小説『二十四の瞳』ゆかりの「岬の分教場」に行き、その堤防下の浜辺にゴロゴロと打ち寄せられている中から、捜し出したものだ。
さぞあきれられると思いきや、意外と反応がいい。均整のとれない円錐形のそれは、首を少し突き出したペンギンの風体に似る。頭の辺りには石英の細い筋が巡っていて、ちょっと猫背の後ろ姿には哀愁が漂う。底は完全な平らでない分、テーブルに置くと前後に体を揺らす。
発表会が終わった。不揃いな石ころたちが、思わぬ造形を生み出し、絶妙のハーモニーを奏でた。完全な円錐や、完全な立方体を、きちんと並べても生まれない美があった。演ずる喜びを爆発させている子の隣で、煉瓦のお家が倒れないように見守り続ける子がいる美しさ。
太鼓のバチの出遅れを、懸命に取り戻した石ころと鼓動を合わせて音楽を創って行った石ころたちの場合、その美が、発表用の楽器に習熟するだけにとどまらず、練習で様々な楽器と戯れ、奏する楽しみを味わっていたところから来ていると聞いて、納得。
 わたしは、先に、石ひとつの持つ絶妙なバランスに美を認めた。しかし、この発表を見ているうちに、自己完結的な石ではなく、他の石と組み合わされることによって生まれる、その都度新しい美の誕生にこそ注目せねばと思えてきた。うちのペンギンにも仲間を見つけなきゃ。
 


2月園長だより

      探しなさい。そうすれば、見つかる。
 
 お年玉で新しいテニス・ラケット(前衛用)を買った怜が、向かいの教会駐車場で「壁打ち」をするようになってしばらくしたある夜、戻ってきて、「お父さん星がきれいだよ」と、玄関先から声。わたしは腰を上げ、一枚羽織って裸足のまま靴をつっかけ、外に出た。妻も後ろから付いてくる。見上げれば月齢10の月が煌々と照る隣に木星が「負けじ」と光っていた。
息子が聞く、「冬の大三角形ってどれ」。「ええっと、オリオン座の赤い星ベテルギウスと、その左下にある一番明るい恒星シリウスと、……それから何だっけな。あの辺りの星なんだけどな」、とわたし。分からないままでは残念なので、急いで部屋に戻り、PC持参で探す。「ああ、そうか、プロキオンだ。こいぬ座のα星。そして、シリウスはおおいぬ座のα星、忘れてたなぁ。ほらほらあれだよ」、一通り聞くと、息子は天球から手元の球の方へ戻っていった。
わたしは、なお、空を見上げて、冬の大三角形をピースのひとつとする「冬のダイヤモンド(六角形)」探しに熱中。天を指差しながら、「プロキオンの左上にあるふたご座のポルックス、そして、天頂近くのカペラ、右下に降りてアルデバラン、最後に、オリオン座のリゲル」と独りごつ。でも、「ふたご座って本当に双子だよね」には妻が素早く反応。「『ベルサイユのばら』のオスカルとアンドレは、カストルとポルックスに例えられてたわ」。「へー」とわたし。
さらに調べると、冬の南天の明るい星たちには、「シリウスの大円弧」「ビッグG」「ウィンターW」というような「見立て」もあることを知る。「冬の大三角形」という「見立て」しか知らなかったところから、「もうひとつの見立て(冬のダイヤモンド)」を教えてもらっただけで、もう夜空が友だちになった。きっと、子どもたちの世界が広がるのもこんな風なのだ。
 

1月 園長だより

        ほめてあげてください
 
 昨年秋より、出会いがあって、子どもたちの発達支援のため、スクールカウンセラーの大石早苗先生のご協力を得ている。月一度の「芽ぐみの会」の日には、個別相談やクラスの巡回をしてくださると共に、集まってこられた保護者たちと自由に懇談して、その声に耳を傾け、子育てのヒントを与えてくださっている。
 そんな中で、先生がよく言われるのは「子どもたちをほめてあげてください(傷つけるのでなく)」ということだ。「そうすれば、子どもたちは育っていくのです」。ハッとして、思い出した。前の所属教会のメンバーで保育者でもある横坂幸子さんが、成長が遅く、しばしば的はずれな、今は中一の我が子の、良いところを見つけては、キラキラした目で伝えてくれたことを。
その時、本人も、ほめられて、小鼻をうごめかしていたし、親は親で、我が子もまんざらではないと思って嬉しくなったものだ。幸子さんからは、時々、そんな報告があって、わたしたち親子は育てていただいた。同じように、聴覚障がいを持つ親子も、その絵心(絵や写真の芸術性)や軽妙な手話を見出されて、年々、存在感を増して行った。
わたしたちのうちで育ったのは、「自尊感情」だ。自分は大切な存在だと思えるとき、わたしたちの表情は豊かになった。その言葉も、行動も生気を帯びた。こうして、わたしたちは、ちょっと自信を持ち、その狭いカラを破って外の――厳しいところもあるけれど、自分の可能性を拓いていける――世界へ出て行けた。「めぐみ」の子どもたちも、きっとそうなって行く。
 

12月 園長だより

        人生の春の中の四季めぐり
 
 落葉樹が好きだ。めぐみ幼稚園前のケヤキ通りの樹々は、今年の秋も紅葉を楽しませてくれたが、今は、木枯らしに枯れ葉をふるい落とされて行く。毎日、子どもたちを見送った後、先生たちがそれを掃き集める。もうしばらくすると枝ばかりとなろう。
 落葉集めを手伝っているわけではないので、言えたことではないが、これは晩秋の風物詩である。紅葉で終わればいいとは思わない。落ちるところに風情がある。黄色いイチョウの落葉の絨毯などには、新雪のような神々しさを感じる。
落葉樹の美しさは、落葉で終わらない。札幌にいた時、葉を落とした樹木のシルエットがなまめかしいのに感動したことを思い出す。雪に映えるのはクリスマス・ツリーとなる常緑樹だけではないのだ。これは住んだからこそ知り得たことだ。
落葉樹の裸木は、冬は日差しを集める。血の通っている樹の根本はいち早く雪を融かし、そこに福寿草の黄色い花を咲かせて、歩くスキーや「かんじき」で森に入る者の頬を緩ませる。やがて、芽吹きが紅色に山を笑わせると、透明な新緑が恥ずかしそうに葉を広げていく。
人生の春と言える子どもたちの一年の中にも四季がある。一年成長して、次の学年になると、やはりその学年の中の春を過ごし、夏に力強く緑を濃くし、力をつけて秋を迎える。古い葉を落とすのも成長のため。ほら、裸の心身が去年より大きくなっている。
 

11月 園長だより

     今治で一番はじめにバザーをやったのは?
 
 今年も、「はや」バザーの季節がやってきた。もっとも、春から「めぐみセール」などの準備にあたられている保護者の方々にとっては「いよいよ」ということになる。あちこちでバザーをやっている今日、めずらしくもないが、この町で、かつてバザーと言えば、今治基督教会(わたしたちの教会の旧称)のバザーであった。
最初のバザーは1927年(昭和2)のこと。教会有志が1922年(大正11)に町の(タオルなどの)工場で働く家庭のために立ち上げた今治託児愛育園を支えるためであった。同園は今治で最も古い保育園である。当初、同じキリスト教会の救世軍(社会鍋など社会奉仕で有名)が運営を担ったが、ほどなく当教会婦人会が引継ぎ、今治空襲で焼失するまで続けられた。
開かれたのは6月10日の「時の記念日」。この収益によって、10月5日には「託児所の新館定礎式を行」い、「12月20日には大正通りに之れが竣成を見るに至り」、明けて1928年(昭和3)2月1日に、式典の日を迎えている。その後も、お寿司だけで2,500食という毎年のバザー収益(園経常費の1/3ほどにもなった)で、子どもたちとその家庭を支援した。
戦後、保育園事業は今治市の行うところとなり、教会は新たに今治めぐみ幼稚園を生み出して、幼児教育の業に仕えてきた。いつからかバザーも11月3日となる。開催日は変わっても、また、幼稚園が学校法人に替わっても、収益の用途の比重は変わっても、最初のバザー同様、町の人々と共に幼児教育を支えている。今年は、被災地の子どもたちをも憶えつつ働きたい。
 

10月園長だより

  子どもたちの「石ころ探し」に気づいていますか?
 
 牧師室(園長先生のへや)には、最近、こどもたちが入り浸っている。お目当ては、わたしの持っている『こびとづかん』(前回紹介)のシリーズだ。その脇で、最近注目されることもなく、寂しそうにしているのが、ガラス容器に水を張った中に住まっている石ころたちである。
 部屋を訪ねる人々は、メダカか金魚がいなくなった水槽だとでも思うのか、こう言う。「これはいったい何ですか」。「石ですよ」。するとたいてい、こうだ。「なんで石を水の中に入れるんですか」。「きれいだからですよ」。そう、乾いた石を濡らすと、石本来の輝きが戻って来るのだ。
 皆が不思議そうに聞くので、ちょっと孤独感もあったのだが、同じ感覚の人がいることを知って、ほっとした。NHKの番組「ココロとカラダ満つる時間(とき) おふっ、」に登場した、石大好き女優・とよた真帆さんだ。彼女は、オフになると、渓流等に石探しに入る。
 探されているのを待っていた石を拾いあげると、地球活動の悠久の歴史の中で石が石となるまでを想像する。石ころというアイコンをクリックして、何枚ものウィンドウを開き、タイムトラベルするわけだ。そして、こう言う。「石は、地球のドラマが詰まったプレゼントなんです」。
 子どもたちは、由来を知らずとも「地球からのプレゼント」が好きだ。「すてきな石ころを探してみよう」と声をかけると、目の色を変え、気に入った石を拾ってきて講評を仰ぎ、好評を博すともう一個を求めて駆け出す。子どもたちの世界には、石以外にも「石ころ」が一杯ある。
 

9月園長だより

      げいじゅつざんまい?のなつやすみ
 
 お盆休みに、家族で高知に墓参りをした。宿泊のチェックインまで間があるということで、近くにある高知県立美術館に向かった。周囲に広く水を張った美術館へは、水の中の通路を進んで入場。開催中だったのはミロ展とトリックアート展。下の二人は後者を中心に両方を鑑賞。
抽象芸術の好きなわたしが、ミロの作品をやっと半分を観終えたところで迎えが来て、終了。ここで、ホテルに帰る組と、もう一館行こうという組に分かれる。わたしたち夫婦と怜が目指したのは、高知城脇の高知県立文学館で開かれている「なばたとしたか絵本原画展」。
『こびとづかん』と言えば、「ああ、あれね」と言われる方もいよう。こども芸術学科で学んでいる次男が食い入るように見るのは当然として、あの怜までが、一枚一枚興味深く眺め、絵本原画が連続ページで並べられている所では、声に出して読み聞かせてくれた。
 夏休みの終わり、母校・同志社で2年に一度行われる協議会のため、京都に出かける。夜は次男のアパートに一泊。わたしの目当ては、二か月ほどの間に書いたという彼の鉛筆画(65×50cm)50枚だ。ノートや教科書に書き散らかした「落書き」をもとに描いた習作には秀作も。
居室にあったスズキ・コージの原画はトイレ壁面へ移動され存在感を回復。その上方にトイレットペーパーの芯を何百本と積み重ねているのはちょっとしたオブジェ。何かが動くと、心が動く。心が動くと人が輝き、世界が輝く。「生活は芸術、芸術は生活」とは、誰かの名言。
                                                         こびとづかんの画像(プリ画像)
 

8月 園長だより

      なつやすみだからできること

 夏休みに入った最初の月・火、今治教会の子どもの教会では、休暇村・瀬戸内東予キャンプ場にでかけた(卒園児も多数)。自然の中のキャンプサイトには珍客も現れる。日頃、草や木の枝にくっついて擬態(カモフラージュ)しているナナフシは、テントに張り付いてバレバレ。
擬態と言えば、浜では、同じくカモフラージュの名人のハマトビムシとハマダンゴムシ(わたしたちがよく知っているのはリクダンゴムシ)も、風化花崗岩を母岩とした砂粒に紛れていたが、子どもたちの来訪に大慌てであった。
日が暮れると、本来、木立の中に紛れているミヤマカミキリ、ゴマダラカミキリ、コクワガタ、カブトムシなどが、光に誘われてやってくる。虫好きの子どもたちは、すかさず捕らえて、我がものとし、飽かず眺めている。
子どもたちが寝静まった夜中、不寝番のわたしは、はくちょう(座)がゆっくり飛んでいくのを眺める。やがて、夜の底が白んでくると、明けの明星のみが輝く。それも消えると、雲に遮られながら、朝日が神々しく光を増していく。嵐(子どもたちの目覚め)の前の静けさ。
たった一泊だが、わたしの幼き日の「センス・オブ・ワンダー」が甦った時間であった。なつやすみだからできることは、思いがけない所に満ちている。最後になるが、天文年とも言える今年、大人のためにもう一つのワンダーがある。8月14日未明の金星食をお見逃しなく。
 


7月 園長だより

        
       
それならできそうです              
                                     
 先日、歯科検診が行われた。田中丈博(若)先生の前で、大きく口を開けて、歯を見てもらう子どもたち。百人あまりの小さな歯を点検した先生を牧師室に迎えて、印象を聞かせていただいた。
 どう評価されるかと待ち受けるわたしに、先生は、口を開くや、「おおむね、良い」と言われ、ほっとした。おうちで、「♪しあげはおかあさん/おとうさん」をよくやってくださっていること、園でもお昼ごはんのあと、よく口がすすげていることがうかがえた。
 続いて、歯を守るためのあれこれを聞かせていただいた。ここでは、わたしが先生にぶつけた一つの問いを巡るやりとりだけを紹介しよう。「先生、完全に磨くのはたいへんですよね。何分も磨くなんて、自分のことでも、できません」。
「毎回完全に磨けなくてもいいんですよ。今回はここを中心に、次はここ、そして、その日のうちに、全部に行き届けばいいのです。」「ああ、そんなことでいいんですか。それならできそうです。毎回完全にはできないので、どうせできないと諦めてしまっていましたから。」
もっとも、先生はこうも付け加えられた。「それでも、磨き残しは出てきます。定期的には専門家に見てもらって、きれいにしてもらうといいですよ。わたし自身もそうしてもらっています。(歯)医者の不養生ではだめですからね。」気負いのない先生の言葉に癒された。
 

6月 園長だより
 
        いのちの息が吹き入れられると
                                  
 
めぐみ幼稚園のシンボルは「こひつじ」だ。今治教会員だった倉永由美子さんのデザインで、園バスにも登場する。これは、神さまとわたしたちを羊飼いと羊の関係にたとえている聖書による。だから、描かれてはいないけれど、「こひつじ」には、見えない神さまが共にいる。
いのちのはじめは誕生日。神さまが備えてくださった力が、母羊の出産を助ける。母羊が分娩を終えて起き上がると、臍帯は自然に切れ、子羊は産声をあげる。母羊が子羊の体についている粘液や粘膜をきれいに舐め取ると子羊の体は乾き、刺激で血がよく巡るようになる。
しかし、母羊が難産などで疲労し起き上がれない場合には、羊飼いが臍帯を切ってやる。仮死状態で生まれれば、羊飼いは、母羊に代わって、子羊の体、特に、鼻周辺に付着して呼吸を妨げる粘液や粘膜を拭い去る。鼻から息を吹き込んで自発呼吸を促し、胸をなでて刺激する。
 とりわけ、「いのちの息」によって子羊が危機を乗り越える場面は、遠い昔から人々に鮮烈な印象を与えてきた。こうして生き始めた「こひつじ」のいのちがよどまないように、羊飼いである神さまは、その後も、「いのちの息」を吹き込んでくださる。
あまり知られていないが、クリスマス、イースターにならぶキリスト教の三大祭の一つをペンテコステ(今年は5月27日)と呼ぶ。この日、イエスと別れを告げた弟子たちに、神さまの息が吹き込まれた。すると、彼らは力強くイエスさまの愛を生き・伝え始めたと言う。
 

 

5月 園長だより

    「天地創造物語」と『色の女王』
 
 子どもたちと共にする毎週の礼拝で見る、子どもたちの表情が、いつも楽しみだ。先週の聖書は、混沌とした世界に、神さまが「光あれ」と言われると、光が生まれて闇と分けられ(1日目)、そこから、美しい世界が誕生していく物語。
 次いで、上の水(空)と下の水(海)が分けられ(2日目)、海と陸が分けられる(3日目)。光と闇には太陽と月・星が(4日目)、空に鳥、海には魚が(5日目)、陸には草や木、動物、人間が創造される。混沌から光によってコスモス(調和した宇宙)が現れる。そんな話。
 ふと、ユッタ・バウアー『色の女王』が浮かぶ。女王が、ある朝、城から出て、家来を呼ぶ。青、次いで赤、最後に黄を。しかし、皆でけんかとなり、全ては、灰色の世界に。女王の涙が止まらない。でも、こぼれ落ちた涙で、灰色がうすれていき、色たちが戻って来る。
「似ている、天地創造物語に!」そう思ったわたしは、子どもたちの前で、画用紙にいろんな色のクレヨンを走らせながら物語る。やがて、色たちが自己主張し出して、でたらめに混ざり合うと、なんとも嫌な色に変わって行く。子どもたちの顔も曇る。
そこに「光あれ」と神の声。光によって自分の居場所をみつけて輝きだした色たちは、やがて、仲よく色のダンスを始める。世界全体が輝き始める。子どもたちの顔もパッと明るくなる。神さまの声が聞こえる、「いつでも仲直りできるよ(やり直せるよ)」。
 
 
 

 2012年4月 園長だより
      
        もうしばらく見てみよう 
                 
 わが家の小さな庭で、スノーポール(キク科の白い花)が二か所、丸い花束のようにふくらんでいます。春の庭の主役にと期待し、今、花盛りのチューリップを、引き立てるどころか、「しばらく見ているうちに」自ら庭の主役になっているのです。
 門に近い方のスノーポールの脇には、矢車草が背丈を伸ばしており、主役をうかがっています。一方、寒い冬を生き延びたマツバボタンが、夏の主役はわたしたちだと、密かにエネルギーをため込んでいます。実際、昨夏も狭い庭を、いつのまにか、覆い尽くしました。
 問題は、チューリップの周りに生えている草です。わたしはタンポポ科(キク科タンポポ属)の雑草だから抜こうと主張しましたが、妻は、矢車草だと主張して譲らず、「もうしばらく見てみよう」ということになりました。結局、最後まで見届けることになるのかもしれません。
 雑草(ゴメンナサイ)も、よくよく見ると、かわいらしい花ない庭の彩りとなっています。つくづく、それぞれがちがった出番を持ち、ちがった役割を持っているものだと思わされます。
めぐみの子どもたちの新しい庭は、どうなるでしょう。めぐみの園丁(せんせい)たちは、さりげなく並べ方や組み合わせの工夫をしながらも、それに頼るよりは、ひとりひとりの子どもの成長による絵柄の変貌を楽しみながら、子らと共に、季節を旅して行くことでしょう。
 

3月 園長だより
       
              神さま、みーつけ                                    
 年少さんとひよこさんの礼拝でお話をしました。その日の聖書の言葉は、ヨハネの手紙一4章16節で、「神は愛です」でした。とっても簡単なことばですが、わかったようでわからない。そこで、子どもたちに聞いてみました。「神さまを見たことがありますか?」「神さまはどこにいるでしょう?」すると、みんな「上の方」とか、「あっち」とか言ってくれました。くびをひねっている子もいました。そこで、わたしは、「神さまをさがしてみよう」とよびかけたのです。
 そして、前にいた「カナちゃん」を膝に乗せて、「ここに神さまはおられます」と言いました。キョトンとしたり、「えー?」という表情をしたりする子どもたち。でも、隣の子、また隣の子、「ここにも、ここにも神さまはおられます」というと、だんだんニコニコしてきました。
 こんどは、あかちゃんの真似をして、「みんなも赤ちゃんになってください」と呼びかけました。「ここにも、ここにも神さまはおられます」、こんどはおじいちゃん・おばあちゃんになってみてください。ちょっと腰を曲げてみるみんな。「ここにも神さまはおられます」と、わたし。
 「それでは仲よくハグしましょう」、子どもたちがニコニコ、ハグを始めると。神さまの愛がいっぱいに広がります。でも、わたしが若葉せんせいと喧嘩を始めると、なんだか神さまが見えなくなります。でも仲直り……。愛が戻ると、神さまが近くに感じられるようになりました。「愛のあるところに、神さま、みーつけた!」。だから、ほんとうに、「神は愛です」。
 
 

2月 園長だより

    ふじたせんせい、ありがとうございました!

                                   
 ピンクバスが園に到着すると、「ふじたせんせい、ありがとうございました!」、子どもたちの声が響く。そして、ちょっと緊張気味に、子どもたちがステップを降りて玄関に上がる。その顔には、新しい一日への健気な決意がみなぎっている。
 一方、「ふじたせんせい」は、添乗の教師が交代すると、第二便を発車させる。教師からは、休む子が誰で、親が送ることになった子が誰なのかが伝えられる。慎重にアクセルを踏んで出発。信号では、青になってもすぐに動かない。赤で突っ込んでくる車もあるからだ。
道々、アンテナを一杯に広げ、あらゆる情報をキャッチして安全に努める。他園のバスが通ると、にこやかに挨拶を交わす。無理な運転をする車に対しては、こちらの権利を主張してもいいのに、ぐっと飲み込む。子どもたちを、安全、快適に、園へと運ぶ。都合で道を変えることもない。家を離れ、気が張っている子どもに、余計な負担をかけないための心遣いだ。
細心の注意を払っても、相手のあること。「ひやり」「はっと」もないわけではない。だから、毎朝、掃除、点検をしながら、冷静な運転を自分に言い聞かせる。そして、出発。一人一人子どもを乗せて走る。正門をくぐって、幼稚園の玄関に着く。バスのドアが開くと、子どもたちの声が響く。「ふじたせんせい、ありがとうございました!」 にこやかに笑顔を返す。
 
 

1月 園長だより
      かけがえのない記憶
                                    
冬休み、我が家に、怜(6年生)が待ちかねたお兄ちゃんたちが帰省してきた。社会人1年生、大学3年生、全寮制高校1年生である彼らの願いは、久しぶりの巣でダラダラしたいとのこと。といっても、小学校教師である長男は、さっそく怜の縄跳び特訓に精を出した。絵本作りをしている次男は、ペンを片手に机に向かっている。三男は大好きなオシャレに余念がない。
歳も押し詰まると、だんだん、念願のダラダラ生活へ。それでも、元旦礼拝後の牧師館(我が家)のオープン・ハウスに向けて、大掃除と会場設営。ふすまを外して広間に変え、卓を運んで宴会場に。当日は、礼拝後一足早く家に戻り、お客様を迎える最終準備。そして、料理や飲み物を運ぶ。
一大行事も終わって正月二日は母方の実家(松山)へ、三日は父方の実家(高松)へ。彼処では祖父とカラオケ、此処では祖父とボーリング。おもしろいのは、隠しきれない、飾り切れない素の彼らが見られるところ。定点観測でもないが、同じことをする中で、身体能力、がまんづよさ、周りへのいたわり等、成長の度合いが分かる。
 高松では、恒例で、その夜のメニューが孫たちに託される。長男曰く「やっぱり、メインは、おじいちゃんの焼き鳥(鶏もも肉のタレ焼き)。伝授してもらわなきゃ」。祖父「じゃあ、響、火を熾してくれよ」。「もちろん」。父親の実家では、これを食べないでは済まされないというわけである。焼き鳥を含め、何気なく繰り返される毎年の営みが、かけがえのない記憶となって行く。それが心を育てる。めぐみ幼稚園では、いつもの餅つきで、新学期が明ける。
 


12月 園長だより
    えんちょうせんせい、なんしよん
                                  
わたしたちの園に、日本基督教団の雑誌の取材が来たことがある。雑誌の表紙を今治教会の絵で飾るために、画家の金斗鉉さんがやってきたのだ。斗鉉さんは、その時のことをこう振り返る。「幼稚園児に囲まれてのスケッチは楽しい。いつのまにか僕のまわりに小さい画家たちの輪が出来た。……『わたしは……じゃけん』と話しかけてくる子どもたちといつまでも一緒にいたかった。」
「たしかに、たしかに」、とわたしは思った。「どこの子どもたちも好奇心旺盛で、人懐っこいが、今治の子どもたちは他所にもましてそうだ。」時には、彼らがしばしば、「えんちょうせんせい、なんしよん」と聞いて来るのを、「今は、お仕事しよんよ」とか、「もうすぐおでかけせないかんのよ」とか、分かるように説明するのに手こずっていた。
先日、伊予三島の教会を訪ねたとき、着任2年目のわたしに、教会の方々が問うた。「今治はどうですか。」その際、上に述べたような子どもたちのようすのことを話すと。皆口々に言われるには、「『なんしよん』というのは、三島でも使うんやけど、『いまなにしてるの』という意味ではなく、『せんせい、あそぼ』『せんせい、あそべない?』という意味なんよ。」「目からうろこ」とはこのこと。とたんに、子どもたちのその時の表情と言葉とがつながった。
もっとも、口調によっては別の意味にもなる。「そんな子どもの気持ちも分からんと、園長先生、なんしよん!」
 
 

11月 園長だより
    このリンゴを見て、描いてください
                                    
園のチャプレン・大澤香先生から、今月のテーマについて学んだ。11月は「目を凝らす」である。いつもと違うのは、その日に限って、香先生が、教師たちに白い紙を一枚ずつ配ったこと。皆、内心これは何だろう?といぶかしがった。すると、先生はリンゴを取り出して、テーブルの上に置き、「このリンゴを30秒で描いてください」と指示する。
「静物画のデッサン?」と、少々身構えながら、「恥をかかないように」、懸命に取り組む面々。暫し響く鉛筆の音……。わたしは「もう一筋引きたい」と悪あがきするも、あっという間にタイム・アップ。香先生の次の言葉に耳を澄ます。
「皆さん、『このリンゴを描いてください』、と聞いて、『この』リンゴをよーく……見られたのではないですか。もし、『リンゴを描いてください』であったならどうですか。きっと、一般的なリンゴのイメージで描いたことでしょう。」とたんに、教師たちの顔に納得の笑顔が拡がった。
確かにそうだった。わたしは、リンゴの下の方に、少しくすんだ部分を見つける一方、上部には光を照り返して輝く赤い色に目を留めていた。『この』リンゴに「目を凝らし」ていたのだ。香先生は、こうして、難しい説明を加えずに、子どもたち一般ではなく、その一人一人に「目を注ぐ」ことの大切さを納得させてくれたのだった。
 

10月 園長だより                
    
天は神の栄光を物語り、大空は……
                                
秋めく日々の中、牧師たちの研修に出かけてきた。行き先は琴平。2日目のフリータイムには、共にソフトボールを楽しんだ後、6名だけで「こんぴらさん」の奥社まで登った。行きは、涼しの杜と名付けられた山道を、誰ともすれ違うことなく進む。
多くの人が使う長い階段の道と途中で合流し、さらに肩で息をしながら歩くと、やっと到着である。それまで木々の隙間からかろうじてみえていた眺望が、一気に開ける。眼下には飯山(讃岐富士)が遠慮がちに頭を突き出した讃岐平野には、稲刈りを控えた充実の実りが広がる。 
遠くには、瀬戸大橋が、目を右手に向けるとうっすら屋島や五剣山まで見える。恵みの神さまが見ておられる風景に、ほんの少し近づいたような気がした。
帰りの道はひたすら石段を降りる。やがて本社の威容と、これに詣でる人々の祈りの姿を目に入れながら、また降りる。もうここまでしか登れないと諦めながら、遠くに思いを馳せて手を合わす人がいる。心打たれながらまた降りる。左右に土産物店が続くようになった。
ふと気づくと、登りの若いカップルが、道の真ん中で携帯電話の写真撮影機能を使って、上を見上げている。何を見ているのだろう。電線しかないのにと通り過ぎる。でも気になってまた振り返る。足を止めて、彼らと同じ方向を見上げると、そこには、天高く、秋の絹雲が泳いでいた。この大空の下で、こんどは子どもたちが神さまから与えられた手足で駆ける。駆ける。
 


9月 園長だより 

塩ニモマケズ 夏ノアツサニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
                                  
1学期が終わった直後、台風6号の影響で、元々予定していた日程の夕涼み会は中止になった。もっとも、北上していた台風は東に大きく旋回し、やがて大風も止んだ。「ああ、よかった」と胸をなでおろした。ところが台風は思わぬ副産物を残して行った。塩である。
その日、窓には白く、ねっとりしたものが付着した。日が経つと、街路樹や庭木の葉が枯れ始めた。台風が海水を巻き上げ、樹という樹に吹き付けたのだ。塩を必要量摂取出来る動物に対して、摂取した塩分をコントロールできない多くの植物は、本質的に「塩嫌い」だから、まともに塩を受けると枯死する。東日本大震災での塩害を思い起こしてほしい。
8月に入ると、園庭の桜樹も、ケヤキ通りのケヤキたちも、その葉をすっかり茶色に変えてしまった。数えきれない掌で太陽の光を受けていた樹は、一体どうなるのだろうと気を揉んだ。しかし、8月も半ばにさしかかると、淡い新緑が枯れたように見える枝先からこぼれ出始めた。元気よくとは言えないが、少しずつ、仲間を増やしながら……。ほっとした。
25日から30日まで、ボランティアで、仙台、石巻を訪れた。そこで長くボランティアのお世話をしている人が言った。「これでも、ずいぶん緑が増えてきたんですよ」。再生した緑を見ながら、被災した人々の「いのち」も再生し始めている。さあ、新学期。自園式給食も始まる。子どもたちの中にある「いのち」がますます輝きを増すよう、仕えて行きたい。
 
 



8月園長だより
     ♪神さまください……遊ぶ力を
                                  
7月、ほし組に教育実習生のKせんせいが来てくれた。事前の実習は終え、今回は仕上げの実習である。ご本人は、テーマを定めながら、保育計画を練っておられた。そのテーマは、音感・リズム感等、子どもの応答する力を呼び起こすことだと、聞かされていて、それがどのような具体的プログラムの中で実践されるのか、楽しみであった。
2週間の実習の最後は、一日実習。設定保育の始め、「むすんでひらいて」の手遊びの変形で、うさぎ、カエルなど「動きながらいろいろなものに変身することを(Kせんせいと)楽しむ」子どもたち。次いでウッドブロックの音に合わせて、歩く・走る・スキップ。日頃の様々な動きの中にリズムがあったことを発見する喜びが、子どもを笑顔にする。
せなけいこのロングセラー絵本「ねないこだれだ」の読みきかせでは、Kせんせいのピアノで、フクロウ・くろねこ・ネズミ・どろぼうの「気配」が立ち上がると、子どもたちもその空気に同調する。双方向的な絵本の時間は、教室をミニ劇場に変えた。
午後のフルーツバスケットでは、子どもたちのルール把握の度合いの違いで、Kせんせいの想定外の事態も見られた。しかし、子どもたちは、クラスの中で培ってきた「遊ぶ力」で、アクシデントを乗り越えながら、ゲームを成立させていた。
 こうして、Kせんせいのすてきな一日プログラムは、子どもたちの力によって見事に完結させられたのだった。
 
7月園長だより
           子どもと共に神さまに向かう
                                 
前任の新潟教会に横坂幸子さんという方がいた。北海道等で牧師を務めた父親を持ち、ご自身は、キリスト教保育の伝統校・聖和を出て、同附属幼稚園でも働かれたことがあった。新潟では地域の子育て支援に尽くされると共に、教会では教会学校の子どもたちを愛された。
そのまなざしはいつも保育者のもので、うちの子どもたちについても、親としては「やれやれ」とため息をついているところを、「響ちゃんは、こんないいところがあるんですよ」と、我が子の可能性に目を開かせてくれたりした。
そんな、幸子さんが、あるキリスト教雑誌に「祈り」について寄せた文章は忘れられない。
 付属幼稚園に勤め始めたころ、私は大きな失敗をしました。……教えることに捕らわれていた私は、子どもたちと共に神さまに向かうのではなく、「お祈りはこうするものなの」とばかりに、子どもたちに対して祈っていたのです。……しかしある日、礼拝のなかで自分の両側に立った二人の子どもたちの肩を抱いて、「みんなと一緒にあなたに祈れることを感謝します」と祈り始めた時、子どもたちは生き生きと自分の言葉で祈り出したのです。私の祈りの途中から、自分の祈りを加えていく子どももいました。私が風邪をひいて、かすれた声で「神さま……」と祈り始めた途端、隣にいたJ君は、「先生はいま声が出ないんです。大変なんです。良くなるように守ってください」と祈ってくれました。
子どもを見おろして何かを伝えるのでなく、共に見上げて何かを受け取って行きたい。
 



6月園長だより

 
「きみがすきだって」って だれかぼくに いってくれたら
                                  
26年前、20代の僕は、牧師の卵として今治教会に来た。めぐみ幼稚園ではチャプレンの役割。「あたらしい先生」をまっさきに歓迎してくれたのは、当時の年長「ほしぐみ」「ひかりぐみ」のこどもたち。さっそくなかまにいれて遊んでくれ、僕はめぐみ幼稚園の一員になれた。
受け入れてもらった記憶は古びない。心がそれを憶えている。去年の春、23年ぶりに、今度は牧師として今治に帰って来て、あの時の年長さんの数名と再会した時、蛹の殻を破って、眠っていた記憶が、じわじわと広がって行った。
その一人が、今週末、結婚する。その司式を僕がする。パートナーとなる彼とも会った。リハーサルもやった。彼女手作りの式次第はもう手元にある。今、あの頼もしくも愛おしい幼子が、喜びと不安と緊張の中にいるのに同調している自分がいる。
当日の式は、彼女の希望通り、子どもの教会のこどもたちも見守る中で行われる。結婚の誓約の後には、みんなでこんな風に賛美歌を歌う。
♪「きみがすきだ」って だれかぼくに いってくれたら ソラ 元気になる
♪「きみはだいじ」って だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく
 
 
 



5月園長だより
     さいごのひとつぶのなかに
                                  
4月の誕生会の後に、みんなで食卓を囲んだ給食の時間、ほしぐみさんの一テーブルに招かれ、隣の給食室でつくられたメニューに箸を進めた。メインディッシュは「スズキのムニエル」。テーブルでは、「これはサケとはちがうんよ。サケのみはあかいんよ」と講釈してくれる子に、「そうなんよ」、「そうなんよ」と合いの手が入る。白身の、身も心も文字通り「すすが」れるような味わいに、会話がうまみを添える。
食べ終えて、床にこぼれたご飯粒や、野菜片を拾い上げていると、Yちゃんが、声をかけてきた。「さいごのひとつぶのなかに、かみさまがおるんよ。」不意を突かれた。どきっとした。そして、すごいなと思った。おかあさん、あるいは、おばあちゃんから聞いたのかもしれない。でも、彼女の心の中にちゃんとキャッチされた言葉である。本当だ、「神さまは、最後の一粒の中に、本当におるよね」と返すのがやっとだった。
園は、今、自園式の給食をめざして「おためし給食」に取り組んでいる。「食」を通して、「いのち」を実感し、「いのち」に感謝することができるように、と。子どもにもそれを伝えよう、と。でも、もう子どもからそれを教えられている。
 

2011年4月園長だより
       ようこそ、めぐみ幼稚園へ
                                   
春休みの園庭は、さぞ静かだろうと思いきや、「預かり」の幼稚園児、卒園児、小学生らで賑わった。エネルギーに満ち溢れるこどもたちが、お手伝いの先生たちに見守られながら思い思いに遊ぶ。お昼にはピクニックに行く日も。
その一方で、新しい年度の準備が進む。担任の先生たちは、新しい子どもたちの名簿を手に、新しい巣づくりに意匠を凝らす。少し前には、名残惜しそうにクラスの後片付けをしていたけれど、今は、心を前に向け、いそいそと手足を動かして、キラキラ眼(まなこ)を迎える準備だ。
一日の預かりを終えた夕刻、幼稚園のスタッフが、山形の高校に進学する我が子のために壮行パーティーを開いてくれた。「こどもの教会」の同級生たちも集って一緒に飲み食いし、順に園庭に繰り出してはミニ・テニスに興じる。そういえば、中学3年生で転校となった彼を、一年前の春休み、誰よりも早く歓迎してくれたのが「めぐみ幼稚園」だった。
入園する子どもたち、新しいクラスになる子どもたち、ここが、君たちの舞台です。心から歓迎します。ようこそ、めぐみ幼稚園へ。
<<学校法人今治キリスト教学園  今治めぐみ幼稚園>> 〒794-0043 愛媛県今治市南宝来町1-1-6 TEL:0898-23-0717 FAX:0898-35-0515